TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

新自由主義社会は高コスト社会である

2006-01-31 22:14:38 | 幻論
なぜならば、何についても自己責任となれば、たとえば建物を建てるときならば、自分でチェックを細かくしなければならない。一生の買い物ならば、仕事どころではない。

食品を買うならば、化学に関する知識が膨大に必要となる。表示されていないものが入っていても、自己責任。分析装置もいるかも。分析会社に出せば、1点10万円くらいするね。

性善説が成立するならば、新自由主義も良かろう。だが、オジャマモンなどが跋扈したのが新自由主義だとするならば、新自由主義などそもそも市井の人にとっては高コストなのだ。

こんなもの、糞食らえだ。
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自民党は当事者能力さえなくしたか・・・

2006-01-30 22:18:24 | よしなしごと
正直な話、好悪の念を離れれば、日本には二つの党しか当事者能力はないと考えてきたし、今も考えている。それは、日本共産党と自由民主党だ。

で、今日の、中川大臣の答弁を見て、もう自民党は駄目かな、と本気で思った。閣議決定違反をやっておきながら、完全に開き直っている。これではいくら無能な野党と雖も、何とかするだろう。


時代の大いなる転換になりそうなので、記念カキコ。
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西遊記は面白い

2006-01-30 21:59:49 | よしなしごと
だけどなあ、神様が出て来て悪い奴を天上界で裁くって、何だ??

大暴れなければ、カタルシスがないやんけ。仏法に沿った暴力で悪い奴を諌めてこそ、悟空。
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国家とかあだ討ち権を考えてみる

2006-01-29 11:16:07 | 幻論
気になる作家、元突破党党首、宮崎学氏のブログを見て掲題のことを思う。

人類最高の理想はアナキズム(老荘思想も仏教も究極としてはマルクス主義も)。その観点では、国家に依存することは無理。国家がないんだから。落とし前は自分たちでつける。非常に共感する。

ただ、今現在、可能なことを考えてみると、人殺しを自分で探すのは可能だろうか。特に、ビョーキの犯罪に関して。

個人に出来ることは限界がある。結局、他人や他者(これは、自分の属する共同体外をも含み、権力という疎外態も含む)の能力を利用するしかない。

権力発生の根拠は、様々な不平等である。それは、制度的なものとともに、生来的なものにも依拠する。消極的であれ、積極的であれ、多くの人が権力構造を是としたとき、それは維持される。異議を唱えても、大抵は権力はそれをも内包する。そして、それを利用することを(極)一部構成員全員に認めることで、権力は維持される。

警察に犯人探しをしてもらうというのは、上の構造に加担することである。だが、ほかに手はあろうか? 現実の前にアナキズム個人は立ちすくむ・・・。突破できるとすれば、覚悟だけだろう。だが、それはどれだけの人が持てるだろうか。


さて、裁判というものも、同じである。これも一つ目は権力維持の装置である。それから個人を取り戻すには、おそらく、呉智英氏の言うように、あだ討ち権(=生殺与奪の権を被害者やその係累に与えること)しかなかろう。しかし、それも考えれば、非常に限定的なものである。

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宮崎学氏と言えば、今、『アナ・ボル論争』を読んでいる。山川均の言うボリシェヴィズムは、我々の知る(色々純化された)ボリシェヴィズムとはかなり様相が違う。歴史が下れば、様々な可能性は広がるよりも狭まるほうが実際のことらしい。アナ的ボル、ボル的アナ、純化によってどちらもいなくなる。こういう「進化」は進化というべきなのだろうか。
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読書メモ:『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』

2006-01-28 13:38:11 | 読書
『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』(平井玄著、太田出版)

 ミッキーマウスと言うと我々が頭に浮かぶのは良い子のネズミ、アメリカの豊かさと正義を象徴する、世界でたった一匹愛されるネズミである(千葉浦安の富士額ネズミと嫌う人もいるが)。しかし、元々は反共になる前のウォルト・ディズニーが描き、ヴァルター・ベンヤミンが論評した姿――1928年の蒸気船ウィリーで原始的なロボットのような、顔は動物の無表情を残し、天衣無縫な動き、イマジネーションとスピードと行動力で世界はどうにでも作り変えられるというメッセージをもった姿――すなわち、マルクスが幻視した解放主体としてのプロレタリアの姿である。確かに、このプロレタリアは文字通り、『失うものは鉄鎖のみ』であり、『自由な人間の自由な諸連合』を可能と思わさせる。

 一方、第一インターの破産から第二インターの成立の時期、そして我々がついこの前まで生きていた世界におけるプロレタリア像は、エンゲルスの時代から使われてきた言葉――工場労働者――特に大工場労働者の姿ではなかろうか。この流れは、自由主義段階から独占段階への変化、そしてテイラー主義~フォーディズム~QCという生産過程の革命により決定的となった。その中でネズミたちは革命への理由を失い、組織に従属することでイヌ化した。ここにはマルクスの革命主体はありえないのである。そして、いまや、大企業の工場労働者は勝ち組でありw、イヌである。その状態の完成は1973年だと著者は言う。

 しかし、時代は変わった。イヌ化したプロレタリアートは、アメリカ発の新自由主義の中で選別され、三つに分類されようとしている。フリーターはその前兆であった。また、上のイヌ化を拒否した流れも世の中には著者は皮肉を込めてイヌを分類する。1995年の日本経営者団体連盟の『新時代の「日本的経営」――挑戦すべき方向とその具体策』を引用して。

「長期蓄積能力活用型人間」:長期雇用を前提として自前で努力するエクセレントな「家畜能力活用型犬」
「高度専門能力活用型人間」:高い専門能力を備えても、資本の都合で使い捨て可能にして、成果によってサバイバルさせる「サバイバル能力活用型犬」
「雇用柔軟型人間」:上の二つの下働き、替えはいくらでも利く、餌は死なない程度でよい「生死柔軟型犬」

 しかし、イヌも舐められたものである。一番上以外は、イヌの要件を満たさないではないか。野良犬になれ、ということだ。これはもはや、イヌとしての幻想も持てない。ネズミとしてのプロレタリアート、マルクス的意味合いのプロレタリアートだ。マルクスの時代、流民の一形態として、土着の者には幽鬼のようなものとしてプロレタリアートは見えたと著者は言う。固定の職場を持ち得ないネズミたち、だが、自由に結びつく(あるいは結び付けられる)ネズミたち。現在のプロレタリアは工場労働者ではなく、そのような21世紀のネズミたちである。否、ネズミを外部からもってくるという解決も考えられよう。だが、そうすると日本のイチジクの葉=天皇制が危機に瀕するので、それはできない相談だ。従順すぎるイヌ、あるいはネズミは自前で調達するしかないのだ。イヌ化を拒否する人は、これまでもいた。彼らの群像は、圧涛I力をもってイヌでいたいイヌにも襲い鰍ゥっているのだ。なお、小生思うに、イヌを支配しているとこの本で指摘されている財界の閨閥ネットワークも、所詮アメリカ帝国主義のイヌに過ぎない。日本には、いわゆる人間にたとえられるべき人間はいないのだ。本当の意味での外資がなくても。ホリエモンを失脚させるだけの力はあろうとも、彼らもイヌに過ぎない。

 時代は変わった。第二インターという勝ち組の組織のスローガンではなく、万国の労働者団結せよは、今はこういいかえられるべきであろう。「万国のプロレタリア、自由に結びつき、社会をひっくり返せ!」。おそらく、旧来の意味に限られた労働組合運動にはプロレタリアの未来はないだろう。だが、プロレタリアの結び付きでひっくり返すという可能性は、まだあるのだ。


 一つ、批判的に吟味しなければならない言葉がある。『存在が意識を規定する』。ドイツ観念論のパトスが優勢だった時代におけるマルクスの箴言である。だが、これを敷衍しすぎると、『イマジネーションとスピードと行動力で世界はどうにでも作り変えられる』~『自由な人間の自由な諸連合』を否定しかねない。その言葉に縛られた先は、法則必然論、人間の主体を問わない革命必然論に行き着きかねない。マルクスは、物質的基礎を見つつも、その上で疎外されたプロレタリアートという幽鬼たちの主体にこそ賭けたのだから。ネズミ的イヌに分類されるであろう小生は、さまざまなイヌやネズミと結びつきたいものである。
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