第二部は「いま私たちの<希望>はどこにあるのか?」ちおうことで、赤木さん、郵便論的な、の東浩紀さん、大澤さん、萱野さん、杉田さん。東さんが良い味出している。
杉田さん:
たとえば『週刊朝日』の6月17日号が、事件の特集を組んでいる。一つ一つの記事は冷静でまっとうなんですが、にもかかわらず特集全体をくくる言葉が「若者に気をつけろ」なんですよ。それですべてが持っていかれる。(p21)
犯罪はもちろん許されないが背後には構造的な問題もある、という言葉でも、ちょっと足りない気がする。(中略)むしろ大事なのは、事件をとおして自分の意識や生活条件、無意識の暴力などを見つめ返していくことなんじゃないかと。
その限りでは、社会や制度が変わればいい、とも単純には思わないんですよね。(p21)
意識の格差、格差を意識すること、と格差そのものの入り組んだお話。課題への取り組みは非常に繊細な問題だ。以下の文章。
どんな人のなかにも貧困の多層性、あるいは被害と加害が重層的に折り重なっているはずなんです。そこを具体的かつ繊細にえり分けながら、他者とのつながりを見いだしていく。そしてそこから社会を変えていく。(中略)そういう地道な試みですね。
ことばの本来的な意味での
コミュニズム!
東さん:
20世紀は希望を語る言葉が、その裏返しで人を傷つけてきた歴史だというのが僕の考えです。(TAMO2註:モダニズム全般、ナショナリズム、経済成長の神話そしてモダニズムの最後の極北=転回の物語としてのマルクス主義)
悪い人がいるから世界が悪くなっているだけではないということには、もう、みんな薄々気がついていると思います。(p24)
さすがの視点。大きな物語が、それにまつろわぬ者を抑圧するというお話。また、マルクス的には、ブルジョアを打唐オても、商品がある限りは、資本主義は復活し、ブルジョアは復活するというお話。あるいは、「動物農場」。
さらにさらにの東さん。
僕たち(TAMO2註:団塊ジュニア)以下の世代がこういう気持ち(TAMO2註:「殺すんだったら老人を殺せよ」)をどこかでもっているということを、この国の高齢者はわかったほうがいいと思う。つまり
<i> color=" "ff0000">どうですか、極右同志の皆さん?
大澤さんの以下のコメントは味わい深く、特にあれこれ言うのも野暮ってものだ。
資本制のなかで普通に暮らしているだけでも、ある種の革命というか変革というか、そういうものに携わることができると思っています。(中略)魯迅が「野草」で引用したペテーフィ・シャーンドルの言葉に、「絶望の虚妄なることは正に希望と相同じい」というのがありますね。つまり希望も絶望も人を惑わす。(p37)
野暮を承知で。小生にとっては野球の独立リーグを支えること。そして、日常の中にこそ革命の可能性はあると見定めること。
東さんがp39で、小林秀雄っぽいことを言う。「色々な“者”になる可能性の中から、結局はある者にしかならないというのは恐るべきことである。」(様々なる意匠 だったと思う。)
大澤さん:世界宗教が開いた他者性や外部性を再検討してみるということですか。
東さん:コミュニズムはそういうものだったはずだしね。(p40)
言うことなし。素晴らしい。
東さん:コミュニケーション
スキルを上げていこう、みたいなことをよく人は言うじゃないですか。あれは良くないですよね。
萱野さん:
競争を煽るだけだからね。(p41)
確かに、ディベートって、ろくなもんじゃない。で、議論は、そういう下らないスキルを唾棄するにしても、そうであっても承認の競争から脱落した人が生きることへの希望をもつには、という話になる。そこでまた、東さんが鋭い指摘を。
人々が尊厳を持つべきだという命法は、いまの世の中ではすごく抑圧的に働きます。(p42)
本田透尊師の議論「2次元で満足できるようになればいけるんじゃないの」という話もあるけど、それは分からない、と。満足できない性があるからなあ。
まあ、ここまでにしておこう。
(終)
その1:
http://red.ap.teacup.com/tamo2/926.html