『日本人の「戦争」 古典と死生の間で』(河原 宏著、講談社学術文庫)
本を読むと、打ちのめされることがある。この本の場合、その頻度が余りにも多かった。右や左の俗論を瞬間的に退け、納得せざるを得ない論を提示する。その論が、非常に新鮮でありかつ真っ当であれば、「俺は今までこの問題について何を考えてきたのだ?」と打ちのめされるのである。
この本と出合ったのは、去年の十月だったと思う。松山の紀伊国屋で、この本は光っていた。「読め」と。まあ、著者の名前が某選手と極めて近いせいであったような気もするが。
著者は一九二八年生まれで、大東亜戦争を少年兵予備として終戦を迎えた。戦中派の常として、戦争で死ぬのは前提として、死ぬ意味を求めていた。戦後、価値観が激変する中、新たに流行となる価値=マルクス主義、民主主義などなど=とは距離を置き、おそらくは死んでいった者たち=それは可能性としての自分でもあったろう=の意味を問い続け、去年亡くなった。
この本は、一九九五年三月にまず築地書館から出版されている。あの阪神大震災の直後である。本書のあとがきにそのことについて触れているが、オウムについては触れていない。(あのテロは三月二〇日) いきなりだが、初版あとがきから抜粋しよう。
本書は「戦争」を、人間の実感、心の軌跡としても捉えようとしたものだからである。
今、世界と日本は巨大な変動に直面している。戦後日本についていえば、それは永らくわれわれを拘束してきた次の三つの“信仰”が崩れ始めたからである。
第一には、ソビエト体制が崩壊したこと(中略)第二に、あのバブル経済最盛期に横行した「金銭」信仰が崩れた(中略)第三は、「技術」信仰への疑念である。(中略)あの阪神大震災での横唐オになった高速道路であり、橋桁を落下させた新幹線の橋脚だった。(中略)結局、人間の心や自然の摂理を上回る意義をもつものでないことを教えている。
直後、ニューエイジ思想のなれの果てと言えるオウム事件が起き、「心」にまつわる言説にも疑念が湧いたわけだ。
何かに期待し、前提とし、それが崩れる。歴史の実相とはそういうものではないか。ミネルヴァの梟が飛び立ったあと、全ては明らかになる、といわれる。だが、それは、振り返る時点での価値によって、だ。同時代的に追体験することはすごく困難である。
ここで一人の男のことを紹介したい。他ならぬ、この評者の父だ。子供の頃、父の言うことが結構嫌だった。だって、あの戦争を肯定的に語るし。学校で言われていることと違うやん、と。父は一九三五年生まれ。軍国主義教育を真に受けて育った世代である。ちなみに学年でたった二つ上の母は、そのペテン性に子供の頃に気づいていた。では、父は気づいていなかったかというと、細かく書くわけにはいかないが、決してそんなわけではなかった。だが、父の父(小生から見れば祖父)は、沖縄戦で戦死していた。小生の父は祖父から大変可愛がられていたらしい。その祖父を奪った戦争を憎んでいるのは確かだったが、しかし、同時に、戦後の「民主主義野郎」が戦争を全否定する言説を垂れ流すことは、受け入れ難かったと思う。今になって、父親の考えと気持ち
は大変よく分かる。ちなみに戦後民主主義のチャンピオン、丸山真男は「さすが!」と唸らせることを言う。
「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」
(p258)
丸山は一九一四年生まれ、大人になってから敗戦を迎えている。この世代は、大東亜戦争に至る流れを知っているので、その虚妄性も知っている。彼は、逢えて、大日本帝国を『実在』と言い、戦後民主主義を『虚妄』と言っている。すなわち、戦後民主主義というアメリカ由来のキッチュを、虚妄と知りながら賭けているのだ。この世代は、悪く言えば「ずるい」。軍国日本のペテン性も、戦後日本のペテン性も見抜いているのだ。評者の父親は軍国日本を真に受け、敗戦=祖父の死=戦後民主主義の到来を死ぬまで受け容れなかった。すなわち、父は戦後の時間について、「止まっていた」のだ。レイ・チャールズの歌の一節に "time has still, since we apart"というのがある。別離は意識の時間を止めることがある。父にとって戦後は「生きるべき時間」ではなく、「止まった時間」であった。死ぬ意味を考えていた河原少年もまた、死を与えられなかったことで時間が止まったように思う。彼は言う。
「生きててよかったっていう気持ちはゼロ。皆無ね。」
(p261)
前置きが長くなった。ここまでに書いていない課題を含め、本題に入る。かなり長い「メモ」になる。
まずは前書きから。一九九五年頃にこの本は書かれたが、歴史の曲がり角であった。先にミネルヴァの梟と書いたが、「見るべき程の事は見つ」という『平家物語』の平知盛の言葉からこの本は始まる。時代の曲がり角では“見なければならない”ものを歴史は提示する。著者にとってそれはあの戦争である。
あの時代にあった実感。それが何だったのか見ようとする。軍学校の最上級生である河原少年が実感として考え抜こうとし、生涯鰍ッて考え抜いたもの。「国家」「戦争」「天皇」。敗戦は、“歴史の畢(おわ)り”。「ずるい」大人たちへの不信感はこの世代独特のもの。年齢、立場による微妙な差異はともかく。同年代の死者に戦争の意味を答えようとする。外来イデオロギーに過ぎない左派からの批判、反転したとはいえ同一由来の右派からの批判に動じず。情と理の綜合を目指して。
第一部は本の題にもなっている『日本人の「戦争」』と題して。あの戦争は、古代以来の歴史と古典と伝統のすべてを注ぎ込んで、すべてを失った戦いだったと著者は言う。そうすると、特に左派は怒る気がする。だが、そうなのだ。そう考えたであろう人は、右派以外にもいる。例えば、以下の林達夫の滂沱の涙なんぞ。
http://www.geocities.jp/osaka_multitude_p/gakushuu_bunken/atarashiki_makuaki.html
http://red.ap.teacup.com/tamo2/380.html
敗戦により日本人は歴史を失ったと言うのは、著者だけでなく、特に保守系の論壇で良く見られる。戦後は、アメリカお仕着せの民主主義、あるいはカウンターとしての共産主義を身にまとって日本人は生きた。いずれも「外部」の「抽象」である。では、敗戦以前の日本人がもっていた歴史とは何だろうか? ラフカディオ・ハーンが雇っていた萬右衛門の言葉が引用される。日清戦争終結後、戦死者について。
日本人は誰もが死ねばまた帰ってまいります。(中略)ええ、もうみんな、わたしどもといっしょにおりましてな。
(p23)
死者はそこに、ともにいた。だが、この実感は、実は明治維新の後、「抽象」に蚕食されていっていた。否、近代国家というもの自身が、「抽象」の実体化を世界に押し付けるものであったのではないか。「近代の超克」が叫ばれ、あるいはマルクス派が挙って太平洋戦争に万歳を叫んだ根拠は、この無理を感じていたからではないか。近代化のための抽象として、「神国日本」があった。そこで日本は己の歴史から切り離され始めた。そして、帰る場所を失い、玉砕を可能にした。それは、同時に、日本古来の滅びの美学であったと言うべきか。敗戦により帰る場所がないことを突き付けられた日本は、さらに新たな抽象「民主主義」「経済活動」に日本人は邁進した。日本人が失った心(実感)は何か? あれ?河原先生は、左翼に分類されているはずだぞ?
自滅的な戦争。何ゆえか。「近代の日本人は実は自らを憎んでいたからである。」(p29)黒船による強制開国は、滅びへの予兆であった。ハイカラを憎んだ心理は、夏目漱石の『坊っちゃん』の赤シャツの描写に見られる。昭和の米英派は、投機で民衆を苦しめた者でもあった。「なにが「日本」だ、なにが「帝国」だ」という庶民の実感。糊塗するように溢れる国家主義的言説。徹底した分裂。これが、明治維新が作った「大日本帝国」であった。「本(もと)」への渇望。万葉、古事記が動員される理由。この中から、著者は次の スサノオの慟哭を示す。
僕(あ)は妣(はは)の国に往(ゆ)かむと欲(おも)ひて哭(な)くなり
(p33)
死んだ母・イザナミを思い、本(もと)に還ろうとして哭く。これが古代神道の荒魂(あらみたま)の発露である。近代の下では抑圧された荒魂。「妣の国」を護る闘い。ファシズムは民族古層の噴出と言われることがある。近代の抑圧が極点に達した時、日本は正しくもファシズムとなった。「昨日は遠い昔となり、遠い昔が今となつた」(開戦時の高村光太郎)。近代という無理。ドンツキで帰本に焦がれ、「妣の国」を慕って哭く。大日本帝国の破滅の中、更なるモトへ。「ゆきつくのは古典、それもわれわれの持つ最古の古典の、しかも最初の部分、つまりあのスサノオの慟哭の部分」(p34)へ。近代に押し付けられた「大日本帝国」のためには死ねない。英霊たちは「妣の国」を護るために死んだ。
死のきはの兵が微笑に光りたち やさしき母の声よばはりぬ
(p36)
大東亜戦争は死で彩られている。そのBGMは良く知られているように『海ゆかば』である。万葉集の大伴家持の長歌の一節。五十六元帥の国葬のラジオ全国放送で、学徒出陣の『抜刀隊』が流れるとき、女学生が大合唱していたという。元々は陸奥での金の産出を言祝ぐ「たおやめぶり」の歌なのに。こういう言霊のひっくり返りは「大和魂」と一緒だな。あ、「君が代」もか。では、どうして、死を恐れぬBGMとして現れたか。「妣の国」の共生感覚を死の場所で恢復するために相応しかったからであろう。敗戦は、言霊をも殺した。
戦争は修羅の場である。中世の武士はそれにおののいた。殺生を生業とし、罪におののいた。この矛盾に最も深く苦しみ、悩む者の典型なのが熊谷次郎直美である。平敦盛を討った後、戦の虚しさから彼は仏門に入る。敦盛は幸若舞の一節になっている。織田信長が愛誦したと言われる。
人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 一度生を得て滅せぬ者のあるべきか
だが、これはこのように続く。信長はそこを歌わなかった。
是を菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりし次第ぞと思い定め……
中世の武士は仏教に救いを求め、美学に救いを求めた。信長はドライなので、行為そのものに救いを求めていたと小生は思う。信長は徹底した合理主義者であり、仏の救いを拒否したニヒリストである。「天下布武」は武士の止揚まで構想していたのかも知れない。武士は所領の獲得のために命を懸ける。信長はそれを破壊しようとした。さて、信長は桶狭間の戦い(奇襲戦法)で有名だが、これは例外で、他の戦いは合理性に貫かれ、自己変革を遂げていった。然るに、日本軍は桶狭間を言い募り、自己変革は学ばなかった。日本において「革新」を言うものは、外部から何も学ばない者たちであるという言葉は、戦前・戦後を貫く著者の皮肉である。社共を見れば十分だろう。
「七生報国」という言葉は、『太平記』の楠正成の言葉がオリジナル。河内の英雄、楠公のことを思えば胸が一杯になる。「事態を引き受ける」。彼は一九一七年七月に散ったボリシェヴィキの先駆者だ。楠公は「七生報国」の言葉、「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候ヘ」と述べた後、「罪業深き悪念ナレ共我モ加様ニ思フ也」と続ける。楠公は武士の罪業を自覚していたのだ。そして「七生」に輪廻の感覚がある。これらの自覚、感覚は、時代が下がるにつれて武士から失われていく。修羅の場から離れて行き、武士道が観念化したからであろう。そして大東亜戦争において、「七生報国」は死を正当化するスローガンに成り果てた。
近代の国民国家の起こりは言うまでもなくフランス。これはどの瞬間にメルクマールを捉えるべきか。良く言われるのは一七九二年のヴァルミーの戦い。フランスの王党派、貴族はフランス革命に反対して他国の君主の側についた。それに憤激したフランスの市民は義勇軍を組織し、革命干渉戦争に勝利し、市民は国民となった。国民軍の恐ろしさは、祖国という「永遠」と一体化したがゆえに、死を恐れないことである。従軍し、命を懸け、国民となった民衆。臣民には祖国はない。国民は文化、政治、経済に主体的に関わり、祖国と一体化する。国民国家の形成は戦争と表裏一体である。それが内戦であっても。日本の場合のその起点は、西南戦争であった。西郷と乃木が象徴。西郷は朝敵であったが、『抜刀隊』で「敵の大将たる者は 古今無双の英雄で……」と讃えられ、国内統一の道具となった。乃木は、官軍側で闘い、萩の乱の鎮圧のため、幼馴染たちを殺すことになった。彼はその後、死に場所、死に時を探して生きることになる。乃木は明治天皇に殉じて死んだと言われる。西南戦争で軍旗を奪われたことを恥じて死ぬべき時は、崩御の時であった、と。軍神乃木、軍旗の神格化はこうして始まったが、しかし、著者によればそれは後付けではなかろうか、となる。彼は戦争の折々で、友人、肉親、部下を失い、日本軍の悲劇の象徴となる。武士道の権化として、マッカーサーにも尊崇の念を起こさせた存在である。吉田松陰の叔父にして師匠の、玉木文之進から武士の魂を受け継いだ乃木は、「近代日本の矛盾と悲劇を一身に体現」(p71)した。日露戦争後、戦争遺族を慰問する彼はしかし、官僚からすれば邪魔者であった。明治天皇は尊敬に値する人間(←ここでは神とは書かない)である。近代の無理、さかしらさを理解していた明治天皇は、乃木の唯一の理解者である。崩御されると、乃木には跡を追うことだけが残されていた。システムというのは恐ろしい、そのような近代の悲劇を体現した乃木を軍部は軍神として乃木を利用する。こうして、日本軍は「皇軍=国民軍」として作られていった。まさに悲劇の共有を「国民=軍」は果たしたのである。腐敗した清やロシアが戦線において負けたのは必然的であった。世界に躍り出る日本の「明」は、犠牲の上にあった。戦死などの「暗」。大塚楠緒子(なおこ)の「お百度詣で」にそれは表現される。
朝日に匂ふ日の本の 国は世界に只一つ
妻と呼ばれて契りてし 人は此の世に只ひとり
(p73)
この時代の日本は若く、個人の運命と集団の運命を同一視可能な、奇跡の時代だった。維新で身分制度がなくなり、武家の子も百姓の子も、天皇の赤子=国民として平等だった。この感動が、喜んで死地に赴く国民を生んだ。乃木の死はその若い日本が老いるメルクマールであった。乃木の死を本音では「馬鹿」と国民は言いながら――勿論乃木の本心を国民は知らない――、軍神として新聞メディア挙って乃木を祭り上げた。タテマエの羅列としての『軍人勅諭』『戦陣訓』。そんなもののために人は死ねない。「妣の国」のためには死ねる。だが、現実には「天皇陛下万歳」という建前が覆った。
「国民」としての実感は遠ざかり、「抽象」が人の生死をも覆っていた。
(p79)
カルタゴの滅亡を見たローマ軍の総司令官スキピオ・エミリアヌスは「ローマもこれと同じときを迎えるであろう」と、イーリアスを呟いた。彼は「見るべき程の事」は見た。大東亜戦争敗戦の傷を抱えた日本人は、経済成長を遂げた。だが、それを支えた世代は“いつまで続くことか”と思い続けた。驕れる者は久しからず、、、この滅亡感覚を終戦で実感した日本人は、繁栄の中にもこの感覚を維持した。『平家物語』は、平氏滅亡の折、平知盛が裏切りと滅亡の流れの中で「見るべき程の事は見つ」と言い、個人の運命を超えて歴史の中に歴史を見る視点に到達した。
歴史を生きるとは、その中で必然的に到来する崩壊と滅亡の運命を、その来る前から見据える眼を備えて生きることである。
(p83)
夏目漱石は『三四郎』で、広田先生に明治国家は「滅びるね」と言わせた。永井荷風は昭和二〇年三月九日の東京大空襲を『断腸亭日乗』で滅びの様子を淡々と描く。自宅の焼失も。永井は昭和一五年に西暦表記とし、昭和二一年に元号表記に戻した。大日本帝国や戦後民主主義の狂熱の中に「見るべきものを見」たのであった。だが、著者の意に反するかも知れないが、こんなことを見れるのは少数派である。大事なのは、その実感が伝わること。「話せば分かる」「問答無用!(ズドン)」どちらかと言えば、青年将校に同情する小生。おっと。ここでは、「話せば分かる」という世界になってしまっていたら、実感は伝わらない、ということが大事。昭和初期に日本社会には亀裂が走り、異文化圏が形成されていた。文化的同一性は歴史の中で育まれ、その精粋である古典のみが実感の伝達を保証する。ここにヒビが入れば、実感は失われ、「抽象」に人々を走らせる。明治維新、敗戦、二度も日本には巨大な亀裂が走った。明治の赤シャツ青年には維新回天の世代の実感が、戦後世代には、戦前世代の実感が分からない。分裂国家、日本。「心」が伝われば、それを支える歴史があり、文化があるということ。
そうだとすれば、われわれも歴史の中に心を求めて、可能な限り多くの人と共有できる新たな実感と共感の源を探りあてなければならない。それなしに歴史は存立しない。
(p92)
これをなすには、共悲の心をもって『平家物語』に匹敵する新しい古典を創造するべきである。あの敗戦で、日本の「歴史は畢った」のだから。評者の親父に帰る。親父の身の処し方は、正しかったと今になって言える。
第Ⅱ部は「「開戦」と「敗戦」選択の社会構造 ――“革命より戦争がまし”と“革命より敗戦がまし”」と題して。
まず、太平洋戦争開戦の選択は、国体護持の観点からの戦争か革命かの選択であった。な、何だってーー!! 日本共産党が壊滅しているというのに! 説明しよう。天皇家には一財閥程度の金融資産(資本家)、日本最大の山林地主という側面があった。国体という概念から大事なのは地主という側面である。日本のブルジョアジーは後に見るように脆弱で、国体の庇護が必要であり、国体擁護と私的財産擁護の治安維持法を必要とした。土地所有を巡る地主―小作関係こそが国体の本質であった。地主の身勝手な小作料の引き上げへの反対は、私的所有への侵害となり、農民の困窮は運命づけられた。。娘は売られ、次男坊は兵士として戦死することで家族に金を送る、そういう時代となった。国内危機は外への戦争へと転化させられた。青年将校らの二・二六はその方向を加速した。日中戦争の泥沼を広げることで当座の危機を転化させたのだ。改革の必要性について国会で議論はされるが、地主などの強烈な反対で改革は阻止され、その口実に国体が用いられる。彼らは普通選挙法を敵視し、優生学を持ち出して優勝劣敗を説いた。今のネオリベどもに似ている。農地改革を本気で行おうとした人間がどうなるか? 一九四一年の「企画院事件」が挙げられる。アカ=共産主義者の幻影に連中は怯えていたのだ。確かに農業の機械化、協同化はソ連を思わせる。戦争遂行のための方策として提案されているが、農村のソビエト化を招きかねない。そこで農業改革が引き起こしかねないソ連化(革命)を日本の指導部は拒否し、改革を拒否した。なお、敗戦により占領軍によってさらに先にまでなされたのであった。戦前の国体破壊の意図を占領軍ははっきりと持っていた。
さて、いわゆるハル・ノート。それまでの流れは省略。太平洋戦争の開戦を巡る議論に。近衛文麿や木戸幸一は追い詰められた日本は、それでも「今後十年を目標とし臥薪嘗胆の決心をなし」て戦争回避を言う。それは中国戦線からの撤退を意味する。それは満州国の否認、朝鮮、台湾独立の動きに、そして大日本帝国の大動揺に繋がるであろう。見返りは石油禁輸措置の解除程度。しかし日本指導部総体は「大坂冬の陣」――外堀だけでなく内堀まで埋めた徳川――を想起し、妥協しても破滅と考える。謀略に長けたアメリカは日本側にトリガーを引かせた。さて。中国戦線からの撤退の意味について再び。多大な犠牲者をすでに出していた中国戦線からの撤退は、敗北を意味する。南京事件はすでに広く世界の知るところであったが、それが日本国内で知られると倫理的に陸軍を崩壊させる。中国への進出企業の利権は失われる。そして次の点が大事かと。命がけで戦った兵隊さんが国内に大量に戻ると、腐敗した資本家や政治家の群れ。享楽にふける都会と彼らの故郷の農村の疲弊。武器を未だに手にした兵隊さんが、コトを再び(二・二六)起こさないということがあろうか? 政府はコミンテルン流共産主義イデオロギー撲滅には成功していたが、湧き起こるであろう下からのコミュニズムの可能性に恐浮オたのだ。それは内戦=革命への恐浮ナあった。利口な昭和天皇もそれに恐浮oえた。一部の自称愛国者は覚えておくといいが、資本主義にからめ捕られた天皇(制)は、君たちの理想を決して体現しはしない。君たちが、本当に理想を追い求めるならば、君たちは極右になるべきである。
さて。今の自民党政権には、戦争は不可避だったとかのたまう人がいる。確かに、ハル・ノートあたりで区切ればそう言わざるを得まい。だが、物事には流れがある。事前に農地改革を政治主導で行い、貧富の差を解決しておけば。これを解決しなかったから、レーニン帝国主義論のごとく、国内矛盾を帝国主義戦争で海外に押し付けたわけだ。それが軍国主義の正体である。二・二六という痙攣、それを利用した軍部の強大化にはそういう背景がある。とはいえ、「国家」が腐敗した時点にまで遡って考えなければいけない問題と小生は思う。
次に革命よりは敗戦のほうがまし、という議論。一九四五年二月の近衛文麿の上奏文。最近時折見られる大東亜戦争の「左翼の陰謀論」が語られている(笑)。「官僚及び民間有志」=「右翼は国体の衣を着けたる共産主義者」が「意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し」ているらしい。。これはもう、国民の殆どを反「国体」のアカとみなしていたようなものである。スターリンが、熱烈な支持者を潜在的裏切者とみなしていたようなものか?敗戦は受け入れられるが、早く受け入れないと革命が起きるぞ、と。この妄想めいたものもまた、昭和天皇や側近に共有されていた。国体護持に目途がついたところで、「革命より敗戦がまし」と考えて敗戦が選択された。なお、本土決戦では連絡網の破壊を考え、各地域での独断遂行を求めた。これは「自分で考える」ことであり、組織論的な国体の否定である。天皇が本土決戦に危惧したこととのこと。敗戦により日本人が経験しそこなったことは、自分の命を懸けて闘うことを#自分で#決意すること、意味を知ることであった。逃げることも決意であった。何しろ、本土決戦は「自分で考える」ことを求めるのだから。本土決戦派が革命的であると、例えば千坂恭二氏が言うのは、そういうことかな? なお、小生の友人は、本土決戦にまで行き着けなかった日本人は、本質的に革命が出来ない民族なのではないか、とどこかでつぶやいた。(続)
第三部は「天皇・戦争指導層および民衆の戦争責任」と題して。この本が書かれたのは一九九五年、すなわち戦後五〇年である。直接的な利害や怨恨からは解放されているが、当事者の実感はなくなる直前。戦争責任は難しい。本書にカール・ヤスパースを挙げている。今の世代に罪はないが、責任はあると言われる。アメリカの庇護の下、戦争責任から日本は逃げてきた。そして戦争責任は、時代性を持つ。戦後責任であるとも言われる理由である。本から離れるが、アメリカは日本への庇護を外そうとしている。中国、南朝鮮の言うことを是としている。庇護が国益に反すると考えて当然である。安倍首相はどこまでわかっているのだろうか? ヤスパースは、刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上の罪を挙げる。最後が難しい。キリスト教の神という概念によって導き出される「疾しさ」という罪。明治憲法の規定により、前者二つの罪を天皇に問うことは出来ないという議論と御聖断が出来たなら開戦を回避する聖断は出来なかったのかという議論。いずれにせよ天皇の政治責任に関する議論。そこを衝こうとしたのが歴史学者、井上清。歴史を踏まえ、道義的責任を追及する。それは形而上的責任を浮かび上がらせるであろう。だが、「天皇ヒロヒトを処刑せよ」と言ったところで、すでに意味はなかった。東京裁判そのものが政治的ショーという側面が色濃くあったしね。では、この追及の意味は? 筆者にとってはまず、天皇の名の下に行われた戦争ゆえに、その名の下に死んでいったものに応えるかということにある。それは戦場となったアジアの民衆に対しても、である。こうなると、道義と形而上の責任にしかならない。太平洋戦争決断時の首相、近衛文麿は一九四五年一月六日に言う。「その際(敗戦)は単に御退位ばかりでなく、仁和寺或は大覚寺に御入り被遊れ、戦没将兵の英霊を供養被遊されるのも一法」。あの時点で、天皇の道義的責任の取り方を考えている側近がいたのだ。著者は最善だと言う。来週から面白そうな映画がある。昭和天皇がモーニングを着、マッカーサーがラフな姿で収まっている写真。あれは、戦後日本の出発点を刻印したものだ。ありうべき道を採らず、あるいは採らされず、歴史を破却した日本。天皇丸ごとの転向と言えよう。いや、転向なんて「同一平面」が措定出来る話じゃないな、これ。天皇丸ごと、戦後民主主義という虚構、抽象に身を投げたということだ。天皇家がキリスト教徒というのはよく言われる話。
さて、近衛文麿。昭和天皇が仏門に入るということは、おそらくは日本人が世界宗教の視点から戦争を見つめることであった。一切衆生の平等という観点、人間存在そのものの深みから捉えるには日本ではこの宗教しかない。神道は神風を言う。仏教は蒙古兵を弔う。靖国神社の位置づけも変わったであろう。行脚という形でアジアに弔いの旅に出られることにもなったろう。イメージは太平記の光巌院。だがそうはならずに、イギリス王室の形だけを真似た戦後の象徴天皇。道義的責任、ひいては形而上学的責任を回避することになった。そういう次第で時折見せておられた昭和天皇の痛切の念は、「文学的なことは分からない」などで、封印されたのだと小生は思う。そして天皇は時の政府に政治利用されまくるようになった。それは民衆の態度と重なる。
道義的責任を没却した日本人の戦後姿勢は、まさに戦後史の内に明証されている。これこそが天皇の戦争責任だった。
(p161)
ドイツと日本の差。一言で言えばヒトラー一派に逝かれたドイツと、同調的に全体が逝かれた日本ということになるか。だから、本来、日本はナチスのような一部のせいに出来ないのである。その一つの表現は一億総懺悔。根拠のないことではなかった。だが、これでは濃淡をなくし、責任の所在を曖昧にする。責任の帰着という点で、別の方法には軍国主義者に詰め腹を切らせる方法があった。これは東京裁判という勝者の方法であった。こうして東京裁判は戦争責任の回避と解除の論理を提供した。なお、東京裁判が罪刑法定主義を侵しているという批判は今でも右派からなされる。懲罰は政治的であった。「共同謀議」は論外。勝者の復讐心という批判は当然ある。パールは植民地インド人として言わなければならなかった。おい、軍国主義者の煽動で戦争は継続できるのか? 免罪された層がある。官僚と財閥である。鬼畜米英はブーメランを恐れて、彼らを訴追できなかった。行えたのは財閥解体などの刑罰のみ。責任意識を醸すものではなかった。彼らはすぐに表舞台に復帰するであろう。例えば、革新官僚岸信介。彼は首相になった。彼を押し上げたのは民衆である。
戦争指導層の責任は孤立してあるのでなく、民衆の戦争観、責任感、道義観と不可分に結合しているのである。
(p169)
そこで著者は民衆の戦争責任について問う。だが、これは、犯人捜しのことではない。「形而上の罪」に属する。例として挙げられるのはニーメラーの言葉。余りにも有名だが、便利なので(謎)ここに引用。
ナチ党が共産主義を攻撃した時、私は多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前より不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した。しかし、それは遅すぎた。
(p170)
この文章は、事後(戦後)に書かれた告白である。また、ニーメラーはナチへの抵抗で投獄されている戦闘的な人である。Uボートの艦長でもあった。キリスト教の倫理に裏打ちされている。「なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲げよ」(ヨハネ伝、第八章)。
さて、日本。大衆は好戦的だった。戦争は儲かるという意識、強者への過剰同調、弱い者いじめ。後ろ二つは日本人の病痾である。日清、日露、第一次世界大戦のたびごとに戦争成金が現れ、財閥も中小企業も肥え太った歴史がある。兵隊になるということは、食いっぱぐれがないということである。戦功があれば豊かになるし名誉もつく。だが、ここに難しさがある。日本は、貧しい国であったという問題である。こんな鶴彬の川柳がある。
裏切りをしろと病気の妻の顔
裏切りの甲斐なく病気の妻は死に
(p175)
もし彼が軍需工場の労働者だったとしたら? ストを裏切ることは仲間への裏切りにとどまらず、戦争協力ともなる。とはいえ、裏切らないことは生活破綻である。そして裏切っても妻は死んだ。戦後、日本の経済発展の呼び水は、他国の戦争、すなわち朝鮮戦争であった。それにとどまらず、冷戦および朝鮮戦争のおかげで、日本の生産設備は破棄や国外移転されず、戦後の繁栄が準備された。「戦争は儲かる」という感覚は、戦後も継続した。タテマエとしての憲法を誇る向きは、このことを絶対に忘れてはいけないと思う。だけどなあ、だからといって、朝鮮戦争で儲けた日本は、朝鮮人に謝罪と賠償を!という一部朝鮮人は、自らの主体の責任を放棄している愚か者、あるいは民族の恥と断じざるを得ないね、これは。
「和して同ぜず」という言葉がある。日本にあるのは和ではなく、同ではないかと著者は問う。そこには政治的な権力が背後にある。「アカ」でないことを示すために、時の権力に過剰に同調する「奴隷根性国民」、日本。ちなみに、和には、差異を前提とした発想があると小生は思う。儒教は偉大なのだ。「バスに乗り遅れるな」と、なだれ込む「奴隷根性国民」。この流れに闘い得た――但し挫折した――のは、真正ファシストの中野正剛くらいか。そして反面としてのイジメ、村八分。イジメはかなりねじけた様相を示す。例えば、特攻の第一陣、敷島隊の指揮官、関行男中佐は軍神となり、地元の愛媛西条では顕彰碑建立がされるほどであったが、地元の人は妬み、遺族をいじめる。なお、軍功に応じた報奨金は殆どなかったようだ。軍隊内のいじめは、『人間の條件』や『真空地帯』に描かれる。「殴ることを止めたら、皇軍もなくなる」(p184)。というのは、「俺の命令は天皇の命令」であるが、逆に言えば、命令が不法、非道、暴虐であった場合、すべての責任は天皇に帰着することになる。肉体的暴力はその遡及を切断するために必要であったのだ。歴史を見れば、暴力は論理を超越するものだ。暴力の連環は外部へと転換され、日本軍独特の残虐さを齎した。この「軍人精神」は国民に拡散し、その無形的威力は絶大だったとのこと。軍隊のイジメの構造は、国民・国家をむしばんでいった。朝鮮人には当然言葉が分からない人もいるから、意味を聞けば「知らんのか!」と言って殴られる。ためしに一日何回殴られたかを数えたら、七二回だったとのこと。この連環に組み込まれた日本人一般に、戦争責任がないと言えるのだろうか? さらに言えば、朝鮮人の中にも、進んでこういう分子がいたことは、例えば『血と骨』で描かれている。朝鮮人の戦争責任も、小生はあると思う。日本人よりは罪は軽いけどね。さて。朝鮮人が内地に来ることで、賃金水準は低下した。朝鮮で朝鮮人が働けば労賃は1、内地に来れば3~5、そりゃあ、内地に来る。ちなみに日本人は10。で。内地の大企業はこの朝鮮人の労賃も、掠め、くすね、支払わなかった。「逃亡防止」を口実に。そして、朝鮮の家族に送金すると言いながら、送金されていなかった事例さえある。帝国官僚を慨嘆させる非道さ。このことさえ糺せないならば、やっぱり、「歴史を見ない民族に未来はない」と言わざるを得ない。但し、この言葉は日韓条約という形で、勿論南朝鮮政府にも跳ね返るのだ。
第四部は「日本の「戦争」と帝国主義 ――空腹の帝国主義と飽食の帝国主義」と題して。二〇世紀の帝国主義のダイナミズムを考える上で、今でもなおかなり有効なものは、言うまでもなくレーニンの『帝国主義論』だ。だが、日本の場合は必ずしもそれに当てはまらない面があった。再検討の論点は、まずカウツキーを同一次元で取り上げること、国家に分断されない人間存在そのものを脅かす金銭・暴力・技術への考察によって補うこと、類型的思考の導入。カウツキーとの対比では、よく語られたことに第一次対戦の評価を巡りレーニンに軍配が上げられたことであるが、そんなものにとどまらず、資本主義の腐朽性への論断こそがレーニンの真骨頂であり、現在、特に戦後日本についても重要な論断であり、カウツキーとは比較にならない優位性がある。次に、金銭・暴力・技術は合理性をもって際限なく「進化」し、そして本音と建て前の疎隔を極端にまで拡大する。それは代替可能性を広げる。これらは美名に粉飾される。このあと、著者は金銭と暴力について論じる中で、金銭=糞尿という、マルクスがかつて書き、消線を入れた『経済学・哲学草稿』(by 廣松渉)に沿っているとしか思えない議論を、フロイトを用いて展開する。「きれいは汚い、汚いはきれ」("Fair is foul and foul is fair")『マクベス』。貨幣の本質について、マルクスは『経済学・哲学草稿』で消線を入れずに『アテネのタイモン』から引用する。
黄金か。貴い、キラキラ光る、黄色い黄金か。
こいつがこのくらいあれば黒も白に、魂も美に、
悪も善に、老も若に、臆病も勇敢に、卑賤も高貴にかえる。……
目に見える神よ。
まあ、マルクスの洗礼を受けた人には説明不要のことだろう。貨幣は様々な物事を転唐ウせながら、接着するのだ。そして、無限増殖と到富を欲する。そのために、暴力と技術を従える。メディチ家は言う。「力を得るのは金、金を守るのは力」。金融と暴力を国家的規模で制度化したものこそ帝国主義であった。なお、この本でシャイロックが登場するが、彼は裁判で「血を流させずに肉を切り取れ」と命じられ、負ける。半端な金持ちは、国家暴力の前に無力である。本当の暴力は、国家を動かせるもののためにあるとも言える。そんなユダヤ人は実在する。たとえばロスチャイルド。ディズレーリがスエズ運河を欲した時にお金を用立てし、イギリスに取り入り、貴族に列し暴力機構を手に入れた。日本の場合も、「それにつけても金のほしさよ」「一にも二にも三にも金」とか、金色夜叉とか、金に振り回される。金が力に、力が金に。だが、西欧列強とは異なる面が確実にあった。
レーニンの帝国主義論に帰る。この本で示される腐朽性は、ヨーロッパを念頭に置いている。すなわち、市場が狭隘化し、再分割の戦争を余儀なくするのは、市場が狭隘になるほど「豊か」になっているからである。あるいは、金利生活者などが世界に寄生出来るほど、「豊か」なのである。カウツキーの超帝国主義論の前提も同じだ。そんな頃の日本ときたら、食うや食わずの人が一杯いて、銅と生糸の輸出で押し付けられた債務を返却している有様。高田保馬に至っては「国民皆貧論」などを発表し、貧しさこそが戦争へのバイタリティーとなると言う。そのメンタリティーは流布していた。(じゃあ、より貧しかった中国に負けるやんけ) 日本は空腹の帝国主義であり、土地獲得衝動に突き動かされた。だが、日本内部には既に金融寡頭制支配はあり、世界的には“持たざる国”と決めつけられるわけではなかった。金は財閥など、あるところにはあるが、その一方、恐慌で失職した労働者が故郷に徒歩で帰る姿も見られた。国内分裂は進み、政党政治は無力であった。大衆は財閥を憎悪し、『昭和維新の歌』に歌われるような感情を抱く。それが軍部台頭の背景にある。アングロサクソン流にミーイズムで肥え太る財閥――具体的な例としては三井の大番頭池田成彬――に適合的なイデオロギーは言うまでもなく自由主義。軍部が日本を支配した時、彼らが財閥に強圧的であったのは言うまでもないが、それに抗した財閥が自由主義――アングロサクソンの世界観からすれば「賢者」らしい――を護ろうとしたように時折描かれる。だが、彼ら自由主義者の財閥が護ろうとしたのは、カウツキー流の超帝国主義の枠組みだったに過ぎない。それも構築途上の。
著者はここで大日本帝国の破綻に至る道をトレースする。米騒動は朝鮮・台湾の米増産に向けた対策を政府に取らせる。増産したはいいが、これは米価の低下に帰着し、農民の所得を減らせる。力を得た金融資本は銀行地主を生み出し、農民の疲弊に追い打ちを鰍ッる。そのことは農本主義を台頭させ、ひいては土地獲得――新天地獲得――を目指す窮乏農民の農民ファシズム(空腹の帝国主義)を生み出す。シャイロックに対する憎悪は、日本では安田善次郎殺しなどで表現され、天皇制原理主義の台頭に繋がる。メディアは朝日平吾よりも安田に厳しかった。国家支配に手を染めたロスチャイルドよりも、そこから程遠かったシャイロックに安田は近かったということか。ちなみに池田は北一輝に資金提供するなど、在野の暴力機構を抱き込んでいた。テロ・クーデターの時代にあって、ロスチャイルド的な金融資本家は、他の資本家が破滅する行為から逃れ、軍財抱き合いの中、文字通り延命する。が、それは多数ではなかったように小生は思う。テロ・クーデターは自由主義的=国際主義的ブルジョアジーを無力化し、超帝国主義の可能性はなくなり、空腹の帝国主義に基づく「貧者必勝」の破滅的な戦争へと突き進んでいった。
時代は戦後へ。ソ連崩壊。飽食日本。日本は金持ちの国になった。レーニンは過去の遺物とされている今。だが、本当にそうだろうか? 『帝国主義論』での指摘は多くの点で今も当てはまろう。資本の輸出の一形態としてのODAと付随する腐敗現象。3K労働の輸出、あるいは移民への押しつけ。医療、生命、宗教にまで浸透する金融支配。そして一面、超帝国主義の勝利にも見える一方、米帝は戦争放火者として今、シリアに攻め込もうとしている。だが、同時に、アラブ共産主義を弾圧したレーニン流の考えに、はたしてアメリカを断罪する資格があるのだろうか??
終章は『特攻・玉砕への鎮魂賦』と題して。まずは吉田満の『戦艦大和の最期』が取り上げられる。学徒出陣で海軍士官として大和に乗り込んだ吉田。吉川英治の手ほどきを受け、半日で書き上げられた初版を入手するのは今、困難だ。占領軍の検閲、戦争肯定として批判された文章。「至烈ノ闘魂、至高ノ練度、天下ニ恥ヂザル最後ナリ」。これが今は「今ナオ埋没スル三千ノ骸 彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何」となって流布している。そのことについて吉田は言う。「占領軍の権威を利用して、日本人が日本人を打つ。これこそが戦後思想そのものだった。」(角川文庫版、一三一ページ。)次に皇軍兵士・吉田嘉七の『ガダルカナル戦詩集』。はっきりと戦争の実感を伝える。
命の全けん人は
おおどかに、豊かに生きて
この国の栄えを伝えよ。
われら身は裂け果つるとも、
この国に仇近づけじ。
荒磯べにたたずみて
日本。
かく呼べば、
ああ、かしこぞ、
空と水ふるるあたり、
われらが祖国
日本はあるなり。
(p237)
どうしてここまでパトスと共に戦い得たのか。これは、恐らく、第一章の「「妣の国」を護る闘い」という実感故のことだろう。そして、その答えの前には戦後行われた右派的な「正義の戦争」論も、左派的な「侵略的・帝国主義的戦争」論も、虚しいことだと筆者は問う。その上で改めて著者は言う。
改めて問われなければならない――なぜなのか。ここに死に至るまでの悲しき激情があるとすれば、それは彼らへの鎮魂、むしろわれわれ自身の魂の救済のためにも問われなければならない。昔も今も、人の世はあらゆる悲しさに満ちているからであり、それへの心からの共感しうる資質をわれわれの内に備えようとしない限り、歴史も社会も、さらには人種・民族を超えた相互理解も成り立ちえないだろうからである。
戦争責任を問うことは、「犯罪者」を糾弾することでは決してない。何ゆえに、「犯罪」に手を染めたのかが問われなくてはならない。キリスト教の言う原罪、仏教では業、あるいは悲苦。悲を通じて見れば、ベネディクトの言うように日本の戦争映画は「最もすぐれた反戦宣伝」たりうる。そしてベネディクトは軍隊内の実力主義が民主的地ならしをしたこと、その意味で真の国民軍であったことを指摘する。横の繋がりは各種戦友物語に見られる。それは娑婆では希薄な関係であった。軍においては死の平等は絶対的である。「乗員三千 スベテミナ戦友」(『戦艦大和の最期』)日露戦争の時に作られた軍歌の名曲『戦友』には「軍律きびしい中なれどこれが見捨てて置かりょうか」とある。そのエートスは、後に玉砕へと繋がる。日露戦争のこの歌は、横の繋がり、農村の貧しさ、友情が示されているが、共悲、共滅に繋がるものであった。『同期の桜』は歌う。「咲いた花なら散るのが覚悟 みごと散ろうよ 国の為」。この歌は『戦友』を意識して出来たらしい。但し、死を覚悟したニヒリズムに見えないだろうか? 差異は、『戦友』では「空しく冷えて魂は くにへ帰ってャPットに」であり、『同期の桜』では「花の都の靖国神社」である。どちらが、古来の日本的なものであろうか? 第一章を見ればいい。死者がともにいると実感される、『戦友』であろう。そして、著者は、言う。――これは『同期の桜』を聞けば胸が締め付けられる小生とは異なった感覚だが。そして、機会があれば靖国神社に参る小生とも違う感覚であろう。――
『同期の桜』には、『戦友』の全編に漲(みなぎ)る悲哀の情すら枯渇している。特攻という必死の戦法を採用して以来、日本人も実は“悲しむことのできない”人間になったのかも知れない。
古代以来の質朴な日本人の魂は、悲哀の極に「妣(はは)の国」を見いだしてきた。スサノオの山河を揺るがす号泣がそれを物語っている。しかし『同期の桜』の死は、たかだが人間の一生よりも短い大日本帝国のための死でしかなかった。
(p246)
一つの歌を参照項に思い浮かべるのもいいだろう。高木東六の名曲、『空の神兵』である。太平洋戦争開始から半年後、日本人はこの歌に熱狂した。旋律は西洋調で、陰々滅々としたお上ご推薦の軍歌とは違い、明るく開放的である。まあ、外国の軍歌を聞けば分かるが、そもそも軍歌はそうあるべきなんだが。ともあれ、日本にあっては「非軍歌」的な軍歌に、外部を感じさせる軍歌に、日本人が熱狂した歴史は知っておいても損はなかろう。これは、当時の日本人大衆の、雰囲気、もっと言えば風紀に対する反発を示していたのではなかろうか? 鬼畜米英と言われていても、いいものはいい!という当然の感覚の表出だったのではないだろうか? 南方歌謡とも言われた、このような歌は、その後廃れていく。日本の戦線は、「勝った、勝った」とメディアが騒ぐくせに、空襲が繰り返されたり、戦死の異常な増加などで「負けるな」と国民に薄々気づかせるものであった。その気分が、例え管制押しつけのものであれ『同期の桜』のような、悲壮感――但し、その悲壮感は国家主義と結びつけられたもの――を受け入れさせたものではないか。『同期の桜』には確かに非はある。だが、哀はない。哀を表出することは、すでに国家によって強く禁じられていたのではないか。それでも、小生はこの歌を聞くと胸を締め付けられる。悲哀の情の、「哀」は、枯渇しているというより、出せなかったのではないか。そして、軍国の(靖国の)母を中心に、もともと、人前で泣くことを良しとしない、江戸後期からの風習もあり、悲しみを表出しないようになったのではないか。そういう次第で、日本人は悲哀の情が枯渇したのではなく、出さなくなったのではないか、と。「大日本帝国のための死」は、そう考えると、軍国主義によって狽墲黷ス、儚いものではなかっただろうか? それでもなお、『同期の桜』は今なお聞く者の心を締め付ける。さて、著者の文章に戻ろう。
あの戦争で日本人は、実は神話とも訣別していたのかも知れない。
そうかも知れない。というのは、太平洋戦争を通じて、近代国家の残酷と日本は本当に直面し、敗北するという強烈なトラウマを植え付けられたからだ。明治維新に続くトラウマ。再び記す。「近代の日本人は実は自らを憎んでいたからである。」(p29) 日本は二度、自らへの憎しみを刻印された。だから、小生とてもこう言わざるを得ない。
われわれは“母国”という心の奥底から湧きあがるしみじみとした情感、「日本 かく呼べば」といういとおしさに満ちた情愛を、今、この国に寄せることはできない。
(p247)
戦後日本とは、アメリカのキッチュに過ぎない。対抗者は、日本への回帰は不可能事であり、せいぜい、「ヨリ素晴らしいアメリカモデルとしての――何が言いたいかを知りたい方は、例えば『レーニン主義の基礎』を参照にしてください、ソ連は、アメリカを目指していた――共産主義」であった。どちらも、日本の歴史からは切断されたよそ者である。近代国家たらんとした明治維新後の流れは、ニヒリスティックな闘いを呼び寄せ、それに敗れた日本は、全面的なニヒリズムに陥った。そして、三島由紀夫が言うように、「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た」ようになる。三島には申し訳ないが、それはそのように、当面宿命づけられていたのだろうと、痛苦の念を持って、二一世紀に振り返らざるを得ない。ここにおいて、左翼とされる河原先生と、右翼に担ぎ上げられる三島由紀夫の戦後に対する歴史観は一致する。敗戦は魂の死であり、太古以来の歴史はここに畢った。日本は二度、死んだのだ。維新、そして敗戦。
三島もまた指摘したように、魂の空白を癒すがごとく――あるいはそれを通じてアメリカに復讐するがごとく――日本は嵐のような経済拡大に励む。その情念はどこから来たのか? 明治以後、そして戦後を通じた日本人の、この狂的なまでの精勤は、古来からの日本人と何と異なることか!日本文化は、雅びを重んじ、淡泊、清楚を基調としていたのではないか。否、そうであるからこそ、自らの生命を顧みず、軍事に没頭し、経済に没頭できたのか? 富への執着がないから、再生産に投資可能――巨大な貯金が原資となったことを想起せよ――となり、奇蹟の高度経済成長を遂げたという逆説。その様は、空虚を埋めるとともに、向き合わなければならない己の魂の空白と向き合うことを(恐らくは)先延ばしにした。経済「成長」という。元々は子供や草木の生命力の伸長に対する言葉だ。そんな言葉が主として経済行為に使われるようになった時、日本人の感性は歪んだ。「抽象」の侵蝕にまかせてしまったから。
そう。答えは明白だ。日本人は、「日本をとりかえす」しかない。もののあはれ。自然とともにあった過去を。死者はつねにそばにいた感性を。安倍首相のスローガンが犯罪的なのは、近代によって押し付けられたからごころに過ぎない「強い日本」なんぞを「日本をとりかえす」と言いなしていることである。
かたきとみへしは群ゐる鴎、ときの声と聞こへしは、浦かぜなりけり高松の、うらかぜなりけり、たか松の、あさあらしぞ成りにける」(謡曲『屋嶋』)
(p250)
野暮を承知で書く。日本人は、このように自然の声に耳を傾けて生きてきたのだ。抽象ではなく。
本を読むと、打ちのめされることがある。この本の場合、その頻度が余りにも多かった。右や左の俗論を瞬間的に退け、納得せざるを得ない論を提示する。その論が、非常に新鮮でありかつ真っ当であれば、「俺は今までこの問題について何を考えてきたのだ?」と打ちのめされるのである。
この本と出合ったのは、去年の十月だったと思う。松山の紀伊国屋で、この本は光っていた。「読め」と。まあ、著者の名前が某選手と極めて近いせいであったような気もするが。
著者は一九二八年生まれで、大東亜戦争を少年兵予備として終戦を迎えた。戦中派の常として、戦争で死ぬのは前提として、死ぬ意味を求めていた。戦後、価値観が激変する中、新たに流行となる価値=マルクス主義、民主主義などなど=とは距離を置き、おそらくは死んでいった者たち=それは可能性としての自分でもあったろう=の意味を問い続け、去年亡くなった。
この本は、一九九五年三月にまず築地書館から出版されている。あの阪神大震災の直後である。本書のあとがきにそのことについて触れているが、オウムについては触れていない。(あのテロは三月二〇日) いきなりだが、初版あとがきから抜粋しよう。
本書は「戦争」を、人間の実感、心の軌跡としても捉えようとしたものだからである。
今、世界と日本は巨大な変動に直面している。戦後日本についていえば、それは永らくわれわれを拘束してきた次の三つの“信仰”が崩れ始めたからである。
第一には、ソビエト体制が崩壊したこと(中略)第二に、あのバブル経済最盛期に横行した「金銭」信仰が崩れた(中略)第三は、「技術」信仰への疑念である。(中略)あの阪神大震災での横唐オになった高速道路であり、橋桁を落下させた新幹線の橋脚だった。(中略)結局、人間の心や自然の摂理を上回る意義をもつものでないことを教えている。
直後、ニューエイジ思想のなれの果てと言えるオウム事件が起き、「心」にまつわる言説にも疑念が湧いたわけだ。
何かに期待し、前提とし、それが崩れる。歴史の実相とはそういうものではないか。ミネルヴァの梟が飛び立ったあと、全ては明らかになる、といわれる。だが、それは、振り返る時点での価値によって、だ。同時代的に追体験することはすごく困難である。
ここで一人の男のことを紹介したい。他ならぬ、この評者の父だ。子供の頃、父の言うことが結構嫌だった。だって、あの戦争を肯定的に語るし。学校で言われていることと違うやん、と。父は一九三五年生まれ。軍国主義教育を真に受けて育った世代である。ちなみに学年でたった二つ上の母は、そのペテン性に子供の頃に気づいていた。では、父は気づいていなかったかというと、細かく書くわけにはいかないが、決してそんなわけではなかった。だが、父の父(小生から見れば祖父)は、沖縄戦で戦死していた。小生の父は祖父から大変可愛がられていたらしい。その祖父を奪った戦争を憎んでいるのは確かだったが、しかし、同時に、戦後の「民主主義野郎」が戦争を全否定する言説を垂れ流すことは、受け入れ難かったと思う。今になって、父親の考えと気持ち
は大変よく分かる。ちなみに戦後民主主義のチャンピオン、丸山真男は「さすが!」と唸らせることを言う。
「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」
(p258)
丸山は一九一四年生まれ、大人になってから敗戦を迎えている。この世代は、大東亜戦争に至る流れを知っているので、その虚妄性も知っている。彼は、逢えて、大日本帝国を『実在』と言い、戦後民主主義を『虚妄』と言っている。すなわち、戦後民主主義というアメリカ由来のキッチュを、虚妄と知りながら賭けているのだ。この世代は、悪く言えば「ずるい」。軍国日本のペテン性も、戦後日本のペテン性も見抜いているのだ。評者の父親は軍国日本を真に受け、敗戦=祖父の死=戦後民主主義の到来を死ぬまで受け容れなかった。すなわち、父は戦後の時間について、「止まっていた」のだ。レイ・チャールズの歌の一節に "time has still, since we apart"というのがある。別離は意識の時間を止めることがある。父にとって戦後は「生きるべき時間」ではなく、「止まった時間」であった。死ぬ意味を考えていた河原少年もまた、死を与えられなかったことで時間が止まったように思う。彼は言う。
「生きててよかったっていう気持ちはゼロ。皆無ね。」
(p261)
前置きが長くなった。ここまでに書いていない課題を含め、本題に入る。かなり長い「メモ」になる。
まずは前書きから。一九九五年頃にこの本は書かれたが、歴史の曲がり角であった。先にミネルヴァの梟と書いたが、「見るべき程の事は見つ」という『平家物語』の平知盛の言葉からこの本は始まる。時代の曲がり角では“見なければならない”ものを歴史は提示する。著者にとってそれはあの戦争である。
あの時代にあった実感。それが何だったのか見ようとする。軍学校の最上級生である河原少年が実感として考え抜こうとし、生涯鰍ッて考え抜いたもの。「国家」「戦争」「天皇」。敗戦は、“歴史の畢(おわ)り”。「ずるい」大人たちへの不信感はこの世代独特のもの。年齢、立場による微妙な差異はともかく。同年代の死者に戦争の意味を答えようとする。外来イデオロギーに過ぎない左派からの批判、反転したとはいえ同一由来の右派からの批判に動じず。情と理の綜合を目指して。
第一部は本の題にもなっている『日本人の「戦争」』と題して。あの戦争は、古代以来の歴史と古典と伝統のすべてを注ぎ込んで、すべてを失った戦いだったと著者は言う。そうすると、特に左派は怒る気がする。だが、そうなのだ。そう考えたであろう人は、右派以外にもいる。例えば、以下の林達夫の滂沱の涙なんぞ。
http://www.geocities.jp/osaka_multitude_p/gakushuu_bunken/atarashiki_makuaki.html
http://red.ap.teacup.com/tamo2/380.html
敗戦により日本人は歴史を失ったと言うのは、著者だけでなく、特に保守系の論壇で良く見られる。戦後は、アメリカお仕着せの民主主義、あるいはカウンターとしての共産主義を身にまとって日本人は生きた。いずれも「外部」の「抽象」である。では、敗戦以前の日本人がもっていた歴史とは何だろうか? ラフカディオ・ハーンが雇っていた萬右衛門の言葉が引用される。日清戦争終結後、戦死者について。
日本人は誰もが死ねばまた帰ってまいります。(中略)ええ、もうみんな、わたしどもといっしょにおりましてな。
(p23)
死者はそこに、ともにいた。だが、この実感は、実は明治維新の後、「抽象」に蚕食されていっていた。否、近代国家というもの自身が、「抽象」の実体化を世界に押し付けるものであったのではないか。「近代の超克」が叫ばれ、あるいはマルクス派が挙って太平洋戦争に万歳を叫んだ根拠は、この無理を感じていたからではないか。近代化のための抽象として、「神国日本」があった。そこで日本は己の歴史から切り離され始めた。そして、帰る場所を失い、玉砕を可能にした。それは、同時に、日本古来の滅びの美学であったと言うべきか。敗戦により帰る場所がないことを突き付けられた日本は、さらに新たな抽象「民主主義」「経済活動」に日本人は邁進した。日本人が失った心(実感)は何か? あれ?河原先生は、左翼に分類されているはずだぞ?
自滅的な戦争。何ゆえか。「近代の日本人は実は自らを憎んでいたからである。」(p29)黒船による強制開国は、滅びへの予兆であった。ハイカラを憎んだ心理は、夏目漱石の『坊っちゃん』の赤シャツの描写に見られる。昭和の米英派は、投機で民衆を苦しめた者でもあった。「なにが「日本」だ、なにが「帝国」だ」という庶民の実感。糊塗するように溢れる国家主義的言説。徹底した分裂。これが、明治維新が作った「大日本帝国」であった。「本(もと)」への渇望。万葉、古事記が動員される理由。この中から、著者は次の スサノオの慟哭を示す。
僕(あ)は妣(はは)の国に往(ゆ)かむと欲(おも)ひて哭(な)くなり
(p33)
死んだ母・イザナミを思い、本(もと)に還ろうとして哭く。これが古代神道の荒魂(あらみたま)の発露である。近代の下では抑圧された荒魂。「妣の国」を護る闘い。ファシズムは民族古層の噴出と言われることがある。近代の抑圧が極点に達した時、日本は正しくもファシズムとなった。「昨日は遠い昔となり、遠い昔が今となつた」(開戦時の高村光太郎)。近代という無理。ドンツキで帰本に焦がれ、「妣の国」を慕って哭く。大日本帝国の破滅の中、更なるモトへ。「ゆきつくのは古典、それもわれわれの持つ最古の古典の、しかも最初の部分、つまりあのスサノオの慟哭の部分」(p34)へ。近代に押し付けられた「大日本帝国」のためには死ねない。英霊たちは「妣の国」を護るために死んだ。
死のきはの兵が微笑に光りたち やさしき母の声よばはりぬ
(p36)
大東亜戦争は死で彩られている。そのBGMは良く知られているように『海ゆかば』である。万葉集の大伴家持の長歌の一節。五十六元帥の国葬のラジオ全国放送で、学徒出陣の『抜刀隊』が流れるとき、女学生が大合唱していたという。元々は陸奥での金の産出を言祝ぐ「たおやめぶり」の歌なのに。こういう言霊のひっくり返りは「大和魂」と一緒だな。あ、「君が代」もか。では、どうして、死を恐れぬBGMとして現れたか。「妣の国」の共生感覚を死の場所で恢復するために相応しかったからであろう。敗戦は、言霊をも殺した。
戦争は修羅の場である。中世の武士はそれにおののいた。殺生を生業とし、罪におののいた。この矛盾に最も深く苦しみ、悩む者の典型なのが熊谷次郎直美である。平敦盛を討った後、戦の虚しさから彼は仏門に入る。敦盛は幸若舞の一節になっている。織田信長が愛誦したと言われる。
人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 一度生を得て滅せぬ者のあるべきか
だが、これはこのように続く。信長はそこを歌わなかった。
是を菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりし次第ぞと思い定め……
中世の武士は仏教に救いを求め、美学に救いを求めた。信長はドライなので、行為そのものに救いを求めていたと小生は思う。信長は徹底した合理主義者であり、仏の救いを拒否したニヒリストである。「天下布武」は武士の止揚まで構想していたのかも知れない。武士は所領の獲得のために命を懸ける。信長はそれを破壊しようとした。さて、信長は桶狭間の戦い(奇襲戦法)で有名だが、これは例外で、他の戦いは合理性に貫かれ、自己変革を遂げていった。然るに、日本軍は桶狭間を言い募り、自己変革は学ばなかった。日本において「革新」を言うものは、外部から何も学ばない者たちであるという言葉は、戦前・戦後を貫く著者の皮肉である。社共を見れば十分だろう。
「七生報国」という言葉は、『太平記』の楠正成の言葉がオリジナル。河内の英雄、楠公のことを思えば胸が一杯になる。「事態を引き受ける」。彼は一九一七年七月に散ったボリシェヴィキの先駆者だ。楠公は「七生報国」の言葉、「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候ヘ」と述べた後、「罪業深き悪念ナレ共我モ加様ニ思フ也」と続ける。楠公は武士の罪業を自覚していたのだ。そして「七生」に輪廻の感覚がある。これらの自覚、感覚は、時代が下がるにつれて武士から失われていく。修羅の場から離れて行き、武士道が観念化したからであろう。そして大東亜戦争において、「七生報国」は死を正当化するスローガンに成り果てた。
近代の国民国家の起こりは言うまでもなくフランス。これはどの瞬間にメルクマールを捉えるべきか。良く言われるのは一七九二年のヴァルミーの戦い。フランスの王党派、貴族はフランス革命に反対して他国の君主の側についた。それに憤激したフランスの市民は義勇軍を組織し、革命干渉戦争に勝利し、市民は国民となった。国民軍の恐ろしさは、祖国という「永遠」と一体化したがゆえに、死を恐れないことである。従軍し、命を懸け、国民となった民衆。臣民には祖国はない。国民は文化、政治、経済に主体的に関わり、祖国と一体化する。国民国家の形成は戦争と表裏一体である。それが内戦であっても。日本の場合のその起点は、西南戦争であった。西郷と乃木が象徴。西郷は朝敵であったが、『抜刀隊』で「敵の大将たる者は 古今無双の英雄で……」と讃えられ、国内統一の道具となった。乃木は、官軍側で闘い、萩の乱の鎮圧のため、幼馴染たちを殺すことになった。彼はその後、死に場所、死に時を探して生きることになる。乃木は明治天皇に殉じて死んだと言われる。西南戦争で軍旗を奪われたことを恥じて死ぬべき時は、崩御の時であった、と。軍神乃木、軍旗の神格化はこうして始まったが、しかし、著者によればそれは後付けではなかろうか、となる。彼は戦争の折々で、友人、肉親、部下を失い、日本軍の悲劇の象徴となる。武士道の権化として、マッカーサーにも尊崇の念を起こさせた存在である。吉田松陰の叔父にして師匠の、玉木文之進から武士の魂を受け継いだ乃木は、「近代日本の矛盾と悲劇を一身に体現」(p71)した。日露戦争後、戦争遺族を慰問する彼はしかし、官僚からすれば邪魔者であった。明治天皇は尊敬に値する人間(←ここでは神とは書かない)である。近代の無理、さかしらさを理解していた明治天皇は、乃木の唯一の理解者である。崩御されると、乃木には跡を追うことだけが残されていた。システムというのは恐ろしい、そのような近代の悲劇を体現した乃木を軍部は軍神として乃木を利用する。こうして、日本軍は「皇軍=国民軍」として作られていった。まさに悲劇の共有を「国民=軍」は果たしたのである。腐敗した清やロシアが戦線において負けたのは必然的であった。世界に躍り出る日本の「明」は、犠牲の上にあった。戦死などの「暗」。大塚楠緒子(なおこ)の「お百度詣で」にそれは表現される。
朝日に匂ふ日の本の 国は世界に只一つ
妻と呼ばれて契りてし 人は此の世に只ひとり
(p73)
この時代の日本は若く、個人の運命と集団の運命を同一視可能な、奇跡の時代だった。維新で身分制度がなくなり、武家の子も百姓の子も、天皇の赤子=国民として平等だった。この感動が、喜んで死地に赴く国民を生んだ。乃木の死はその若い日本が老いるメルクマールであった。乃木の死を本音では「馬鹿」と国民は言いながら――勿論乃木の本心を国民は知らない――、軍神として新聞メディア挙って乃木を祭り上げた。タテマエの羅列としての『軍人勅諭』『戦陣訓』。そんなもののために人は死ねない。「妣の国」のためには死ねる。だが、現実には「天皇陛下万歳」という建前が覆った。
「国民」としての実感は遠ざかり、「抽象」が人の生死をも覆っていた。
(p79)
カルタゴの滅亡を見たローマ軍の総司令官スキピオ・エミリアヌスは「ローマもこれと同じときを迎えるであろう」と、イーリアスを呟いた。彼は「見るべき程の事」は見た。大東亜戦争敗戦の傷を抱えた日本人は、経済成長を遂げた。だが、それを支えた世代は“いつまで続くことか”と思い続けた。驕れる者は久しからず、、、この滅亡感覚を終戦で実感した日本人は、繁栄の中にもこの感覚を維持した。『平家物語』は、平氏滅亡の折、平知盛が裏切りと滅亡の流れの中で「見るべき程の事は見つ」と言い、個人の運命を超えて歴史の中に歴史を見る視点に到達した。
歴史を生きるとは、その中で必然的に到来する崩壊と滅亡の運命を、その来る前から見据える眼を備えて生きることである。
(p83)
夏目漱石は『三四郎』で、広田先生に明治国家は「滅びるね」と言わせた。永井荷風は昭和二〇年三月九日の東京大空襲を『断腸亭日乗』で滅びの様子を淡々と描く。自宅の焼失も。永井は昭和一五年に西暦表記とし、昭和二一年に元号表記に戻した。大日本帝国や戦後民主主義の狂熱の中に「見るべきものを見」たのであった。だが、著者の意に反するかも知れないが、こんなことを見れるのは少数派である。大事なのは、その実感が伝わること。「話せば分かる」「問答無用!(ズドン)」どちらかと言えば、青年将校に同情する小生。おっと。ここでは、「話せば分かる」という世界になってしまっていたら、実感は伝わらない、ということが大事。昭和初期に日本社会には亀裂が走り、異文化圏が形成されていた。文化的同一性は歴史の中で育まれ、その精粋である古典のみが実感の伝達を保証する。ここにヒビが入れば、実感は失われ、「抽象」に人々を走らせる。明治維新、敗戦、二度も日本には巨大な亀裂が走った。明治の赤シャツ青年には維新回天の世代の実感が、戦後世代には、戦前世代の実感が分からない。分裂国家、日本。「心」が伝われば、それを支える歴史があり、文化があるということ。
そうだとすれば、われわれも歴史の中に心を求めて、可能な限り多くの人と共有できる新たな実感と共感の源を探りあてなければならない。それなしに歴史は存立しない。
(p92)
これをなすには、共悲の心をもって『平家物語』に匹敵する新しい古典を創造するべきである。あの敗戦で、日本の「歴史は畢った」のだから。評者の親父に帰る。親父の身の処し方は、正しかったと今になって言える。
第Ⅱ部は「「開戦」と「敗戦」選択の社会構造 ――“革命より戦争がまし”と“革命より敗戦がまし”」と題して。
まず、太平洋戦争開戦の選択は、国体護持の観点からの戦争か革命かの選択であった。な、何だってーー!! 日本共産党が壊滅しているというのに! 説明しよう。天皇家には一財閥程度の金融資産(資本家)、日本最大の山林地主という側面があった。国体という概念から大事なのは地主という側面である。日本のブルジョアジーは後に見るように脆弱で、国体の庇護が必要であり、国体擁護と私的財産擁護の治安維持法を必要とした。土地所有を巡る地主―小作関係こそが国体の本質であった。地主の身勝手な小作料の引き上げへの反対は、私的所有への侵害となり、農民の困窮は運命づけられた。。娘は売られ、次男坊は兵士として戦死することで家族に金を送る、そういう時代となった。国内危機は外への戦争へと転化させられた。青年将校らの二・二六はその方向を加速した。日中戦争の泥沼を広げることで当座の危機を転化させたのだ。改革の必要性について国会で議論はされるが、地主などの強烈な反対で改革は阻止され、その口実に国体が用いられる。彼らは普通選挙法を敵視し、優生学を持ち出して優勝劣敗を説いた。今のネオリベどもに似ている。農地改革を本気で行おうとした人間がどうなるか? 一九四一年の「企画院事件」が挙げられる。アカ=共産主義者の幻影に連中は怯えていたのだ。確かに農業の機械化、協同化はソ連を思わせる。戦争遂行のための方策として提案されているが、農村のソビエト化を招きかねない。そこで農業改革が引き起こしかねないソ連化(革命)を日本の指導部は拒否し、改革を拒否した。なお、敗戦により占領軍によってさらに先にまでなされたのであった。戦前の国体破壊の意図を占領軍ははっきりと持っていた。
さて、いわゆるハル・ノート。それまでの流れは省略。太平洋戦争の開戦を巡る議論に。近衛文麿や木戸幸一は追い詰められた日本は、それでも「今後十年を目標とし臥薪嘗胆の決心をなし」て戦争回避を言う。それは中国戦線からの撤退を意味する。それは満州国の否認、朝鮮、台湾独立の動きに、そして大日本帝国の大動揺に繋がるであろう。見返りは石油禁輸措置の解除程度。しかし日本指導部総体は「大坂冬の陣」――外堀だけでなく内堀まで埋めた徳川――を想起し、妥協しても破滅と考える。謀略に長けたアメリカは日本側にトリガーを引かせた。さて。中国戦線からの撤退の意味について再び。多大な犠牲者をすでに出していた中国戦線からの撤退は、敗北を意味する。南京事件はすでに広く世界の知るところであったが、それが日本国内で知られると倫理的に陸軍を崩壊させる。中国への進出企業の利権は失われる。そして次の点が大事かと。命がけで戦った兵隊さんが国内に大量に戻ると、腐敗した資本家や政治家の群れ。享楽にふける都会と彼らの故郷の農村の疲弊。武器を未だに手にした兵隊さんが、コトを再び(二・二六)起こさないということがあろうか? 政府はコミンテルン流共産主義イデオロギー撲滅には成功していたが、湧き起こるであろう下からのコミュニズムの可能性に恐浮オたのだ。それは内戦=革命への恐浮ナあった。利口な昭和天皇もそれに恐浮oえた。一部の自称愛国者は覚えておくといいが、資本主義にからめ捕られた天皇(制)は、君たちの理想を決して体現しはしない。君たちが、本当に理想を追い求めるならば、君たちは極右になるべきである。
さて。今の自民党政権には、戦争は不可避だったとかのたまう人がいる。確かに、ハル・ノートあたりで区切ればそう言わざるを得まい。だが、物事には流れがある。事前に農地改革を政治主導で行い、貧富の差を解決しておけば。これを解決しなかったから、レーニン帝国主義論のごとく、国内矛盾を帝国主義戦争で海外に押し付けたわけだ。それが軍国主義の正体である。二・二六という痙攣、それを利用した軍部の強大化にはそういう背景がある。とはいえ、「国家」が腐敗した時点にまで遡って考えなければいけない問題と小生は思う。
次に革命よりは敗戦のほうがまし、という議論。一九四五年二月の近衛文麿の上奏文。最近時折見られる大東亜戦争の「左翼の陰謀論」が語られている(笑)。「官僚及び民間有志」=「右翼は国体の衣を着けたる共産主義者」が「意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し」ているらしい。。これはもう、国民の殆どを反「国体」のアカとみなしていたようなものである。スターリンが、熱烈な支持者を潜在的裏切者とみなしていたようなものか?敗戦は受け入れられるが、早く受け入れないと革命が起きるぞ、と。この妄想めいたものもまた、昭和天皇や側近に共有されていた。国体護持に目途がついたところで、「革命より敗戦がまし」と考えて敗戦が選択された。なお、本土決戦では連絡網の破壊を考え、各地域での独断遂行を求めた。これは「自分で考える」ことであり、組織論的な国体の否定である。天皇が本土決戦に危惧したこととのこと。敗戦により日本人が経験しそこなったことは、自分の命を懸けて闘うことを#自分で#決意すること、意味を知ることであった。逃げることも決意であった。何しろ、本土決戦は「自分で考える」ことを求めるのだから。本土決戦派が革命的であると、例えば千坂恭二氏が言うのは、そういうことかな? なお、小生の友人は、本土決戦にまで行き着けなかった日本人は、本質的に革命が出来ない民族なのではないか、とどこかでつぶやいた。(続)
第三部は「天皇・戦争指導層および民衆の戦争責任」と題して。この本が書かれたのは一九九五年、すなわち戦後五〇年である。直接的な利害や怨恨からは解放されているが、当事者の実感はなくなる直前。戦争責任は難しい。本書にカール・ヤスパースを挙げている。今の世代に罪はないが、責任はあると言われる。アメリカの庇護の下、戦争責任から日本は逃げてきた。そして戦争責任は、時代性を持つ。戦後責任であるとも言われる理由である。本から離れるが、アメリカは日本への庇護を外そうとしている。中国、南朝鮮の言うことを是としている。庇護が国益に反すると考えて当然である。安倍首相はどこまでわかっているのだろうか? ヤスパースは、刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上の罪を挙げる。最後が難しい。キリスト教の神という概念によって導き出される「疾しさ」という罪。明治憲法の規定により、前者二つの罪を天皇に問うことは出来ないという議論と御聖断が出来たなら開戦を回避する聖断は出来なかったのかという議論。いずれにせよ天皇の政治責任に関する議論。そこを衝こうとしたのが歴史学者、井上清。歴史を踏まえ、道義的責任を追及する。それは形而上的責任を浮かび上がらせるであろう。だが、「天皇ヒロヒトを処刑せよ」と言ったところで、すでに意味はなかった。東京裁判そのものが政治的ショーという側面が色濃くあったしね。では、この追及の意味は? 筆者にとってはまず、天皇の名の下に行われた戦争ゆえに、その名の下に死んでいったものに応えるかということにある。それは戦場となったアジアの民衆に対しても、である。こうなると、道義と形而上の責任にしかならない。太平洋戦争決断時の首相、近衛文麿は一九四五年一月六日に言う。「その際(敗戦)は単に御退位ばかりでなく、仁和寺或は大覚寺に御入り被遊れ、戦没将兵の英霊を供養被遊されるのも一法」。あの時点で、天皇の道義的責任の取り方を考えている側近がいたのだ。著者は最善だと言う。来週から面白そうな映画がある。昭和天皇がモーニングを着、マッカーサーがラフな姿で収まっている写真。あれは、戦後日本の出発点を刻印したものだ。ありうべき道を採らず、あるいは採らされず、歴史を破却した日本。天皇丸ごとの転向と言えよう。いや、転向なんて「同一平面」が措定出来る話じゃないな、これ。天皇丸ごと、戦後民主主義という虚構、抽象に身を投げたということだ。天皇家がキリスト教徒というのはよく言われる話。
さて、近衛文麿。昭和天皇が仏門に入るということは、おそらくは日本人が世界宗教の視点から戦争を見つめることであった。一切衆生の平等という観点、人間存在そのものの深みから捉えるには日本ではこの宗教しかない。神道は神風を言う。仏教は蒙古兵を弔う。靖国神社の位置づけも変わったであろう。行脚という形でアジアに弔いの旅に出られることにもなったろう。イメージは太平記の光巌院。だがそうはならずに、イギリス王室の形だけを真似た戦後の象徴天皇。道義的責任、ひいては形而上学的責任を回避することになった。そういう次第で時折見せておられた昭和天皇の痛切の念は、「文学的なことは分からない」などで、封印されたのだと小生は思う。そして天皇は時の政府に政治利用されまくるようになった。それは民衆の態度と重なる。
道義的責任を没却した日本人の戦後姿勢は、まさに戦後史の内に明証されている。これこそが天皇の戦争責任だった。
(p161)
ドイツと日本の差。一言で言えばヒトラー一派に逝かれたドイツと、同調的に全体が逝かれた日本ということになるか。だから、本来、日本はナチスのような一部のせいに出来ないのである。その一つの表現は一億総懺悔。根拠のないことではなかった。だが、これでは濃淡をなくし、責任の所在を曖昧にする。責任の帰着という点で、別の方法には軍国主義者に詰め腹を切らせる方法があった。これは東京裁判という勝者の方法であった。こうして東京裁判は戦争責任の回避と解除の論理を提供した。なお、東京裁判が罪刑法定主義を侵しているという批判は今でも右派からなされる。懲罰は政治的であった。「共同謀議」は論外。勝者の復讐心という批判は当然ある。パールは植民地インド人として言わなければならなかった。おい、軍国主義者の煽動で戦争は継続できるのか? 免罪された層がある。官僚と財閥である。鬼畜米英はブーメランを恐れて、彼らを訴追できなかった。行えたのは財閥解体などの刑罰のみ。責任意識を醸すものではなかった。彼らはすぐに表舞台に復帰するであろう。例えば、革新官僚岸信介。彼は首相になった。彼を押し上げたのは民衆である。
戦争指導層の責任は孤立してあるのでなく、民衆の戦争観、責任感、道義観と不可分に結合しているのである。
(p169)
そこで著者は民衆の戦争責任について問う。だが、これは、犯人捜しのことではない。「形而上の罪」に属する。例として挙げられるのはニーメラーの言葉。余りにも有名だが、便利なので(謎)ここに引用。
ナチ党が共産主義を攻撃した時、私は多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前より不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した。しかし、それは遅すぎた。
(p170)
この文章は、事後(戦後)に書かれた告白である。また、ニーメラーはナチへの抵抗で投獄されている戦闘的な人である。Uボートの艦長でもあった。キリスト教の倫理に裏打ちされている。「なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲げよ」(ヨハネ伝、第八章)。
さて、日本。大衆は好戦的だった。戦争は儲かるという意識、強者への過剰同調、弱い者いじめ。後ろ二つは日本人の病痾である。日清、日露、第一次世界大戦のたびごとに戦争成金が現れ、財閥も中小企業も肥え太った歴史がある。兵隊になるということは、食いっぱぐれがないということである。戦功があれば豊かになるし名誉もつく。だが、ここに難しさがある。日本は、貧しい国であったという問題である。こんな鶴彬の川柳がある。
裏切りをしろと病気の妻の顔
裏切りの甲斐なく病気の妻は死に
(p175)
もし彼が軍需工場の労働者だったとしたら? ストを裏切ることは仲間への裏切りにとどまらず、戦争協力ともなる。とはいえ、裏切らないことは生活破綻である。そして裏切っても妻は死んだ。戦後、日本の経済発展の呼び水は、他国の戦争、すなわち朝鮮戦争であった。それにとどまらず、冷戦および朝鮮戦争のおかげで、日本の生産設備は破棄や国外移転されず、戦後の繁栄が準備された。「戦争は儲かる」という感覚は、戦後も継続した。タテマエとしての憲法を誇る向きは、このことを絶対に忘れてはいけないと思う。だけどなあ、だからといって、朝鮮戦争で儲けた日本は、朝鮮人に謝罪と賠償を!という一部朝鮮人は、自らの主体の責任を放棄している愚か者、あるいは民族の恥と断じざるを得ないね、これは。
「和して同ぜず」という言葉がある。日本にあるのは和ではなく、同ではないかと著者は問う。そこには政治的な権力が背後にある。「アカ」でないことを示すために、時の権力に過剰に同調する「奴隷根性国民」、日本。ちなみに、和には、差異を前提とした発想があると小生は思う。儒教は偉大なのだ。「バスに乗り遅れるな」と、なだれ込む「奴隷根性国民」。この流れに闘い得た――但し挫折した――のは、真正ファシストの中野正剛くらいか。そして反面としてのイジメ、村八分。イジメはかなりねじけた様相を示す。例えば、特攻の第一陣、敷島隊の指揮官、関行男中佐は軍神となり、地元の愛媛西条では顕彰碑建立がされるほどであったが、地元の人は妬み、遺族をいじめる。なお、軍功に応じた報奨金は殆どなかったようだ。軍隊内のいじめは、『人間の條件』や『真空地帯』に描かれる。「殴ることを止めたら、皇軍もなくなる」(p184)。というのは、「俺の命令は天皇の命令」であるが、逆に言えば、命令が不法、非道、暴虐であった場合、すべての責任は天皇に帰着することになる。肉体的暴力はその遡及を切断するために必要であったのだ。歴史を見れば、暴力は論理を超越するものだ。暴力の連環は外部へと転換され、日本軍独特の残虐さを齎した。この「軍人精神」は国民に拡散し、その無形的威力は絶大だったとのこと。軍隊のイジメの構造は、国民・国家をむしばんでいった。朝鮮人には当然言葉が分からない人もいるから、意味を聞けば「知らんのか!」と言って殴られる。ためしに一日何回殴られたかを数えたら、七二回だったとのこと。この連環に組み込まれた日本人一般に、戦争責任がないと言えるのだろうか? さらに言えば、朝鮮人の中にも、進んでこういう分子がいたことは、例えば『血と骨』で描かれている。朝鮮人の戦争責任も、小生はあると思う。日本人よりは罪は軽いけどね。さて。朝鮮人が内地に来ることで、賃金水準は低下した。朝鮮で朝鮮人が働けば労賃は1、内地に来れば3~5、そりゃあ、内地に来る。ちなみに日本人は10。で。内地の大企業はこの朝鮮人の労賃も、掠め、くすね、支払わなかった。「逃亡防止」を口実に。そして、朝鮮の家族に送金すると言いながら、送金されていなかった事例さえある。帝国官僚を慨嘆させる非道さ。このことさえ糺せないならば、やっぱり、「歴史を見ない民族に未来はない」と言わざるを得ない。但し、この言葉は日韓条約という形で、勿論南朝鮮政府にも跳ね返るのだ。
第四部は「日本の「戦争」と帝国主義 ――空腹の帝国主義と飽食の帝国主義」と題して。二〇世紀の帝国主義のダイナミズムを考える上で、今でもなおかなり有効なものは、言うまでもなくレーニンの『帝国主義論』だ。だが、日本の場合は必ずしもそれに当てはまらない面があった。再検討の論点は、まずカウツキーを同一次元で取り上げること、国家に分断されない人間存在そのものを脅かす金銭・暴力・技術への考察によって補うこと、類型的思考の導入。カウツキーとの対比では、よく語られたことに第一次対戦の評価を巡りレーニンに軍配が上げられたことであるが、そんなものにとどまらず、資本主義の腐朽性への論断こそがレーニンの真骨頂であり、現在、特に戦後日本についても重要な論断であり、カウツキーとは比較にならない優位性がある。次に、金銭・暴力・技術は合理性をもって際限なく「進化」し、そして本音と建て前の疎隔を極端にまで拡大する。それは代替可能性を広げる。これらは美名に粉飾される。このあと、著者は金銭と暴力について論じる中で、金銭=糞尿という、マルクスがかつて書き、消線を入れた『経済学・哲学草稿』(by 廣松渉)に沿っているとしか思えない議論を、フロイトを用いて展開する。「きれいは汚い、汚いはきれ」("Fair is foul and foul is fair")『マクベス』。貨幣の本質について、マルクスは『経済学・哲学草稿』で消線を入れずに『アテネのタイモン』から引用する。
黄金か。貴い、キラキラ光る、黄色い黄金か。
こいつがこのくらいあれば黒も白に、魂も美に、
悪も善に、老も若に、臆病も勇敢に、卑賤も高貴にかえる。……
目に見える神よ。
まあ、マルクスの洗礼を受けた人には説明不要のことだろう。貨幣は様々な物事を転唐ウせながら、接着するのだ。そして、無限増殖と到富を欲する。そのために、暴力と技術を従える。メディチ家は言う。「力を得るのは金、金を守るのは力」。金融と暴力を国家的規模で制度化したものこそ帝国主義であった。なお、この本でシャイロックが登場するが、彼は裁判で「血を流させずに肉を切り取れ」と命じられ、負ける。半端な金持ちは、国家暴力の前に無力である。本当の暴力は、国家を動かせるもののためにあるとも言える。そんなユダヤ人は実在する。たとえばロスチャイルド。ディズレーリがスエズ運河を欲した時にお金を用立てし、イギリスに取り入り、貴族に列し暴力機構を手に入れた。日本の場合も、「それにつけても金のほしさよ」「一にも二にも三にも金」とか、金色夜叉とか、金に振り回される。金が力に、力が金に。だが、西欧列強とは異なる面が確実にあった。
レーニンの帝国主義論に帰る。この本で示される腐朽性は、ヨーロッパを念頭に置いている。すなわち、市場が狭隘化し、再分割の戦争を余儀なくするのは、市場が狭隘になるほど「豊か」になっているからである。あるいは、金利生活者などが世界に寄生出来るほど、「豊か」なのである。カウツキーの超帝国主義論の前提も同じだ。そんな頃の日本ときたら、食うや食わずの人が一杯いて、銅と生糸の輸出で押し付けられた債務を返却している有様。高田保馬に至っては「国民皆貧論」などを発表し、貧しさこそが戦争へのバイタリティーとなると言う。そのメンタリティーは流布していた。(じゃあ、より貧しかった中国に負けるやんけ) 日本は空腹の帝国主義であり、土地獲得衝動に突き動かされた。だが、日本内部には既に金融寡頭制支配はあり、世界的には“持たざる国”と決めつけられるわけではなかった。金は財閥など、あるところにはあるが、その一方、恐慌で失職した労働者が故郷に徒歩で帰る姿も見られた。国内分裂は進み、政党政治は無力であった。大衆は財閥を憎悪し、『昭和維新の歌』に歌われるような感情を抱く。それが軍部台頭の背景にある。アングロサクソン流にミーイズムで肥え太る財閥――具体的な例としては三井の大番頭池田成彬――に適合的なイデオロギーは言うまでもなく自由主義。軍部が日本を支配した時、彼らが財閥に強圧的であったのは言うまでもないが、それに抗した財閥が自由主義――アングロサクソンの世界観からすれば「賢者」らしい――を護ろうとしたように時折描かれる。だが、彼ら自由主義者の財閥が護ろうとしたのは、カウツキー流の超帝国主義の枠組みだったに過ぎない。それも構築途上の。
著者はここで大日本帝国の破綻に至る道をトレースする。米騒動は朝鮮・台湾の米増産に向けた対策を政府に取らせる。増産したはいいが、これは米価の低下に帰着し、農民の所得を減らせる。力を得た金融資本は銀行地主を生み出し、農民の疲弊に追い打ちを鰍ッる。そのことは農本主義を台頭させ、ひいては土地獲得――新天地獲得――を目指す窮乏農民の農民ファシズム(空腹の帝国主義)を生み出す。シャイロックに対する憎悪は、日本では安田善次郎殺しなどで表現され、天皇制原理主義の台頭に繋がる。メディアは朝日平吾よりも安田に厳しかった。国家支配に手を染めたロスチャイルドよりも、そこから程遠かったシャイロックに安田は近かったということか。ちなみに池田は北一輝に資金提供するなど、在野の暴力機構を抱き込んでいた。テロ・クーデターの時代にあって、ロスチャイルド的な金融資本家は、他の資本家が破滅する行為から逃れ、軍財抱き合いの中、文字通り延命する。が、それは多数ではなかったように小生は思う。テロ・クーデターは自由主義的=国際主義的ブルジョアジーを無力化し、超帝国主義の可能性はなくなり、空腹の帝国主義に基づく「貧者必勝」の破滅的な戦争へと突き進んでいった。
時代は戦後へ。ソ連崩壊。飽食日本。日本は金持ちの国になった。レーニンは過去の遺物とされている今。だが、本当にそうだろうか? 『帝国主義論』での指摘は多くの点で今も当てはまろう。資本の輸出の一形態としてのODAと付随する腐敗現象。3K労働の輸出、あるいは移民への押しつけ。医療、生命、宗教にまで浸透する金融支配。そして一面、超帝国主義の勝利にも見える一方、米帝は戦争放火者として今、シリアに攻め込もうとしている。だが、同時に、アラブ共産主義を弾圧したレーニン流の考えに、はたしてアメリカを断罪する資格があるのだろうか??
終章は『特攻・玉砕への鎮魂賦』と題して。まずは吉田満の『戦艦大和の最期』が取り上げられる。学徒出陣で海軍士官として大和に乗り込んだ吉田。吉川英治の手ほどきを受け、半日で書き上げられた初版を入手するのは今、困難だ。占領軍の検閲、戦争肯定として批判された文章。「至烈ノ闘魂、至高ノ練度、天下ニ恥ヂザル最後ナリ」。これが今は「今ナオ埋没スル三千ノ骸 彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何」となって流布している。そのことについて吉田は言う。「占領軍の権威を利用して、日本人が日本人を打つ。これこそが戦後思想そのものだった。」(角川文庫版、一三一ページ。)次に皇軍兵士・吉田嘉七の『ガダルカナル戦詩集』。はっきりと戦争の実感を伝える。
命の全けん人は
おおどかに、豊かに生きて
この国の栄えを伝えよ。
われら身は裂け果つるとも、
この国に仇近づけじ。
荒磯べにたたずみて
日本。
かく呼べば、
ああ、かしこぞ、
空と水ふるるあたり、
われらが祖国
日本はあるなり。
(p237)
どうしてここまでパトスと共に戦い得たのか。これは、恐らく、第一章の「「妣の国」を護る闘い」という実感故のことだろう。そして、その答えの前には戦後行われた右派的な「正義の戦争」論も、左派的な「侵略的・帝国主義的戦争」論も、虚しいことだと筆者は問う。その上で改めて著者は言う。
改めて問われなければならない――なぜなのか。ここに死に至るまでの悲しき激情があるとすれば、それは彼らへの鎮魂、むしろわれわれ自身の魂の救済のためにも問われなければならない。昔も今も、人の世はあらゆる悲しさに満ちているからであり、それへの心からの共感しうる資質をわれわれの内に備えようとしない限り、歴史も社会も、さらには人種・民族を超えた相互理解も成り立ちえないだろうからである。
戦争責任を問うことは、「犯罪者」を糾弾することでは決してない。何ゆえに、「犯罪」に手を染めたのかが問われなくてはならない。キリスト教の言う原罪、仏教では業、あるいは悲苦。悲を通じて見れば、ベネディクトの言うように日本の戦争映画は「最もすぐれた反戦宣伝」たりうる。そしてベネディクトは軍隊内の実力主義が民主的地ならしをしたこと、その意味で真の国民軍であったことを指摘する。横の繋がりは各種戦友物語に見られる。それは娑婆では希薄な関係であった。軍においては死の平等は絶対的である。「乗員三千 スベテミナ戦友」(『戦艦大和の最期』)日露戦争の時に作られた軍歌の名曲『戦友』には「軍律きびしい中なれどこれが見捨てて置かりょうか」とある。そのエートスは、後に玉砕へと繋がる。日露戦争のこの歌は、横の繋がり、農村の貧しさ、友情が示されているが、共悲、共滅に繋がるものであった。『同期の桜』は歌う。「咲いた花なら散るのが覚悟 みごと散ろうよ 国の為」。この歌は『戦友』を意識して出来たらしい。但し、死を覚悟したニヒリズムに見えないだろうか? 差異は、『戦友』では「空しく冷えて魂は くにへ帰ってャPットに」であり、『同期の桜』では「花の都の靖国神社」である。どちらが、古来の日本的なものであろうか? 第一章を見ればいい。死者がともにいると実感される、『戦友』であろう。そして、著者は、言う。――これは『同期の桜』を聞けば胸が締め付けられる小生とは異なった感覚だが。そして、機会があれば靖国神社に参る小生とも違う感覚であろう。――
『同期の桜』には、『戦友』の全編に漲(みなぎ)る悲哀の情すら枯渇している。特攻という必死の戦法を採用して以来、日本人も実は“悲しむことのできない”人間になったのかも知れない。
古代以来の質朴な日本人の魂は、悲哀の極に「妣(はは)の国」を見いだしてきた。スサノオの山河を揺るがす号泣がそれを物語っている。しかし『同期の桜』の死は、たかだが人間の一生よりも短い大日本帝国のための死でしかなかった。
(p246)
一つの歌を参照項に思い浮かべるのもいいだろう。高木東六の名曲、『空の神兵』である。太平洋戦争開始から半年後、日本人はこの歌に熱狂した。旋律は西洋調で、陰々滅々としたお上ご推薦の軍歌とは違い、明るく開放的である。まあ、外国の軍歌を聞けば分かるが、そもそも軍歌はそうあるべきなんだが。ともあれ、日本にあっては「非軍歌」的な軍歌に、外部を感じさせる軍歌に、日本人が熱狂した歴史は知っておいても損はなかろう。これは、当時の日本人大衆の、雰囲気、もっと言えば風紀に対する反発を示していたのではなかろうか? 鬼畜米英と言われていても、いいものはいい!という当然の感覚の表出だったのではないだろうか? 南方歌謡とも言われた、このような歌は、その後廃れていく。日本の戦線は、「勝った、勝った」とメディアが騒ぐくせに、空襲が繰り返されたり、戦死の異常な増加などで「負けるな」と国民に薄々気づかせるものであった。その気分が、例え管制押しつけのものであれ『同期の桜』のような、悲壮感――但し、その悲壮感は国家主義と結びつけられたもの――を受け入れさせたものではないか。『同期の桜』には確かに非はある。だが、哀はない。哀を表出することは、すでに国家によって強く禁じられていたのではないか。それでも、小生はこの歌を聞くと胸を締め付けられる。悲哀の情の、「哀」は、枯渇しているというより、出せなかったのではないか。そして、軍国の(靖国の)母を中心に、もともと、人前で泣くことを良しとしない、江戸後期からの風習もあり、悲しみを表出しないようになったのではないか。そういう次第で、日本人は悲哀の情が枯渇したのではなく、出さなくなったのではないか、と。「大日本帝国のための死」は、そう考えると、軍国主義によって狽墲黷ス、儚いものではなかっただろうか? それでもなお、『同期の桜』は今なお聞く者の心を締め付ける。さて、著者の文章に戻ろう。
あの戦争で日本人は、実は神話とも訣別していたのかも知れない。
そうかも知れない。というのは、太平洋戦争を通じて、近代国家の残酷と日本は本当に直面し、敗北するという強烈なトラウマを植え付けられたからだ。明治維新に続くトラウマ。再び記す。「近代の日本人は実は自らを憎んでいたからである。」(p29) 日本は二度、自らへの憎しみを刻印された。だから、小生とてもこう言わざるを得ない。
われわれは“母国”という心の奥底から湧きあがるしみじみとした情感、「日本 かく呼べば」といういとおしさに満ちた情愛を、今、この国に寄せることはできない。
(p247)
戦後日本とは、アメリカのキッチュに過ぎない。対抗者は、日本への回帰は不可能事であり、せいぜい、「ヨリ素晴らしいアメリカモデルとしての――何が言いたいかを知りたい方は、例えば『レーニン主義の基礎』を参照にしてください、ソ連は、アメリカを目指していた――共産主義」であった。どちらも、日本の歴史からは切断されたよそ者である。近代国家たらんとした明治維新後の流れは、ニヒリスティックな闘いを呼び寄せ、それに敗れた日本は、全面的なニヒリズムに陥った。そして、三島由紀夫が言うように、「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た」ようになる。三島には申し訳ないが、それはそのように、当面宿命づけられていたのだろうと、痛苦の念を持って、二一世紀に振り返らざるを得ない。ここにおいて、左翼とされる河原先生と、右翼に担ぎ上げられる三島由紀夫の戦後に対する歴史観は一致する。敗戦は魂の死であり、太古以来の歴史はここに畢った。日本は二度、死んだのだ。維新、そして敗戦。
三島もまた指摘したように、魂の空白を癒すがごとく――あるいはそれを通じてアメリカに復讐するがごとく――日本は嵐のような経済拡大に励む。その情念はどこから来たのか? 明治以後、そして戦後を通じた日本人の、この狂的なまでの精勤は、古来からの日本人と何と異なることか!日本文化は、雅びを重んじ、淡泊、清楚を基調としていたのではないか。否、そうであるからこそ、自らの生命を顧みず、軍事に没頭し、経済に没頭できたのか? 富への執着がないから、再生産に投資可能――巨大な貯金が原資となったことを想起せよ――となり、奇蹟の高度経済成長を遂げたという逆説。その様は、空虚を埋めるとともに、向き合わなければならない己の魂の空白と向き合うことを(恐らくは)先延ばしにした。経済「成長」という。元々は子供や草木の生命力の伸長に対する言葉だ。そんな言葉が主として経済行為に使われるようになった時、日本人の感性は歪んだ。「抽象」の侵蝕にまかせてしまったから。
そう。答えは明白だ。日本人は、「日本をとりかえす」しかない。もののあはれ。自然とともにあった過去を。死者はつねにそばにいた感性を。安倍首相のスローガンが犯罪的なのは、近代によって押し付けられたからごころに過ぎない「強い日本」なんぞを「日本をとりかえす」と言いなしていることである。
かたきとみへしは群ゐる鴎、ときの声と聞こへしは、浦かぜなりけり高松の、うらかぜなりけり、たか松の、あさあらしぞ成りにける」(謡曲『屋嶋』)
(p250)
野暮を承知で書く。日本人は、このように自然の声に耳を傾けて生きてきたのだ。抽象ではなく。