『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』(スラヴォイ・ジジェク著、長原豊訳)
本書はまず、現在レーニンに関する嘲笑を紹介するところから始まる。『現実に不効率な独裁で行き詰まった<現実の社会主義>という実験』、その責任を問い、余りにも態様が変化した資本主義において権力奪取するなら『権力の暴力的奪取やそれに続く「プロレタリア独裁」などといったことは、ことごとく放棄されねばならない「死に体の概念」じゃないのか』と。よく聞く話だ。民主主義を疑わぬ自由主義者がよく言う言葉だ。それに屈してか、我らが日本共産党は『国家と革命』を捨てたw。
だが、著者は言う。『ヨーロッパの社会民主主義がことごとく「愛国路線」を選び採ったとき、(中略)まさにそれは全世界が消滅するカタストロフだった。(中略) #絶望# の ##この## 瞬間、 ##この## カタストロフが、(中略)第二インターの痼疾《こしつ》だった進歩主義史観にもとづく歴史主義を打ち砕くためのみちを切り拓いた(中略)一回限りの革命的好機を感じとることができたレーニン、このレーニンが、まさにここで生まれた。』
このようなレーニンは、あれやこれやの図式や言葉で語りえるものだろうか、と小生は思う。余りにも深くレーニンを「潜らなければならない」。そしてなお、直接的に役立つものは殆どないだろう。でも、それでもなお、我らの時代の不確かさ――そしてそれは今の世の中を支配する自由主義や民主主義の本質的不可能性に依拠する――は、#いかにレーニンの時代と態様が異なろうとも#革命の可能性を残す。それに対するには(差し迫る破局、それとどう闘うか?)、やはりレーニンのテキストは役に立つだろう。でも、どうやって?
『レーニンへ回帰するのではなく彼をキルケゴール的な意味で #反復すること# 、(中略)今日的な配置図のもとでレーニンと同一の衝動を奪回すること』である。『その基本的経験が旧い座標軸が役立たないことが明らかとなった崩壊的な新たな配置図へ放り出されることによって、マルクス主義を発案しなおすことが迫られるレーニン』を目指すことだ。良く知られることだが、レーニンはマルクスを突き抜け、ヘーゲル大論理学を学び、革命を捉えた。深く、深く、潜り、捉えるレーニンだ。ドリン、ドリン!
本書はこのように始まる。だが、その後は各種論稿を集めたので、やや分散的であり、必ずしも本論に沿うものばかりではないが、各論において『レーニンの時代との差異』(大衆の置かれた情況、意識――よって大衆文化論を紐解く)あるいは『同一性』(革命の可能性の残存;社会の本質的不安定、分裂などなど)を示す。一つ一つの章は面白いが、長くなるのでいくつかにとどめておくと、『魁!男塾』を思い出させるような「4 シューベルトを聴くレーニン」;仲間意識はタブーと困難に対する共犯意識にこそあること、快楽、憎悪を見えなくすることで無差別*ウ関心を常態化し、それはとりもなおさず愛の完成を常態とするのだが、同時にそれは死せる世界であることを暴いた(キルケゴールの言う「死んでいる隣人への愛」)「5 レーニンは隣人を愛したか?」、とりあえず成立していた社会主義が、まさに資本主義の矛盾を否認したがゆえに停滞したことを暴いた「8 純粋政治に抗して」、現代社会のありようがますますバーチャルになり、それに飲み込まれるさまを描いた「9 信ずるところを知らざればなり」(これは、そうであるがゆえに先送りのシステム、資本主義のゾンビ性――とっくに死んでいるはずなのだが、生きている!――のカラクリを示している)、現在の革命主体――プロレタリア――のありようを暴き、それを表象するのは ##失業者## と述べた「10 「文化資本主義」」、この辺が本題への助走だろうか。
さて、「11 ャXト・ャ潟eィクスに抗して」の冒頭『とすれば、こうした事態のどこに、レーニンはいるのだろう?』で本論という気がする。11ではwwwの存在を巨大銀行に対比し、問題は所有とヘゲモニーであることを示す。それは、党なき運動の脆弱さを暴く。その状態は、「全体としてどうか」というビジョンがなく、様々なものが爆縮する時空の短絡という革命を捉えることは出来ない。それは予定調和的な敗北であり、ましな結路としても<第三の道>という日和見主義である。かような状況ではサバルタンは排除され、<国家>では政治的に ##再現前¢繹ハ## されない(「13 控除の政治はあるか?」)。そのルサンチマンは、容易に外部において「敵対」となり、員数となるのだが。民主主義の陥穽である。だから、民主主義を通じて(というか、それのみの)社会革命は本来あり得ない。
とりあえずの結論は、「結 回帰と反復」のこの言葉だろう。『レーニンを ##反復すること## はレーニンへの ##回帰## を意味し ##ない## ――レーニンを反復するとは、「レーニンが死んだ」ことを受け容れることである。彼固有の解決策は失敗した、あるいは恐ろしい形で失敗したことを受け容れることである。だがそれはまた、そこにやり直すに値するユートピア的火花が存在したことを受け容れることでもある。レーニンを反復するとは、レーニンが #以前やった# ことを繰り返すことではなく、彼が #以前やることに失敗したこと# 、彼が失った好機を繰り返すことである。』
そういうわけで、「かくあるべし」というものは、この本にはない。それは、明示性において屹立するレーニンに反すると思う(笑)。その態度は、しかし、革命的情勢とは言えない今、明示#しない#誠実さにおいて、1914年以前のレーニン的なのだ。この本は、革命のために書かれたと思うから。だが、備え方は・・・・いや、我々読者の課題なのだろう。
あ、そうそう。この本に通底するキーワードを一つ書いておく。【リベラルおよび民主主義の不可能性《ありえなさ》】
それから、ゾンビとしてのマルクス=レーニン(=トロツキー)主義者およびレーニン批判者への痛罵が面白かった。p253。長い。
本書はまず、現在レーニンに関する嘲笑を紹介するところから始まる。『現実に不効率な独裁で行き詰まった<現実の社会主義>という実験』、その責任を問い、余りにも態様が変化した資本主義において権力奪取するなら『権力の暴力的奪取やそれに続く「プロレタリア独裁」などといったことは、ことごとく放棄されねばならない「死に体の概念」じゃないのか』と。よく聞く話だ。民主主義を疑わぬ自由主義者がよく言う言葉だ。それに屈してか、我らが日本共産党は『国家と革命』を捨てたw。
だが、著者は言う。『ヨーロッパの社会民主主義がことごとく「愛国路線」を選び採ったとき、(中略)まさにそれは全世界が消滅するカタストロフだった。(中略) #絶望# の ##この## 瞬間、 ##この## カタストロフが、(中略)第二インターの痼疾《こしつ》だった進歩主義史観にもとづく歴史主義を打ち砕くためのみちを切り拓いた(中略)一回限りの革命的好機を感じとることができたレーニン、このレーニンが、まさにここで生まれた。』
このようなレーニンは、あれやこれやの図式や言葉で語りえるものだろうか、と小生は思う。余りにも深くレーニンを「潜らなければならない」。そしてなお、直接的に役立つものは殆どないだろう。でも、それでもなお、我らの時代の不確かさ――そしてそれは今の世の中を支配する自由主義や民主主義の本質的不可能性に依拠する――は、#いかにレーニンの時代と態様が異なろうとも#革命の可能性を残す。それに対するには(差し迫る破局、それとどう闘うか?)、やはりレーニンのテキストは役に立つだろう。でも、どうやって?
『レーニンへ回帰するのではなく彼をキルケゴール的な意味で #反復すること# 、(中略)今日的な配置図のもとでレーニンと同一の衝動を奪回すること』である。『その基本的経験が旧い座標軸が役立たないことが明らかとなった崩壊的な新たな配置図へ放り出されることによって、マルクス主義を発案しなおすことが迫られるレーニン』を目指すことだ。良く知られることだが、レーニンはマルクスを突き抜け、ヘーゲル大論理学を学び、革命を捉えた。深く、深く、潜り、捉えるレーニンだ。ドリン、ドリン!
本書はこのように始まる。だが、その後は各種論稿を集めたので、やや分散的であり、必ずしも本論に沿うものばかりではないが、各論において『レーニンの時代との差異』(大衆の置かれた情況、意識――よって大衆文化論を紐解く)あるいは『同一性』(革命の可能性の残存;社会の本質的不安定、分裂などなど)を示す。一つ一つの章は面白いが、長くなるのでいくつかにとどめておくと、『魁!男塾』を思い出させるような「4 シューベルトを聴くレーニン」;仲間意識はタブーと困難に対する共犯意識にこそあること、快楽、憎悪を見えなくすることで無差別*ウ関心を常態化し、それはとりもなおさず愛の完成を常態とするのだが、同時にそれは死せる世界であることを暴いた(キルケゴールの言う「死んでいる隣人への愛」)「5 レーニンは隣人を愛したか?」、とりあえず成立していた社会主義が、まさに資本主義の矛盾を否認したがゆえに停滞したことを暴いた「8 純粋政治に抗して」、現代社会のありようがますますバーチャルになり、それに飲み込まれるさまを描いた「9 信ずるところを知らざればなり」(これは、そうであるがゆえに先送りのシステム、資本主義のゾンビ性――とっくに死んでいるはずなのだが、生きている!――のカラクリを示している)、現在の革命主体――プロレタリア――のありようを暴き、それを表象するのは ##失業者## と述べた「10 「文化資本主義」」、この辺が本題への助走だろうか。
さて、「11 ャXト・ャ潟eィクスに抗して」の冒頭『とすれば、こうした事態のどこに、レーニンはいるのだろう?』で本論という気がする。11ではwwwの存在を巨大銀行に対比し、問題は所有とヘゲモニーであることを示す。それは、党なき運動の脆弱さを暴く。その状態は、「全体としてどうか」というビジョンがなく、様々なものが爆縮する時空の短絡という革命を捉えることは出来ない。それは予定調和的な敗北であり、ましな結路としても<第三の道>という日和見主義である。かような状況ではサバルタンは排除され、<国家>では政治的に ##再現前¢繹ハ## されない(「13 控除の政治はあるか?」)。そのルサンチマンは、容易に外部において「敵対」となり、員数となるのだが。民主主義の陥穽である。だから、民主主義を通じて(というか、それのみの)社会革命は本来あり得ない。
とりあえずの結論は、「結 回帰と反復」のこの言葉だろう。『レーニンを ##反復すること## はレーニンへの ##回帰## を意味し ##ない## ――レーニンを反復するとは、「レーニンが死んだ」ことを受け容れることである。彼固有の解決策は失敗した、あるいは恐ろしい形で失敗したことを受け容れることである。だがそれはまた、そこにやり直すに値するユートピア的火花が存在したことを受け容れることでもある。レーニンを反復するとは、レーニンが #以前やった# ことを繰り返すことではなく、彼が #以前やることに失敗したこと# 、彼が失った好機を繰り返すことである。』
そういうわけで、「かくあるべし」というものは、この本にはない。それは、明示性において屹立するレーニンに反すると思う(笑)。その態度は、しかし、革命的情勢とは言えない今、明示#しない#誠実さにおいて、1914年以前のレーニン的なのだ。この本は、革命のために書かれたと思うから。だが、備え方は・・・・いや、我々読者の課題なのだろう。
あ、そうそう。この本に通底するキーワードを一つ書いておく。【リベラルおよび民主主義の不可能性《ありえなさ》】
それから、ゾンビとしてのマルクス=レーニン(=トロツキー)主義者およびレーニン批判者への痛罵が面白かった。p253。長い。