TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

読書メモ:『牟田口廉也』

2018-11-29 23:42:00 | ノンジャンル
 『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』(広中一成著、星海社新書=136)

 牟田口の基本スペックは高い。それは、恐らく軍務官僚としてである。だが、軍内の政治バランスにより、現場に投入された。彼の軍人としての世界観は、武士道の「葉隠」であり、それに基づく「熊幼精神」であった。精神は大事だけど、精神でどんな困難も乗り越えられる、的な。現場で精神主義が全てに優先したら悲惨である。これへの反省こそが戦後日本の復興を下支えしたのだが、近年のブラック企業問題を見ると変にぶり返しているようだ。というのはともかく。

 牟田口を「愚将」たらしめたのは、牟田口の資質だけではない。山本七平の言う「空気」「忖度」も重要な要素であった。インパール作戦に反対する人のほうが実は多かった。だが、上官河辺は牟田口の情熱にほだされたし、世界史に詳しい知人は「東條がインドのチャンドラ・ボースの演説に感激し、インパールに最終的に加担した」という東條のロマンティシズムを挙げたし。要は、日本の情に流されるシステム、人間関係に左右される組織の人事が牟田口を「愚将」にしてしまったのだ。

 例によって気になったことを。
・生まれは佐賀藩の地。「葉隠」精神の郷。また、佐賀の乱の地であり、長州閥がはびこる陸軍を嫌う地。
・陸軍大学へは長州閥が優先されるが、卒業後はそうはいかなかったようだ。佐賀では宇都宮太郎が最初の陸軍大将。
・宇都宮太郎が反長州閥を陸軍内部で作ってた頃、牟田口は佐賀中学に。海軍大将を多く輩出した学校。5・15の三上卓、2・26の真崎甚三郎も卒業生。
・牟田口は多くが海軍を志望する中で陸軍幼年学校を志願して中退。日清戦争の影響のようだ。そこで熊幼精神(軍人精神)を身につける。成績トップで熊本から中央へ。日露戦争で牟田口の22期生は例年より300人多い七百数十人。後に前線で活躍する者が多かった。
・第一次大戦中に競争率約10倍の陸大に牟田口は合格。参謀教育を受けるが、日本陸軍はそもそも山形有朋らが学んだフランス式だったが、普仏戦争で勝利したドイツを見習うべきという桂太郎の意見でドイツ式に。観念のお化け、ドイツは精神主義であった。また、多少の犠牲を払っても弱点を突いて背後を取れという教えのメッケルが指導教官となっていた。
・陸大ではやや平凡な成績で牟田口は卒業。配属は船舶輸送というロジ担。
・第一次大戦後、軍縮と反軍世論がやってくる。それへの対抗として、陸軍では幕僚らが一夕会を結成。板垣征四郎、東條英機、石原莞爾らの名前があるね。目的は長州閥偏重の是正、満州問題解決、(陸軍の地位向上)である。
・その時期、牟田口は近衛連隊長、軍事課(予算編成)という超エリートコース。
・田中上奏文はガセだが、日本の邪魔者になった張作霖爆殺事件はガチ。張作霖の息子(張学良)は怒って満州権益を脅かす。
・浜口雄幸内閣によるロンドン軍縮会議は統帥権干犯として問題となる。日本政治の腐敗に不満を持っていた橋本欣五郎は桜会を結成しクーデターを画策。桜会には牟田口も名前を連ねていたが、勝手に入れられていたらしい。2つのクーデターは未遂で終わり、桜会は解散。そんな1933年、牟田口は庶務課長に昇進。軍内政治は皇道派と統制派を産み、牟田口は皇道派になる。統制派には後にインパール作戦で牟田口と対立する佐藤幸徳がいた。
・人事では皇道派が優勢だったが、林銑十郎が陸相となり形成逆転。これへの危機感から2・26が起きる。が、昭和天皇の激怒と共に終焉。あおりを受けて牟田口は北京の支那駐屯歩兵隊長へ。左遷であり、キャリアからしたら不適材不適所である。

・1936年に中国側の反感をよそに、日本は支那駐屯軍を増員した。理由は、関東軍の華北進出を抑えるため。統制取れてないや。とはいえ「北支処理要綱」も出して中央は関東軍を抑えようとする。すると関東軍は謀略を巡らせ、王英に綏遠省に侵攻させた。が、この軍は戦意に欠け、傅作義軍に蹴散らされる。蒋介石は勝利宣言を出し、中国人民の抗日意識は高まる。
・牟田口聯隊長は豊台に駐屯。条約違反だが、同じようなことをイギリスがやっていたが、抗議を受けなかったのでOKと考えた。抗日意識が高まっていた時に豊台事件が起きる(中国側の挑発)。河邊旅団長は牟田口を派遣し、事態を穏便に済まそうとするが、牟田口としてはちょっと懲りたと思わせたかった。因みに河邊は牟田口をかわいがっていた。
・中国側(第29軍)は謝罪したが、牟田口は横柄な態度で中国側のメンツを潰した。また、第29軍の連絡ミスで再び豊台に中国軍が現れ、牟田口は冷静さを失うほど激怒したらしい。
・そんな頃、石原莞爾は対ソのために欧米と協調、中国とは衝突回避という「国防国策大綱」案としてまとめ、大筋で「国策の基準」とされた。だが日中関係は悪化していった。満州に傀儡政権を建てられたりして、反日感情を抑えることは土台無理だし。
・河邊は石原の中国との衝突回避案に賛成したが、「謎の一発」により盧溝橋事件は起きる。報告を受けた牟田口は中国側の仕業と決めつけ、証拠固めを指示。最初は冷静さを失っていなかった牟田口だが、続いて一木大隊長から射撃を受けたという報告が入り、戦闘開始を指示した。暴支膺懲精神の発動。その20分前に森田徹中佐には事態収拾のために盧溝橋にネゴを指示して派遣していた。2つの矛盾する指示を出してしまった。
・では牟田口の上官の河邊はどうしたか。戦線不拡大方針に従い展開している部隊に盧溝橋駅に集結するように命令した。参謀本部からもそういう指示が出ていた。10日朝に停戦協議成立。牟田口を北京に連れて帰ろうとするが、「不穏な動きは残っているし北京に缶詰にされたらどうするのですか」と言われ、「それもそうだな」として現場指揮を任せてしまう。
・日本と第29軍の交渉は決裂、牟田口は戦端を開く。河邊は無言の表情で牟田口への抗議の意を示すが、統率の混乱を懸念して攻撃命令の取り消しはしなかった。以後の泥沼は知られている通り。河邊の優しさが歴史的な意味での命取りとなった。
・それでも不拡大方針を石原莞爾は維持しようとしたが、泥沼化する戦線に引きづられるように増派を許可し、第29軍への総攻撃に至る。
・プライドが高く孤独な牟田口だが、子どもには優しかった。

・1937年8月13日、第二次上海事変。これも日本の謀略が発端のようだ。双方合わせて約25万人の戦死者を出し、11月には大本営が設立される。そして南京攻略、悪名高い大虐殺、重慶政府を相手にせず、徐州作戦。日中戦争は持久戦となる。また、欧州戦線でのフランスの負けを見て、仏印進出を日本は強行。それに米英蘭が反発。日本の資産凍結や石油の禁輸を発動。1938年にネゴがうまくいかなかったら対米英蘭の戦争を御前会議で決定。昭和天皇は明治天皇の「御製」である「四方の海」を読み上げて抗議した。
・1938年に牟田口は関東軍所属の第4軍参謀長に。そして1939年5月11日のノモンハン事件が起こる。参加していたわけではないが、閑職とされる陸軍予科士官学校校長へ。一方、東條に取り入って陸軍中央に返り咲きを狙っていたという話も。ともあれ、1941年4月に第18師団長として中国戦線へ。
・南方作戦の一つとしてのマレー作戦。1940年8月、250万分の1の地図とともに検討開始。検討担当者の一人が辻政信。ノモンハン事件の失地回復という意志があったようだ。
・1941年11月からマレー作戦は具体化が進む。それを受け牟田口師団長の訓練は実戦的となる。
・12月4日、コタバル上陸が太平洋戦争の始まり。対するイギリスは「マタドール」作戦で防遏すべきだったが、タイの領土を無断通告で侵犯することを心配するなど慎重になり過ぎ、反撃の機会を失う。銀輪部隊などが快進撃でシンガメ[ルを目指す。
・一方、牟田口の部隊は待機を余儀なくされて出遅れる。自動車の提供を受けてシンゴラからの1000kmを移動。1週間でクルアン(シンガメ[ルから60km)に到着。先行部隊をある意味逆転していた。
・ジョホール水道攻略では、焦りから暗闇を突進し、手榴弾で負傷。吶喊小僧だな。
・2月11日の紀元節に間に合うようにシンガメ[ル島のプテキマ高地攻略を辻は牟田口に命令。牟田口は喜んで拝命。ここでも焦って攻略。
・牟田口としては盧溝橋事変は米英によるアジア諸民族同士を戦わせる策略の結果であり、そんな鬼畜米英に早く痛撃を食らわせたいという思いがあったようだ。
・シンガメ[ル市街攻略は夜襲で基地攻撃と牟田口は考えていたが、水道管の破裂でイギリスは降伏。因みに自分の命も部下の命も「ないもの」と考えていた夜襲であった。指揮官がそんな人命軽視でいいのか?
・イギリス兵は実は1000人武装維持、華僑は敵性分子とされた者少なくとも500名(一説では5000名以上)が処刑された。一方、牟田口は「常勝将軍」というあだ名を頂く。

・マレー作戦を成功させた日本が次に重視したのがビルマ。主目的は4つある援蒋ルートの一つで一番有効だった「ビルマルート」の切断。
・大本営は南方作戦が一段落するまで実行しない方針だった。
・イギリスはビルマ防衛をインド軍総司令部と隷下のビルマ陸軍で対応する方針。戦争が生じた場合、時間稼ぎをしつつインドや中国からの増援を待つ態勢。
・日本軍とタイのピブン首相との交渉(日本軍が通過できるようにする)は、恐喝外交だよね。
・1942年から南方軍は上の方針に反するように戦線拡大へ。一気に中国軍を撃滅するつもりだったらしい。
・それを受け1942年3月、日本軍はラングーンを攻略。援蒋ルートの切断を目論んだが、イギリスは西方のベンガルからのルートを構築。
・日本軍はマンダレーへ行軍。灼熱地獄。面子争い?で牟田口の第18師団を一番乗りに。一日平均29キロの移動(大半は悪路の徒歩)。イギリスと中国は既にいなかった。
・再構築された援蒋ルート切断のため、南方軍はインド東部攻略を構想する(二十一号作戦;後にインパール作戦として具現化)。
・その構想を指示された飯田軍司令官は「人跡未踏の密林、雨季には湖水と化す地形」(p180)と指摘。さすがの牟田口も意見を求められて実現の見込みはないと答えている。
・元来イケイケの牟田口はこの意見具申を弱気と感じ、申し訳ないと考える。そして、発動した時のために道路改修をする。
・1942年の秋からイギリスは失地回復を図る。そして連合国軍機による攻撃が増え、牟田口によるビルマ北部の制空権はイギリス側へ。そしてウィンゲート旅団が侵入。
・日本は態勢を立て直すためビルマ方面軍を新設、司令官には河邊正三が任じられる。盧溝橋事件以来の河邊ー牟田口ラインの復活である。
・東條は河邊に「対ビルマ政策は対インド政策の前駆」と告げる。対インドが本命と河邊も牟田口も認識。
・牟田口は対インドの作戦として積極攻勢が必要と考え、目標としてインパールを定めるべきとした。またしても「盧溝橋」の責任を述懐、大東亜戦争に決定的な影響を与えることが出来れば男子の本懐である、と。
・河邊は「壮快なる意見なり」と歓迎。上司を立てる牟田口を嫌いではなかった。
・インパール侵攻は弐号作戦と命名され、検討されるも牟田口の部下である参謀の反対意見に遭う。牟田口は部下たちに消極的と非難、積極的であれと指示。
・しかしまあ、2000m級の山々相手に「鵯越」とはなあ。無茶苦茶だ。牟田口の部下である小畑参謀長は聞く耳を持たない牟田口を飛び越えて田中師団長に意見をする。牟田口はこれを弱気と見る。
・牟田口は河邊に雨季の前の作戦決行を訴えるが、反対の多さを前に河邊は待ったをかける。
・東條はチャンドラ・ボースの決起も視野に入れていた。ボースの決起で援蒋ルートを切断するのだ。ボースの決起を促すものとして、河邊は弐号作戦を考えていた。
・小畑は更迭され、牟田口は雨季明け後のインパール攻略を南方軍の稲田総参謀副長に訴える。
・兵棋演習でインパール作戦への懸念は多く出たが、河邊は牟田口に同調。その空気に反対できる人はいなかった。課題となった補給は、「補給さえ出来れば大丈夫」という「ソビエト湯u法(笑)」にすり替えられた。その上で、補給方法は明示されず。
・牟田口は「鵯越戦法で不意急襲し(中略)短期間に作戦を終了する方針を決定」し、補給については「自ら歩く食糧として各師団に牛、山羊、計一万頭を携行させる事(ジンギスカン作戦)」とした。また、野草研究もさせ、部下を当惑させた。
・色々問題含みの作戦だが、「ウ」号作戦と名付けられ、主目的はチンドウィン川西岸の保持を目的とし、補給が滞らないように配慮しつつ鵯越戦法に対抗したものとして南方軍は定めた。
・しかしこれが第十五軍に降りてくると、短期決戦&ビルマ北部防衛と規定した。しかもインパールより先に進むことが想定され、規模が大きくなった。曖昧な指示が牟田口の「暴走」に拍車をかけた。
・特に補給について心配をする人々が多かったが、太平洋に伸び切った戦線が縮小する情勢において、参謀本部は日本の劣勢を挽回する起爆剤として、インパール作戦に期待を寄せるようになる。
・連合国側は「チャンピオン」という暗号名において、英印軍は中国軍と合流し、ウィンゲート部隊を空から日本軍の後方に降下させて撹乱させ、その混乱をついて日本軍を撃破する計画を立てていた。
・1月下旬、ジンギスカン作戦などの無茶な作戦は発動する。疑問を持ちつつも「やるしかない」的に戦いに臨む将兵。
・雨季との勝負=時間との戦い。また、兵器の不足。こんな状況から、英印軍と交戦して窮地に追い込まれた柳田師団長はインパール作戦の中止を求めた。が、牟田口はそれを「消極的態度」と退け、更迭する。
・頑張れるだけ頑張った上で、雨季に突入してマラリアなどで死傷する将兵が続出したのを見て後退を伺った山内師団長も更迭される。更迭された山内はすぐに息を引き取る。
・佐藤幸徳師団長は、求めた補給(転出用の車両一〇〇台)が用意できないという返答を受け、宮崎部隊の転出を引き伸ばした。これによりインパール総攻撃は中止となる。牟田口は佐藤を「精神分裂病」として更迭する。軍規違反ではあるが、そこに佐藤を追い込んだのは牟田口ではないか。将としての資質が問われる事態だ。因みに軍医は佐藤が精神病ではないと診断している。この軍医は第十五軍司令部の対応を非難した。
・かなりの無理ゲーになっていても、河邊はインパール作戦をやめる気はなかった。東條英機に示唆された印度侵入作戦があったためと南方軍参謀の戸村盛雄は言う。東條は「最後までやらないと分からない」と言っていた。だが裏では頭を抱えていた。
・さすがの牟田口も観念し、提案されたインパール作戦の中止案文を承認し、ビルマ方面軍に提示。が。返事は「一意現任務達成に邁進せらるべし」。責任を取りたくない上層部w
・雨季の6月26日、第三十一師団の南方への移動の報を河邊が受け、インパール作戦の継続を諦める。これが大本営に伝わり、7月1日に中止となる。河邊と牟田口は更迭されて予備役に編入させる(懲罰人事)。
・多くの人が「あかん、あかん」と考えたインパール作戦は、確かに牟田口の熱意に押されて実行されたという面はある。だが、河邊、ビルマ方面軍、南方軍、東條と、止められる人たちはいた。彼らの責任も問われるべきであろう。そして、それを可能ならしめた構造は何であったのか? 存在論的に考えるべきである。
・戦後、牟田口はBC級戦犯として裁かれるも嫌疑不十分で釈放される。だが世論は彼を許さなかった。「葉隠れ武士」牟田口は自分が間違っていなかったという強気なプライドでもって生きた。それを支えたのがアーサー/パーカー(イギリス陸軍第四軍参謀)の著作。「将兵は能く戦い、作戦は九分通り成功していた」と。確かに、恐ろしい犠牲を払いつつも、日本軍はイギリスの心肝寒からしめたことは記録にある。だが日本では牟田口に共感する者はいなかった。
・官吏として有能ではあるが、実戦経験の乏しい牟田口が派閥抗争の果てに前線に「左遷」され、観念的な葉隠精神のイケイケで指揮をし、なまじ成功したこともあって(常勝将軍)破滅へと至った。また河邊のように、それを支えてしまったり、暴走を止めるべき人が止めなかった構造およびメンタリティ。日本人組織の病理は今も克服できたのであろうか?
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43839km

2018-11-24 23:59:00 | クルマ
43839km、通算燃費17.4km/L

土曜日は永観堂の紅葉のライトアップを観に行こうとしたが、待ち時間2時間で断念。
でも東山が夕日に照らされたりして綺麗だったので良しとするか。

日曜日は映画「ボヘミアン・ラプソディ」。最初、フレディ・マーキュリーが似てないと思ったが、最後のライブ・エイドでは乗り移っているようで、涙が止まらなかった。まあ、一番似ていたのはブライアン・メイだったw

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43809km

2018-11-18 23:59:00 | クルマ
43809km、通算燃費17.5km/L

土曜日は京大。数十年ぶりに会う人だらけ。副総長は空気読めない人だなあ(笑)。
日曜日は鉄砲町のイオンに往復の散歩。
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43702km

2018-11-11 23:59:00 | クルマ
43702km、通算燃費17.6km/L
土曜日は蔵人珈琲の堺伏尾店へ。店先で和歌山からの農家がみかんとサツマイモを格安で販売していたので購入。

日曜日はラバーダックを見に北加賀屋へ。その後家で、上で購入したサツマイモを食べたら、むちゃくちゃ腹持ちがよく、夕食はちょっと高い開店寿司で済ましても、二人で3300円程度だった。
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読書メモ:『阪堺電車177号の追憶』

2018-11-11 23:10:00 | 読書
『阪堺電車177号の追憶』(山本巧次著、早川書房=8057)

 阪堺電車モ161号は176号までしかないから、架空の電車、という鉄ネタはさておき。チンチン電車の歴史を縦糸に、登場人物を横糸に物語を紡ぐ。時代、時代を反映したエピソードを折り込みながら。で。廃車で終わり、、、とはならないところがナニワらしいコメディーっぽい終わり方でほっこり。心温まる小説であった。なお、廃線になった大浜線や平野線も出してほしかったところ。また、昭和45年以降の風景はありありと頭の中に浮かぶ。南海平野線を経てよく乗った路線だもんな。


 以下単語の列挙。

 電車ごとに癖はある、勝間(こつま)駅、手拭いの色、質屋、宝石、スリ、ツバメ(間男)、逢引、戦時中の少女運転手、防空壕、生き埋め疑惑、天王寺の地下鉄出入口、ビューゲル、落とした財布、クリームコロッケ、姫松の大っきなケーキ屋、特高警察、我孫子車庫、悪徳土建会社、経理詐欺、住吉さん、太鼓橋、出頭、地上げ、たこ焼き屋、資産家の老人、クリーニング屋、ホンマに悪いのはデベロッパー、天下るは府(腐)警、大手に追い込み鰍ッる不動産屋、道具に過ぎないヤクザ、ピンドン、撮り鉄、パパラッチ、女子アナ、SUV、マンション不法侵入、消費者金融、改装開店。

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