TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

【関西独立リーグの真相】備忘録

2010-01-31 19:57:00 | 野球
http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/100123/bbl1001231201002-n1.htm


【関西独立リーグの真相】(1)運営会社の“ハプニング撤退” (1/3ページ)
2010.1.23 12:00

このニュースのトピックス:野球

三重スリーアローズの入団に合意して会見をする吉田えり=12月28日(撮影者・伊藤奈々)=津市三重スリーアローズ球団事務所 四国・九州アイランドリーグ、ベースボール・チャレンジ(BC)リーグに続いて、国内第3の独立リーグとして、昨年に発足した「関西独立リーグ」。女子初のプロ野球選手、吉田えり(前神戸9クルーズ)の登場で話題を集めながらも、拙速な球団運営や資金難、さらにはリーグ分裂…とゴタゴタ続きとなったリーグ初年度。一体、裏側で何が起こっていたのか=Bその真相を探る。(敬称略。肩書は当時)

                 ◇

 京セラドームには、1万1592人。吉田えりのデビューに大観衆がわいた。その華々しい開幕戦から、わずか54日後に関西独立リーグ運営会社「ステラ」の撤退表明は起こった。「資金はない。これ以上、迷惑はかけられない」=B代表取締役・中村明の“辞任の辞”。それは、悲しいウソを積み重ね続けてきた“代償”だった。

 関西独立リーグは、初年度の2009年、大阪、神戸、明石、紀州の4球団で3月27日に開幕。しかしほどなくして球団の“資金枯渇問題”が露呈した。神戸球団社長の廣田和代は兵庫・淡路島で行われた5月16日の試合後、選手たちに「給与が払えないかもしれない」と通告。開幕直後の3月31日にリーグから振り込まれる予定の分配金3000万円が、その時点でも支払われておらず、5月に入って給与支払いの原資が不足。各球団で、早くも資金ショートの可能性が浮上していたのだ。

 独立リーグの球団運営にかかる費用は、年間1億円前後。初年度に各球団はその分配金を予算に組み込んで当座の運転資金に充当し、その間に新規スャ塔Tーを開拓して観客動員を増やすことで入場料収入を確保するとともに、球団運営を軌道に乗せる構想を描いていた。


 しかし、3月31日、4月15日、同30日と、支払い予定は、3度にわたって延期。4度目の期日に設定されていた5月15日にも、振り込まれることはなかった。さらに、支払い予定日の前後に中村に連絡を取ろうとしても、なぜか“音信不通”。

 困り果てた4球団と翌10年から参戦予定だった三重による緊急の代表者会議を行ったのは5月19日。苦境の中、リーグ運営の続行を確認、決意を表明する記者会見が設定された同20日、5球団が集結していた和歌山市内のホテルに、中村が突如として姿を見せた。

 「分配金は払う。資金もある」=Bこれまで4度も約束をほごにされながら「悪い言い方をすれば、分配金を人質に取られているようなもの。誰も中村さんに強く言うことができなかった」と紀州球団社長の鋳?・行は言う。資金難の球団は、その言葉に、ただすがるしかなかった。その中村の“口約束”も、記者会見の席上で、あっけなくメッキがはがれる。

 「原資はないが、支援者はいる」「払えないのは、手続き上の問題ですから」=B90分に及んだ記者会見。質問のたびに論獅ェぶれ、会見前に球団首脳に明言した「支払う」という言葉すら、会見では避けようとする。

 「質問に全く答えていない」という報道陣の指摘にも、口元に笑みを浮かべ「この会見は茶番ですね」と言い放ち、さらには「今回は、準備をしていなかったので、改めて会見を開きたい。そのとき、私の本音を語らせてもらう」と半ば強引に会見をまとめようとしたとき、球団首脳たちの堪忍袋の緒が切れた…。

 「本音を語るのに、準備が必要なのか?」と紀州の鋳?ェ、紅潮した顔で、中村に食ってかかった。「もう、本音をしゃべってくださいよ」と三重球団社長の壁矢慶一郎も、中村に矛先を向けた。壇上の球団首脳たちが、互いに耳打ちすると、紀州球団代表の木村虫uが、突如マイクを握り「この4チームは、関西独立リーグを脱退します」。壁矢の「えっ、三重はどうなるの?」という困惑の声が、事態の急展開ぶりを、物語っていた。


 報道陣から「もう一度話し合った上で、最終結論を出してください」の逆提案を受け、別室で行われた、中村と5球団の会談は90分間。ほんの数時間前に「ある」と中村が断言したはずの分配金の資金は、手元にないどころか、調達のメドも不透明で、運動具メーカーへの未払い金の存在なども浮上するなど、舞台裏での再会談も、混乱を極めたという。再開された会見で、中村は“引責撤退”を表明した。

 中村と高校時代の同級生だった神戸の廣田は「お金がないならない…と言ってくれたらよかった。そうすれば他に考えることもできたんです」と涙ぐんだ。分配金ありきで、予算にも組み入れていた球団側の見通しの甘さも責められるべきだろう。しかし、中村の重ねた“ウソ”のせいで、資金難への対策を遅らせてしまったという一面も否定できない。

 中村はその後、6月16日に放映されたTVインタビューで「私が会見に呼ばれたのは、糾弾のため。会見の途中で分かった。そういうシナリオだったんです」と述懐している。しかし、大阪球団社長の浦野聖史は「もしかしたら払ってもらえるかもしれない。中村さんを、最後まで信じたいという思いだった」。中村との縁を切ることは、3000万円の分配金をあきらめること。『中村解任』の選択肢など、毛頭なかった…。中村の釈明は、的はずれな“自己弁護”と言うしかない。

 三重の壁矢も、会見後に中村と会談の予定が入っていたことを明かし「約束していたくらいだから、辞めるなんて、全く考えていなかったんだろう」。球団側も、中村自身も想定していなかった、運営会社ステラの“ハプニング撤退”=Bそのダメージが、その後の関西独立リーグを、さらに苦しめ続けることになる。(喜瀬雅則)


【関西独立リーグの真相】(2)“自縄自縛”となった「選手給与20万円」の堅持 (1/3ページ)
2010.1.24 12:00

このニュースのトピックス:野球

吉田えりが初めて先発出場した2009年9月22日の試合。5回3失点で無念の2敗目を喫した=スカイマークスタジアム(撮影・森本幸一) 開幕から54日。まさに走り出したばかりだった関西独立リーグは、分配金3000万円の未払いから、リーグ運営会社ステラが“引責撤退”。和歌山での会見から3日後の2009年5月23日。5球団の代表者会議が兵庫・明石公園第一野球場で行われ、リーグ続行への決意を、改めて確認した。

 しかし、球団の資金難の問題が、一気に解決するはずがない。分配金に当て込んでいた3000万円は、各球団の年間予算の3分の1強を占める高額。その“穴”を埋めるために、新規スャ塔Tーの開拓、観客動員のアップを図るなど、収入増への努力は、もちろん急務。しかし、運転資金となる、手持ちのキャッシュフローが、底をつこうとしている緊急事態。支出を、いかにして食い止めるのか=B球団側の念頭にあったのは『選手給与の削減』だった。

 月額一律20万円。この関西独立リーグの選手給与は、他の独立リーグに比べ、格段に高い数字だった。四国・九州アイランドリーグは、過去の実績や活躍に応じたインセンティブで、最大40万円まで上昇するが、最低月給は10万円。寮設備が整えられた四国・九州側とは違い、物価水準が高い都市部で、家賃を含めた生活費という観点からすれば、決して恵まれた額とは言い切れないかもしれないが、資金難という危急の事態を前に、選手、監督、コーチ、球団スタッフを含めると、総額600から700万円に上る『人件費』に手を付けざるを得ない…と考えるのは“企業の論理”としては、当然だった。

 神戸球団社長の廣田和代は、給与カットと兼業容認をセットにした“スャ塔Tー収入増”の腹案を抱いていた。選手たちを、近郊地域でチェーン展開している居酒屋、ガソリンスタンド、コンビニ店などへ派遣。バイト収入で生活費を補充するのは当然だが、店舗周辺のコミュニティーで選手たちを“支援”してもらうというものだった。

 「例えば、選手がレジに立っている。『週末に試合があるから来てください』といえば、近所の人も『レジのお兄ちゃんが頑張っているなら、行ってみようか』となる。店が、個人スャ塔Tーになってくれて、袖にワッペンをつけてもいい。それが、本当の地域密着だと思う」(廣田)。

 危機脱出の、1つの妙案だったに違いない。しかし、各球団の監督、選手たちからの“異議申し立て”の声が高まりつつあった。『兼業禁止』のリーグ規定をタテに、神戸監督の中田良弘は「経営がアカンから、給与をカット…ではダメ。選手の生活もある」と現場の思いを代弁した。独立リーグは、給与をもらって、野球をプレーするプロ。バイトをすればプロではない…というプライドは、相当に強いものがあった。

 リーグ側でも、給与カットへの“反動”を恐れる声が出た。運営会社ステラの撤退の時点で、リーグと球団側が交わした契約書は、すべて破棄されているものの、球団と選手が交わした契約に関しては“白紙”と見なされない可能性があったため、その場合、給与削減で、選手側から「契約違反」の集団訴訟が発生することも考えられた。

 そうした不安と、選手側の強い要望に押される形で『20万円』の給与が堅持された。しかし、いわば梼Y危機ともいえる状況に直面し、給与を削減することを、ためらう必要があったのか? 球団存続、経営安定が第一という観点から、選手たちを説得、納得させるのも、経営者の“責務”だろう。明石球団社長の大村節二は「自分の給与はありません」と自宅も抵当に入れ、運営資金を工面するなど、懸命の努力を重ねた。それでも『給与20万円』の堅持が“自縄自縛”となる形で、球団の経営状態は悪化の一途をたどった。

 1試合2000人を採算ラインとしていた観客動員だが、ステラ撤退までの開幕2カ月間の計36試合で、1試合平均の観客数は1115人。“ご祝儀”の意が強い開幕戦(11592人)を除けば、同815人にとどまる。後期での“4けた動員”は、神戸の吉田えりが初先発した9月22日のスカイマークスタジアムの1629人だけ。入場料収入も伸びず、不景気の影響でスャ塔Tー確保もままならない。最初に“悲鳴”を上げたのが大阪。球団への出資者3人が、6月末に追加融資を拒否。選手の同意を得て、8月から給与20万円を半減。経費削減に乗り出したが、それでも資金繰りのメドが立たなくなった。

 神戸も8月分の給与遅配、10月分の給与支払いも“無期限延期”。ある球団では、3万円、5万円、2万円など、少額に分けて、別の日に振り込まれるようなケースもあった。昨年9月24日の代表者会議で、今季の選手給与は「8万円プラス出来高」に、バイトも基本的に容認されることになった。「1シーズンやって、これが身の丈の額」と紀州球団社長の鋳?・行。この案を、5月末の時点で実行に移していれば、神戸が2000万円、明石も2600万円に上った、昨年1年間の赤字額を、大幅に減らすことはできたはずだ。

 リーグ2年目今季、紀州の監督を務めるのは元西武投手の石井毅。これは、球団代表の木村虫uの旧名。つまり、代表職との兼任だ。「新しい監督を招聘(しょうへい)する資金がないというのも、事実なんです」と鋳?B消滅した分配金と、堅持した『給与20万円』の“ダメージ”は今もなお、続いている…。

 =敬称略。肩書は当時

 (喜瀬雅則)


【関西独立リーグの真相】(3)お粗末過ぎたプロ野球ビジネスの“素人集団” (1/3ページ)
2010.1.30 12:00

このニュースのトピックス:野球独立リーグ

中田監督と初勝利を喜ぶ吉田えり=京セラドーム大阪=2009年3月 分配金3000万円の未払いの責任を取り、運営会社のステラがリーグを撤退した後も、関西独立リーグの4球団は、資金難に悩まされた。脆弱(ぜいじゃく)な経営基盤を好転させようと、各球団はスャ塔Tー獲得やファン拡大のためのイベントを行事予定に組み込むことが増えた。

 神戸球団社長の廣田和代は「地域密着の独立リーグ球団として、そうしたイベントは、なくてはならないもの」と練習時間を削ってでも、野球教室やファンとの触れ合いを優先させたい方針を掲げ、選手たちへの協力を要請。しかし、監督の中田良弘は、球団側のその姿勢に首をひねり、幾度となく、異を唱えた。

 「選手たちの夢は、NPB(日本野球機構)に進むこと。そのためには、きちんとした指導を受け、練習をこなすことが大事。野球を優先させてやりたい」。表だって球団側に本心を伝えづらい選手たちの思いを代弁する、監督としての親心であり、現場の指揮官としての偽らざる本心だった。ただ、これが後々、球団との“対立の火種”となる。

 独立リーグのゲームは基本的に週末開催。平日の日中は、みっちりと練習を行う。長ければ7~8時間、短くても2~3時間。練習優先の中田の姿勢に「そんなに練習時間が必要なのか?」と食ってかかった球団関係者までいた。

 練習後のイベント出席にも「体を休めることも大事」という中田の方針から、球団が指定した人数を、大幅に削減するケースもあるなど、球団の経営方針と監督の育成方針が真っ向から対立。その象徴的な事件が起こったのは、ステラ撤退後初の試合開催となった2009年5月29日の神戸*セ石戦(尼崎記念公園野球場)だった。

 女子投手の吉田えりが右肩痛から復活して開幕戦以来のマウンドで、打者1人を空振り三振に打ち取った。投手交代を告げた中田は、一塁側ベンチ前で吉田を出迎え、右手を取って2人で万歳。師弟のほほえましい歓喜の光景に、3187人の観衆は沸いた。しかし、そのシーンを見ていた一部のスャ塔Tーが、球団側に“猛抗議”したのだ。

 「監督だけが、いい思いをしているんじゃないのか」=B知名度抜群の吉田をはじめ、選手たちを活用できず、スャ塔Tーとしてのメリットを享受し切れていない不満が膨らみ出した中、中田の“ファンサービス”が、逆にスャ塔Tーからの大反発を呼んだのだ。

 経営基盤の弱い球団は事態を放置できず、その直後から「監督解任」の構想が浮上。しかし、前期を戦うチームは、大阪と優勝争いを展開。2位に終わったが「解任がしづらくなる」と、球団内部では「優勝するな」という思いで“団結”していたほどだったという。そんな状態で必死にプレーしていた選手は、浮かばれない…。

 廣田が中田を呼び出したのは、後期開幕直後の7月29日。中田への配慮から「辞任の形で発表したい」という球団側の提案に対し、中田は「辞任は、選手を見捨てる形になる。解任で結構」と指揮官としてのプライドを貫いた。不成績による解任ではなく、双方の信念のもと、互いに譲れない形となってしまっては、妥協点を見いだすのは難しかった。

 「これを、1つの反省として、新しい球団組織を早急に構築したい」と廣田は、球団側と現場側をつなぐ球団代表の職を置くことを念頭に、複数のNPBコーチ経験者を対象に交渉を開始。ところが、新たな独立リーグ球団の理想像を描くはずが、その後の拙速かつ稚拙な対応で、無用の混乱を引き起こしてしまう。

 中田解任後、初の試合となった7月31日の神戸°I州戦(尼崎記念公園野球場)は、5選手が体調不良を理由に欠場。中田を慕う選手たちの、事実上の“ボイコット”だった。吉田えりは、ショックで体調を崩し、横浜の実家に帰省した。

 プロ選手として、職場放棄は、決して肯定できるものではない。それでも、同郷の横浜出身で自らのドラフト指名を球団側に働きかけてくれた恩人が、突然いなくなったのだ。17歳の吉田が“大人の事情”の解任劇を簡単に理解できるはずがない。衝動的な行動に出たことを、一概にとがめることはできないだろう。

 しかも、廣田は組織としての決定に至った理由をきちんと伝えるどころか、吉田に対し「人の気持ちを、私は変えることはできない」と退団すら容認するかのような言葉を口にした。これで、世間の風向きも変わった。交渉していた“代表候補”からも、色よい返事が返ってこない。26歳と選手最年長で、信頼も厚かった投手の小園司を、現場と球団フロントのパイプ役として、投手兼コーチ補佐に起用する“組織改編”を検討も、球団から小園への打診は、たった1度。小園が保留した返事を、再確認する機会すら作っていない。

 神戸球団のスタッフの大半は、廣田の経営している会社の社員が兼業。経費節減を図るためとはいえ、プロ野球ビジネスの“素人集団”の危機管理は、あまりにお粗末過ぎた。後期に入ると、神戸は最下位を独走。資金難の解決どころか、給料の遅配も発生。出口が見えない混迷が続く中、神戸だけでなく、リーグの人気を支え続けてきた17歳の吉田えりが“退団への決意”を固めていた。

=肩書は当時、敬称略

     (喜瀬雅則)
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これは異常やわ

2010-01-31 19:50:00 | 野球
 産経新聞のサイトに、関西独立リーグに関する記事が出ている。

 産経的にはこのリーグは終わった――コリア嫌いで有名な産経だから――ように書きたいという意図を感じるが、しかし、この記事の吉田えり投手に関する記事においては産経の批判は至極当然。選手への配慮が出来ない神戸は指弾されて当然だ。余りにもアレなところは赤字に。

http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/100131/bbl1001311202001-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/100131/bbl1001311202001-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/100131/bbl1001311202001-n3.htm
http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/100131/bbl1001311202001-n4.htm

以下、引用。いつかは消えるだろうから・・・。
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【関西独立リーグの真相】(4)えりちゃん、神戸退団の“決意の裏側”


記者らに心境を話す吉田えり投手=2009年7月30日、JR新大阪駅 運営会社の撤退、資金難の球団経営など、ネガティブな話題ばかりが続いた昨年の関西独立リーグ。唯一の“全国版”ニュースとして、明るい話題を発信したのは、男子に交じって、初めてプレーする史上初の女子プロ野球選手・17歳の吉田えりの一挙手一投足だった。

 2008年11月4日、神戸で開催されたリーグのトライアウト。『ナックル姫』という“冠”のきっかけとなる宝刀ナックルを駆使し、吉田は最終テストとなるシート打撃で、打者4人に1四球のみの無安打。神戸監督の中田良弘が「使える」とうなり、リーグ運営会社ステラの代表取締役・中村明は、トライアウト終了直後、吉田の父、勇に、2週間後のドラフトで、指名を受けた場合に入団する意志はあるのかを、早速確かめた。

 『女子高生プロ投手誕生へ』=Bトライアウト翌日から、横浜の吉田宅や、通っていた川崎北高には、メディアの取材が殺到した。同17日に大阪市内で行われたドラフト会議で、神戸が7位で指名。野球界の歴史に、新たな1ページを刻む“17歳のシンデレラ”。しかし、皮肉な言い方をすれば、吉田えりという全国区のスターを、リーグと球団が、大事に育成しながら、独立リーグの“広告塔”としてのメディアへの露出を、きちんとコントロールできるノウハウもなければ、対処できるだけの人材も、全くいなかった…。

 選手の取材窓口は、NPB(日本野球機構)でも、サッカーのJリーグも、通常は所属する球団が、責任を持って行うものだ。選手はいわば、球団の財産。ところが、ドラフト指名直後から、吉田の取材をリーグが管轄し始める。神戸のスタッフの大半は、社長の廣田和代が経営する会社の社員の兼業。メディア対応に不慣れなこともある。それでも、リーグが“えり全面管理”に乗り出したことで、神戸は自球団のスターでありながら、その動向が全く分からないという“異常事態”に陥ってしまう。

吉田は、多くの券\人やスメ[ツ界のアスリートが所属する「エイベックス・マネジメント」とマネジメント契約を結ぶが、その橋渡しはリーグ側。神戸球団は、事後報告でその事実を知ったという。分配金未払いから、ステラが“引責撤退”した時点でも、吉田のスケジュール管理やイベント出演時のギャランティーに関し、どういうシステムになっていたのか、球団側では把握し切れていない状態だった。

 関西独立リーグは、ファンとの触れ合いを重視しようと、試合終了直後に、選手が球場出口に立ち、握手やサインを求めるファンに応じている。吉田への注目度はダントツで、神戸球団は、球場の警備員を増員せざるを得ず「余分な警備費用がかかる」と廣田が嘆いたことが、吉田の“心労”の一因にもなっている。

 そんな中、吉田は時に立ちっぱなしで、1時間近くも、サインを求めるファンの列に応じた。しかし、ファンサービスといえども、適度な“一線”は必要だ。「きょうは、ここまでにしてもらえないでしょうか」と時間を制限してファンに頭を下げ、協力を求めることも、球団スタッフの大事な仕事だろう。なのに吉田のそばに、誰もいないケースが多かった。吉田は母の広子に「右手が痛くなった」とサインの“書きすぎ”で、右手に支障をきたしたことを明かしたこともある

 球団にドラフト指名を進言してくれた恩師であり、吉田の両親も信頼を置いていた、監督の中田良弘が解任されたとき、吉田はショックで、横浜の自宅に引きこもった。復帰への説得に訪れた廣田に対し、吉田は「社長と中田さんがもう一度、きちんと話し合ってください」と懇願し、それを条件に神戸に戻った経緯がある。しかし、その“二者会談”が行われた形跡もなく「約束、守ってもらっていないんです」と吉田は寂しげにつぶやいたことがある

 そうした苦悩が、日増しに、積み重なっていった…。信頼できない球団で、これ以上、プレーできない。しかし、神戸を退団しても、他球団からのオファーが来るという自信が、吉田にはなかった。「辞めたら、野球ができなくなる」。悩んでいた吉田に、思わぬ“朗報”が飛び込んできた。

 リーグの運営方針を巡り、既存4球団と対立していたリーグ代表の三重球団社長・壁矢慶一郎は、4球団と折り合いをつけようと必死の努力を続ける一方で、新リーグ結成の可能性を探っていた。そこへ、淡路島で独立リーグ球団設立の構想が浮上。「吉田えりを獲得したい」。そのラブコールが、吉田の耳に入ると「私を獲ってくれる球団が、あるんですね。だったら、神戸を辞めます、私」=B

 吉田が、その決意を口にしたのは、リーグ閉幕の2週間前。その前後にも、球団側は吉田の残留交渉には乗り出していない。そうした“不誠実な対応”も、吉田の決意を固める、大きな要因となった。リーグ最終戦前夜の9月30日。吉田は、廣田に直接電話を入れ「退団したいんです」と申し入れた。球団側からは、慰留の言葉もなかった。

 その後、吉田のもとには、大阪をはじめ、BCリーグの群馬、新潟、四国・九州アイランドリーグの愛媛など、複数球団から、獲得への打診が相次いだ。「野球に専念できる環境を探したい」と吉田は、壁矢からのオファーを受けると、三重球団のホームページで、グラウンドや寮の映像を確認。その充実ぶりに驚くと「自分の目で施設を見たい」と10月下旬には、両親を伴って三重県を訪問している。

 「絶対に、NPBに行きたい」と夢を語る吉田に姿に、壁矢は「彼女の気持ちを、大事にしてやりたい」。今年1月下旬から1カ月間、吉田は米アリゾナでのウインターリーグで“武者修行”。仮に米国側の球団が獲得に名乗りを上げれば、そちらへ入団し、そうでなければ帰国後に三重に入るという破格の条件を壁矢は容認し、全面的な支援を約束した。

 「新リーグの人たちは仲良くしてほしい」。吉田が、こんな言葉を投げかけたことがある。経営上のゴタゴタばかりが続いた、関西独立リーグでの1年。今度は、野球のことだけを考えて、全力で取り組みたい。その環境がほしい…という、吉田の純粋な気持ちだ。

 関西独立リーグの他球団と経営方針で対立して新リーグを立ち上げ、その看板選手として吉田を迎えた壁矢も、使命感を胸にリーグの基盤固めに奔走した。しかし、順調に見えた壁矢の動きも、計算外の事態が相次ぎ、想定した“理想型”とは程遠いことになる…。

 =肩書は当時、敬称略

 (喜瀬雅則)

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鉄砲から政権が生まれる

2010-01-31 16:10:00 | 幻論
某仕事より。中国の歴史はややこしい。

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 さて、国民党内で中国共産党は勤労大衆、特に労働者の支持を広げていきました。蒋介石はこれに恐浮オます。そんな中、一九二七年三月二二日、上海の労働者は周恩来ら共産党の指導の下、工人糾察隊を組織して武装蜂起し上海自治政府を設立します。この事態を受け、蒋介石は鎮圧と称して李大修魎泙狄?蕕力??圓鮖Τ欧靴泙后?娉霎个藕駝嬰浣η匹閥?催泙?屬鯤??繊??催泙脇伴?侶蛎發鮖?弔海箸箸覆蠅泙后L啾?譴蓮
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この断固とした姿勢を

2010-01-30 18:02:00 | 幻論
朝鮮労働党や中国共産党にも示してもらいたい。
1989年6月4日以降、君たち日本共産党は対中共で輝いていたよ。

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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃◆Q&A 千島問題をなぜ「北方領土問題」と呼ぶ?
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〈問い〉政府やマスメディアは、千島問題を「北方領土問題」と呼んでいます。日本共産党の全千島返還要求との違いを教えてください。(東京・一読者)

〈答え〉千島列島は、北海道に近い国後(くなしり)、択捉(えとろふ)からロシアのカムチャツカ半島の南西に隣接する占守(しゅむしゅ)までの諸島を指します。この千島列島全体が、1855年に江戸幕府と帝政ロシアが結んだ日魯通好条約と、75年に明治政府と帝政ロシアが結んだ樺太・千島交換条約とにより、戦争ではなく平和的な交渉で日本領土として確定しました。

 これらの島と、もともと北海道の一部である歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)とを、第2次世界大戦直後に不当に併合したのがソ連でした。ですから日本共産党は、ソ連および今のロシアに対し、全千島と歯舞、色丹を返還するよう主張してきました。

 ところが日本政府は、千島の南半分の国後、択捉と、千島に含まれない歯舞、色丹のみ返還を求めています。これは日本政府が、1951年に各国と結んだサンフランシスコ平和条約で千島列島を放棄するという重大な表明をおこないながら、56年になって「国後、択捉は千島に含まれない」との見解を出し、歯舞、色丹と合わせ「北方領土」として返還を求め始めたからです。この立場は国際的には通用せず、日ロ間の交渉の行き詰まりと迷走の一因ともなっています。

 そもそも日ロの領土問題は、第2次世界大戦末期の45年2月のヤルタ会談で、ソ連が対日参戦条件として千島列島のソ連への「引き渡し」を求め、アメリカとイギリスが認めたことに始まります。これは米英ソ自身が公約した「領土不拡大」という第2次大戦の戦後処理の大原則に反する行為であり、日本政府はそれを正すという大義を明確にする必要があります。具体的には、サンフランシスコ条約にある千島放棄条項を絶対視せず、歴史的な根拠、国際的な道理を示して堂々と全千島返還をロシアに求めるべきです。歯舞、色丹については、千島列島の返還や日ロ間の国境画定・平和条約を待つことなく、速やかな返還を求めるのが筋です。(田)

 〔2010・1・27(水)「しんぶん赤旗」掲載〕



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ドラッカー読書中

2010-01-30 12:07:00 | よしなしごと
仕事のヒントを求めて。

しかしまあ、左翼党派が駄目になった理由の方を痛感させられたり。

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でまあ、パソコンを少し弄る時間があるので、党派関連で気になった言葉をメモ代わりに。

「過去のしがらみを意図的に断ち切ることができない」
「お役所仕事や階層が多すぎる」
「見当違いの努力を求め誤った行いに褒美を与える、つむじ曲がりの気質がある」
「経営幹部は組織に浸りきっている。……外の世界は、分厚い歪んだレンズを通してしか目に入ってこない。それどころか、外界の出来事を肌身で感じる機会すら殆どない。組織のフィルターをとおして、あるいは報告という形でしか、知りようがないのだ」

読み進めるにしたがって、追記するかも知れない。

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