読書メモ:『1988年のパ・リーグ』
『1988年のパ・リーグ』(山室寛之著、新潮社)
個人的なことから。1987年5月、いよいよ腰痛がひどくなり、大学野球のプレーを諦めた頃、子供の頃「打てば三振守ればエラー、走る姿はボケの花、アホ、アホ、アホの加藤!」と野次っていた(苦笑)加藤秀司さんが2000本安打をそろそろ達成しそうだ、ということで見たくなり、大阪球場に行った。そこで、門田さんの二塁打、加藤さんの2千本安打を見た。
長年低迷したホークスであったが、見ていたら投手陣は素晴らしく、一撃ノ秀でた野手も一杯で、若手も伸びてきてこれから強くなるだろうな、やっぱり浪速のチームは南海やで、ゲンさん(途中でやめたけど野球部同期)が中学生の時バッテリーを組んでいた佐々木誠が伸びてきた、ということもあり、自分が諦めた野球の夢をホークスに託して応援するようになった。
スタンドに足繁く通うようになり、「京大生で京都から通っている」ということで一部オールドホークスファンから可愛がられ、筒井ャJリ事件の頃からのホークスの話を聞くようになった。そんな折、「稲尾がロッテの監督やってたやろ、あれ、ロッテを平和台に呼ぶためやで、稲尾は博多に球団を呼ぶ活動をしてたし」と聞いていた。その頃は、四六時中出ていた南海身売りの話題だったけど、具体化する前に消えていた。ただ、翌年、川勝伝オーナーが亡くなった時にひょっとして?という思いはあった。
というのは、その前の年の年の瀬、釜ヶ崎で越冬闘争に参加した時、様々な事情通のおじいさん(所感派上がりの元日共党員)に、「関西国際空港に呼応した難波の再開発で大阪球場はなくなる、ホークスもそのときに身売りする、神戸のユニバシアードがグリーンスタジアムと名乗る、そこに行くことになる」と聞いていたからだ。その時は伝さん次第、伝さんは大昔にホークスを手放す話を漏らして酷い目に遭ったけど、彼が亡くなったらいよいよ、、、とも。
1987年から1989年にかけては、生まれてこの方生で観戦したNPBの試合の七割を占めるのではないだろうか。思い出が多すぎて、本書を読みながら胸が一杯となり、何度も涙をこぼしながら読み進めた。ホークスとブレーブスの身売りの背景と、伝説の10.19を三本柱に、パ・リーグの歴史を絡めて本書は構成されている。
「甦れ 俺たちのライオンズ」という歌がある。怨念と悔しさを感じる、「裏の」パ・リーグのテーマ曲と小生は思う。博多の人間は熱くて冷めやすい。中西、稲尾のライオンズに熱狂したが、日本の産業構造が変わり、石炭が斜陽となるとともにライオンズに回る銭は減り、ライオンズは弱くなった。小生が野球に興味を持ったときはネーミングライツだろうか「太平洋クラブライオンズ」だったと思う。ロッテとの遺恨なんかの演出はあったが、かつての熱気は戻らず、西武ライオンズとなる。残されたファンは失ったものの大きさに気づく。その象徴の歌だった。ライオンズ全盛期、博多の街の学校、職場の話題の中心はライオンズであった。当時の少年達はライオンズの大切さを覚えていた。彼らの多くは中堅どころとなり、経営側に回った人たちは青年商工会議所で球団創設運動をしていた。その活動に稲尾さんも加わっていた。川崎市は「風俗と飲み屋の街、青少年に夢と希望を与えるプロ野球に相応しいだろうか」と市の幹部が言うような街。ジプシーオリオンズは、川崎も安住の地というわけにはいかなかった。誘致運動がオリオンズをターゲットにしていたことは本書に描かれている。
ダイエー総帥中内は、大店法などで拡大路線が頭打ちとなり、伝説の西友ストアとの戦争をしていた。まあ、堤義明は懐深い、ということでw で。拡大路線のためには知名度向上したい、ということで、随分前からNPB参加を目論んでいた。そして、阪神のあの85年の熱狂を見て、近々球団を持ちたいと決意する。そこに、難波再開発のために大阪球場閉鎖、南海ホークス売却方針を知る。先見の明のある中内は、アジアの時代になると読み、福岡を本拠地とすることを選ぶ。勿論、ももちにドーム球場を建設することを考えつつ。鶴岡御大の言葉を借りれば「時の流れ、仕方がない」ということだろう。南海ファンとしては佐々木、湯上谷、岸川、加藤、両藤本らが本当に主力となるまで、3年待って欲しかったのだが。
阪急の身売りについては、本書を読んでもやっぱり納得できない。宝塚野球協会の昔から、野球に力を入れていた阪急。一三翁は「ドラ娘(宝塚歌劇団)とドラ息子(ブレーブス)だけは手放してはあかん、グループの象徴」とおっしゃっていた。だが、ネオリベ糞社会になった日本の先駆者かつ象徴的な経理上がりのボケ(敢えてそう書く)は、赤字である二つのうちの一つを、手放した。本書にもあるように、球団社長以下、スタッフは一生懸命観客動員向上に力を入れ、キャンドルスティックパークをモデルにした西宮球場で三年連続百万人動員という結果を生み、ブレーブスこども会は大きくなるなど、成果が着実に出ていたのに。で。なんで身売り発表が10.19の日なん? であるが、阪急グループが頭を抱えていたのはよく分かった。当時の週ベのコーナーの言葉を使えば「魔の三重殺」であった。身売り承認のオーナー会議招集期限が10.21、逆算すると10.19までに発表する必要があったとのこと。発表の席で、上田監督が「この日となり、大変申し訳無い」と語っていたことが救いか。あ、某印刷会社で阪急の広報誌の製作をやっていた人が身近にいるのだが、18日の夜に差し替え命令が下り、翌朝までかかって差し替えたとのこと。上司は任せっきりで、翌日も通常勤務という鬼。そんな印刷会社、潰れてまえや、と思ったが、案の定梼Yしたw(事前に退職してて良かったね。)
10.19のドラマは語り尽くされたように思う。これも個人的な話から。10月15日の大阪球場最終戦は悲しくて、認めたくなくて観戦しなかった。翌日の藤井寺での、南海ホークス関西最終戦はレフトスタンドで観戦した。異様な雰囲気と、何故か永田#51の最終回の応援を覚えている。近鉄に申し訳ないな、と、思い、17日は西宮球場の三塁内野スタンドで近鉄の応援。4回か、5回の無死満塁のチャンスを逃したのが近鉄にとっては痛かった。気合が空回りしていたように見えた。石嶺さんが決勝2ランを放った後、戸惑ったような表情だったな。これは19日の高沢さんの表情とかぶる。しかしまあ、この時には既に上田監督は阪急身売りを知っていたとは。そして、阪急は西宮でここまで近鉄相手に勝利していなかったとは。ラルフの本塁打で食い下がるも、阿波野さんの孤立無援っぽい敗戦だった。南海、阪急相手に痛い二敗。これは流石に・・・。と思った。その後のバスの近鉄球団歌の大合唱以降は、もう、有名。19日は研究室を早く出て、熊野寮でスタンバイ。すると、愛甲の本塁打とほぼ同時だったと思うが、「阪急身売り」だと? そこからしばらく試合の内容は覚えていないw 第一試合で一番印象に残っているのは、佐藤さんの憤死後の表情。泣いてたね。そして、梨田のセンター前と、亡くなった貴久の怒涛のホームイン、阿波野さんの帽子を叩きつけるようなガッツメ[ズ。格好良かったなあ。その時点で、熊野寮の事務室は満員。20人はいたかな。
第二試合は高柳さん先発。いつも通り飄々と投げていたが、ちょっと力みがあったかな。マドロックの弾丸ライナー本塁打。普段なら、ファールなのに(苦笑)。んで、めったに本塁打を打たない吹石さん、真喜志さんが本塁打を打った時には近鉄有償を確信した。本書によると、森監督も覚悟したようだ。しかし。近鉄に負け続けていたロッテには、西武ファンの抗議電話があったほどで、意地があった。ロッテにも負けられない意地があった。水上さんのスーパープレーは小生の眼にはセーフに見えた。今ならチャレンジだよね。淡口さんの地上スレスレの捕球も印象深い。高沢さんは、あのゴロが捕球されてたら、あの本塁打はなかったんだ。野球のアヤだよね。羽田さんのダブルプレー、本当は心優しい西村さんが右打ちを予想して、敢えてセカンドベース寄りにいたと他の本で読んだが、まさかの正面ゲッツー。有藤監督は確認後、すぐに引っ込むはずが勝負の鬼になっていた仰木さんの一言で怒ったんか。勿論伏線はある。第一試合のロッテ佐藤のデッドボールにおける仰木さんの一言。ともあれ、あの抗議でしばらく大阪に帰られなくなったと聞いたが、果たして? 確かにあれは一連の流れで文句なくアウトだもんな。「負けるな羽田耕一、パ・リーグの王者」という応援歌が悲鳴に変わった後の、静寂、そして、守備につく近鉄ナインの顔、顔、顔。あれほど印象的なスメ[ツ中継の顔を他に知らない。放送のこともこの本に詳述されている。NHKのラジオ放送では、鈴木啓示さんが泣いていて、そのことをアナウンサーが伝えていたんだね。「今夜は酒に付き合ってください」「彼らは、負けていないんですよ」は印象的。その後、プロ野球は引き分けをなるべくなくする方向で動いていった。西武の優勝決定後、西武の人たちが近鉄を讃えていたのをよく覚えている。パ・リーグファンであることを大変誇らしく思った。
日本シリーズでは、石毛さんはじめ、ナインが「勝利したことで近鉄ナインに顔向けできる」という言葉も印象的だった。パ・リーグファンは、「日陰者」だったので、チームを超えた共感を持っていた(では、綺麗事かなw 実のところ、女性ファンが矢鱈多かった西武には、やっかみと反感はあったw)
人の思い、願いが前提にあり、偶然が必然に変化する。それが歴史というものであろう。だが、そこには置き去りにされ、泣く者もいる、ということは、南海ホークスファンとして記しておきたい。そういう人たちのことも忘れないでほしい。その意味では、南海時代をサイトに詳しく書いてくれているソフトバンクには感謝している。
『1988年のパ・リーグ』(山室寛之著、新潮社)
個人的なことから。1987年5月、いよいよ腰痛がひどくなり、大学野球のプレーを諦めた頃、子供の頃「打てば三振守ればエラー、走る姿はボケの花、アホ、アホ、アホの加藤!」と野次っていた(苦笑)加藤秀司さんが2000本安打をそろそろ達成しそうだ、ということで見たくなり、大阪球場に行った。そこで、門田さんの二塁打、加藤さんの2千本安打を見た。
長年低迷したホークスであったが、見ていたら投手陣は素晴らしく、一撃ノ秀でた野手も一杯で、若手も伸びてきてこれから強くなるだろうな、やっぱり浪速のチームは南海やで、ゲンさん(途中でやめたけど野球部同期)が中学生の時バッテリーを組んでいた佐々木誠が伸びてきた、ということもあり、自分が諦めた野球の夢をホークスに託して応援するようになった。
スタンドに足繁く通うようになり、「京大生で京都から通っている」ということで一部オールドホークスファンから可愛がられ、筒井ャJリ事件の頃からのホークスの話を聞くようになった。そんな折、「稲尾がロッテの監督やってたやろ、あれ、ロッテを平和台に呼ぶためやで、稲尾は博多に球団を呼ぶ活動をしてたし」と聞いていた。その頃は、四六時中出ていた南海身売りの話題だったけど、具体化する前に消えていた。ただ、翌年、川勝伝オーナーが亡くなった時にひょっとして?という思いはあった。
というのは、その前の年の年の瀬、釜ヶ崎で越冬闘争に参加した時、様々な事情通のおじいさん(所感派上がりの元日共党員)に、「関西国際空港に呼応した難波の再開発で大阪球場はなくなる、ホークスもそのときに身売りする、神戸のユニバシアードがグリーンスタジアムと名乗る、そこに行くことになる」と聞いていたからだ。その時は伝さん次第、伝さんは大昔にホークスを手放す話を漏らして酷い目に遭ったけど、彼が亡くなったらいよいよ、、、とも。
1987年から1989年にかけては、生まれてこの方生で観戦したNPBの試合の七割を占めるのではないだろうか。思い出が多すぎて、本書を読みながら胸が一杯となり、何度も涙をこぼしながら読み進めた。ホークスとブレーブスの身売りの背景と、伝説の10.19を三本柱に、パ・リーグの歴史を絡めて本書は構成されている。
「甦れ 俺たちのライオンズ」という歌がある。怨念と悔しさを感じる、「裏の」パ・リーグのテーマ曲と小生は思う。博多の人間は熱くて冷めやすい。中西、稲尾のライオンズに熱狂したが、日本の産業構造が変わり、石炭が斜陽となるとともにライオンズに回る銭は減り、ライオンズは弱くなった。小生が野球に興味を持ったときはネーミングライツだろうか「太平洋クラブライオンズ」だったと思う。ロッテとの遺恨なんかの演出はあったが、かつての熱気は戻らず、西武ライオンズとなる。残されたファンは失ったものの大きさに気づく。その象徴の歌だった。ライオンズ全盛期、博多の街の学校、職場の話題の中心はライオンズであった。当時の少年達はライオンズの大切さを覚えていた。彼らの多くは中堅どころとなり、経営側に回った人たちは青年商工会議所で球団創設運動をしていた。その活動に稲尾さんも加わっていた。川崎市は「風俗と飲み屋の街、青少年に夢と希望を与えるプロ野球に相応しいだろうか」と市の幹部が言うような街。ジプシーオリオンズは、川崎も安住の地というわけにはいかなかった。誘致運動がオリオンズをターゲットにしていたことは本書に描かれている。
ダイエー総帥中内は、大店法などで拡大路線が頭打ちとなり、伝説の西友ストアとの戦争をしていた。まあ、堤義明は懐深い、ということでw で。拡大路線のためには知名度向上したい、ということで、随分前からNPB参加を目論んでいた。そして、阪神のあの85年の熱狂を見て、近々球団を持ちたいと決意する。そこに、難波再開発のために大阪球場閉鎖、南海ホークス売却方針を知る。先見の明のある中内は、アジアの時代になると読み、福岡を本拠地とすることを選ぶ。勿論、ももちにドーム球場を建設することを考えつつ。鶴岡御大の言葉を借りれば「時の流れ、仕方がない」ということだろう。南海ファンとしては佐々木、湯上谷、岸川、加藤、両藤本らが本当に主力となるまで、3年待って欲しかったのだが。
阪急の身売りについては、本書を読んでもやっぱり納得できない。宝塚野球協会の昔から、野球に力を入れていた阪急。一三翁は「ドラ娘(宝塚歌劇団)とドラ息子(ブレーブス)だけは手放してはあかん、グループの象徴」とおっしゃっていた。だが、ネオリベ糞社会になった日本の先駆者かつ象徴的な経理上がりのボケ(敢えてそう書く)は、赤字である二つのうちの一つを、手放した。本書にもあるように、球団社長以下、スタッフは一生懸命観客動員向上に力を入れ、キャンドルスティックパークをモデルにした西宮球場で三年連続百万人動員という結果を生み、ブレーブスこども会は大きくなるなど、成果が着実に出ていたのに。で。なんで身売り発表が10.19の日なん? であるが、阪急グループが頭を抱えていたのはよく分かった。当時の週ベのコーナーの言葉を使えば「魔の三重殺」であった。身売り承認のオーナー会議招集期限が10.21、逆算すると10.19までに発表する必要があったとのこと。発表の席で、上田監督が「この日となり、大変申し訳無い」と語っていたことが救いか。あ、某印刷会社で阪急の広報誌の製作をやっていた人が身近にいるのだが、18日の夜に差し替え命令が下り、翌朝までかかって差し替えたとのこと。上司は任せっきりで、翌日も通常勤務という鬼。そんな印刷会社、潰れてまえや、と思ったが、案の定梼Yしたw(事前に退職してて良かったね。)
10.19のドラマは語り尽くされたように思う。これも個人的な話から。10月15日の大阪球場最終戦は悲しくて、認めたくなくて観戦しなかった。翌日の藤井寺での、南海ホークス関西最終戦はレフトスタンドで観戦した。異様な雰囲気と、何故か永田#51の最終回の応援を覚えている。近鉄に申し訳ないな、と、思い、17日は西宮球場の三塁内野スタンドで近鉄の応援。4回か、5回の無死満塁のチャンスを逃したのが近鉄にとっては痛かった。気合が空回りしていたように見えた。石嶺さんが決勝2ランを放った後、戸惑ったような表情だったな。これは19日の高沢さんの表情とかぶる。しかしまあ、この時には既に上田監督は阪急身売りを知っていたとは。そして、阪急は西宮でここまで近鉄相手に勝利していなかったとは。ラルフの本塁打で食い下がるも、阿波野さんの孤立無援っぽい敗戦だった。南海、阪急相手に痛い二敗。これは流石に・・・。と思った。その後のバスの近鉄球団歌の大合唱以降は、もう、有名。19日は研究室を早く出て、熊野寮でスタンバイ。すると、愛甲の本塁打とほぼ同時だったと思うが、「阪急身売り」だと? そこからしばらく試合の内容は覚えていないw 第一試合で一番印象に残っているのは、佐藤さんの憤死後の表情。泣いてたね。そして、梨田のセンター前と、亡くなった貴久の怒涛のホームイン、阿波野さんの帽子を叩きつけるようなガッツメ[ズ。格好良かったなあ。その時点で、熊野寮の事務室は満員。20人はいたかな。
第二試合は高柳さん先発。いつも通り飄々と投げていたが、ちょっと力みがあったかな。マドロックの弾丸ライナー本塁打。普段なら、ファールなのに(苦笑)。んで、めったに本塁打を打たない吹石さん、真喜志さんが本塁打を打った時には近鉄有償を確信した。本書によると、森監督も覚悟したようだ。しかし。近鉄に負け続けていたロッテには、西武ファンの抗議電話があったほどで、意地があった。ロッテにも負けられない意地があった。水上さんのスーパープレーは小生の眼にはセーフに見えた。今ならチャレンジだよね。淡口さんの地上スレスレの捕球も印象深い。高沢さんは、あのゴロが捕球されてたら、あの本塁打はなかったんだ。野球のアヤだよね。羽田さんのダブルプレー、本当は心優しい西村さんが右打ちを予想して、敢えてセカンドベース寄りにいたと他の本で読んだが、まさかの正面ゲッツー。有藤監督は確認後、すぐに引っ込むはずが勝負の鬼になっていた仰木さんの一言で怒ったんか。勿論伏線はある。第一試合のロッテ佐藤のデッドボールにおける仰木さんの一言。ともあれ、あの抗議でしばらく大阪に帰られなくなったと聞いたが、果たして? 確かにあれは一連の流れで文句なくアウトだもんな。「負けるな羽田耕一、パ・リーグの王者」という応援歌が悲鳴に変わった後の、静寂、そして、守備につく近鉄ナインの顔、顔、顔。あれほど印象的なスメ[ツ中継の顔を他に知らない。放送のこともこの本に詳述されている。NHKのラジオ放送では、鈴木啓示さんが泣いていて、そのことをアナウンサーが伝えていたんだね。「今夜は酒に付き合ってください」「彼らは、負けていないんですよ」は印象的。その後、プロ野球は引き分けをなるべくなくする方向で動いていった。西武の優勝決定後、西武の人たちが近鉄を讃えていたのをよく覚えている。パ・リーグファンであることを大変誇らしく思った。
日本シリーズでは、石毛さんはじめ、ナインが「勝利したことで近鉄ナインに顔向けできる」という言葉も印象的だった。パ・リーグファンは、「日陰者」だったので、チームを超えた共感を持っていた(では、綺麗事かなw 実のところ、女性ファンが矢鱈多かった西武には、やっかみと反感はあったw)
人の思い、願いが前提にあり、偶然が必然に変化する。それが歴史というものであろう。だが、そこには置き去りにされ、泣く者もいる、ということは、南海ホークスファンとして記しておきたい。そういう人たちのことも忘れないでほしい。その意味では、南海時代をサイトに詳しく書いてくれているソフトバンクには感謝している。