http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/100123/bbl1001231201002-n1.htm
他
【関西独立リーグの真相】(1)運営会社の“ハプニング撤退” (1/3ページ)
2010.1.23 12:00
このニュースのトピックス:野球
三重スリーアローズの入団に合意して会見をする吉田えり=12月28日(撮影者・伊藤奈々)=津市三重スリーアローズ球団事務所 四国・九州アイランドリーグ、ベースボール・チャレンジ(BC)リーグに続いて、国内第3の独立リーグとして、昨年に発足した「関西独立リーグ」。女子初のプロ野球選手、吉田えり(前神戸9クルーズ)の登場で話題を集めながらも、拙速な球団運営や資金難、さらにはリーグ分裂…とゴタゴタ続きとなったリーグ初年度。一体、裏側で何が起こっていたのか=Bその真相を探る。(敬称略。肩書は当時)
◇
京セラドームには、1万1592人。吉田えりのデビューに大観衆がわいた。その華々しい開幕戦から、わずか54日後に関西独立リーグ運営会社「ステラ」の撤退表明は起こった。「資金はない。これ以上、迷惑はかけられない」=B代表取締役・中村明の“辞任の辞”。それは、悲しいウソを積み重ね続けてきた“代償”だった。
関西独立リーグは、初年度の2009年、大阪、神戸、明石、紀州の4球団で3月27日に開幕。しかしほどなくして球団の“資金枯渇問題”が露呈した。神戸球団社長の廣田和代は兵庫・淡路島で行われた5月16日の試合後、選手たちに「給与が払えないかもしれない」と通告。開幕直後の3月31日にリーグから振り込まれる予定の分配金3000万円が、その時点でも支払われておらず、5月に入って給与支払いの原資が不足。各球団で、早くも資金ショートの可能性が浮上していたのだ。
独立リーグの球団運営にかかる費用は、年間1億円前後。初年度に各球団はその分配金を予算に組み込んで当座の運転資金に充当し、その間に新規スャ塔Tーを開拓して観客動員を増やすことで入場料収入を確保するとともに、球団運営を軌道に乗せる構想を描いていた。
しかし、3月31日、4月15日、同30日と、支払い予定は、3度にわたって延期。4度目の期日に設定されていた5月15日にも、振り込まれることはなかった。さらに、支払い予定日の前後に中村に連絡を取ろうとしても、なぜか“音信不通”。
困り果てた4球団と翌10年から参戦予定だった三重による緊急の代表者会議を行ったのは5月19日。苦境の中、リーグ運営の続行を確認、決意を表明する記者会見が設定された同20日、5球団が集結していた和歌山市内のホテルに、中村が突如として姿を見せた。
「分配金は払う。資金もある」=Bこれまで4度も約束をほごにされながら「悪い言い方をすれば、分配金を人質に取られているようなもの。誰も中村さんに強く言うことができなかった」と紀州球団社長の鋳?・行は言う。資金難の球団は、その言葉に、ただすがるしかなかった。その中村の“口約束”も、記者会見の席上で、あっけなくメッキがはがれる。
「原資はないが、支援者はいる」「払えないのは、手続き上の問題ですから」=B90分に及んだ記者会見。質問のたびに論獅ェぶれ、会見前に球団首脳に明言した「支払う」という言葉すら、会見では避けようとする。
「質問に全く答えていない」という報道陣の指摘にも、口元に笑みを浮かべ「この会見は茶番ですね」と言い放ち、さらには「今回は、準備をしていなかったので、改めて会見を開きたい。そのとき、私の本音を語らせてもらう」と半ば強引に会見をまとめようとしたとき、球団首脳たちの堪忍袋の緒が切れた…。
「本音を語るのに、準備が必要なのか?」と紀州の鋳?ェ、紅潮した顔で、中村に食ってかかった。「もう、本音をしゃべってくださいよ」と三重球団社長の壁矢慶一郎も、中村に矛先を向けた。壇上の球団首脳たちが、互いに耳打ちすると、紀州球団代表の木村虫uが、突如マイクを握り「この4チームは、関西独立リーグを脱退します」。壁矢の「えっ、三重はどうなるの?」という困惑の声が、事態の急展開ぶりを、物語っていた。
報道陣から「もう一度話し合った上で、最終結論を出してください」の逆提案を受け、別室で行われた、中村と5球団の会談は90分間。ほんの数時間前に「ある」と中村が断言したはずの分配金の資金は、手元にないどころか、調達のメドも不透明で、運動具メーカーへの未払い金の存在なども浮上するなど、舞台裏での再会談も、混乱を極めたという。再開された会見で、中村は“引責撤退”を表明した。
中村と高校時代の同級生だった神戸の廣田は「お金がないならない…と言ってくれたらよかった。そうすれば他に考えることもできたんです」と涙ぐんだ。分配金ありきで、予算にも組み入れていた球団側の見通しの甘さも責められるべきだろう。しかし、中村の重ねた“ウソ”のせいで、資金難への対策を遅らせてしまったという一面も否定できない。
中村はその後、6月16日に放映されたTVインタビューで「私が会見に呼ばれたのは、糾弾のため。会見の途中で分かった。そういうシナリオだったんです」と述懐している。しかし、大阪球団社長の浦野聖史は「もしかしたら払ってもらえるかもしれない。中村さんを、最後まで信じたいという思いだった」。中村との縁を切ることは、3000万円の分配金をあきらめること。『中村解任』の選択肢など、毛頭なかった…。中村の釈明は、的はずれな“自己弁護”と言うしかない。
三重の壁矢も、会見後に中村と会談の予定が入っていたことを明かし「約束していたくらいだから、辞めるなんて、全く考えていなかったんだろう」。球団側も、中村自身も想定していなかった、運営会社ステラの“ハプニング撤退”=Bそのダメージが、その後の関西独立リーグを、さらに苦しめ続けることになる。(喜瀬雅則)
【関西独立リーグの真相】(2)“自縄自縛”となった「選手給与20万円」の堅持 (1/3ページ)
2010.1.24 12:00
このニュースのトピックス:野球
吉田えりが初めて先発出場した2009年9月22日の試合。5回3失点で無念の2敗目を喫した=スカイマークスタジアム(撮影・森本幸一) 開幕から54日。まさに走り出したばかりだった関西独立リーグは、分配金3000万円の未払いから、リーグ運営会社ステラが“引責撤退”。和歌山での会見から3日後の2009年5月23日。5球団の代表者会議が兵庫・明石公園第一野球場で行われ、リーグ続行への決意を、改めて確認した。
しかし、球団の資金難の問題が、一気に解決するはずがない。分配金に当て込んでいた3000万円は、各球団の年間予算の3分の1強を占める高額。その“穴”を埋めるために、新規スャ塔Tーの開拓、観客動員のアップを図るなど、収入増への努力は、もちろん急務。しかし、運転資金となる、手持ちのキャッシュフローが、底をつこうとしている緊急事態。支出を、いかにして食い止めるのか=B球団側の念頭にあったのは『選手給与の削減』だった。
月額一律20万円。この関西独立リーグの選手給与は、他の独立リーグに比べ、格段に高い数字だった。四国・九州アイランドリーグは、過去の実績や活躍に応じたインセンティブで、最大40万円まで上昇するが、最低月給は10万円。寮設備が整えられた四国・九州側とは違い、物価水準が高い都市部で、家賃を含めた生活費という観点からすれば、決して恵まれた額とは言い切れないかもしれないが、資金難という危急の事態を前に、選手、監督、コーチ、球団スタッフを含めると、総額600から700万円に上る『人件費』に手を付けざるを得ない…と考えるのは“企業の論理”としては、当然だった。
神戸球団社長の廣田和代は、給与カットと兼業容認をセットにした“スャ塔Tー収入増”の腹案を抱いていた。選手たちを、近郊地域でチェーン展開している居酒屋、ガソリンスタンド、コンビニ店などへ派遣。バイト収入で生活費を補充するのは当然だが、店舗周辺のコミュニティーで選手たちを“支援”してもらうというものだった。
「例えば、選手がレジに立っている。『週末に試合があるから来てください』といえば、近所の人も『レジのお兄ちゃんが頑張っているなら、行ってみようか』となる。店が、個人スャ塔Tーになってくれて、袖にワッペンをつけてもいい。それが、本当の地域密着だと思う」(廣田)。
危機脱出の、1つの妙案だったに違いない。しかし、各球団の監督、選手たちからの“異議申し立て”の声が高まりつつあった。『兼業禁止』のリーグ規定をタテに、神戸監督の中田良弘は「経営がアカンから、給与をカット…ではダメ。選手の生活もある」と現場の思いを代弁した。独立リーグは、給与をもらって、野球をプレーするプロ。バイトをすればプロではない…というプライドは、相当に強いものがあった。
リーグ側でも、給与カットへの“反動”を恐れる声が出た。運営会社ステラの撤退の時点で、リーグと球団側が交わした契約書は、すべて破棄されているものの、球団と選手が交わした契約に関しては“白紙”と見なされない可能性があったため、その場合、給与削減で、選手側から「契約違反」の集団訴訟が発生することも考えられた。
そうした不安と、選手側の強い要望に押される形で『20万円』の給与が堅持された。しかし、いわば梼Y危機ともいえる状況に直面し、給与を削減することを、ためらう必要があったのか? 球団存続、経営安定が第一という観点から、選手たちを説得、納得させるのも、経営者の“責務”だろう。明石球団社長の大村節二は「自分の給与はありません」と自宅も抵当に入れ、運営資金を工面するなど、懸命の努力を重ねた。それでも『給与20万円』の堅持が“自縄自縛”となる形で、球団の経営状態は悪化の一途をたどった。
1試合2000人を採算ラインとしていた観客動員だが、ステラ撤退までの開幕2カ月間の計36試合で、1試合平均の観客数は1115人。“ご祝儀”の意が強い開幕戦(11592人)を除けば、同815人にとどまる。後期での“4けた動員”は、神戸の吉田えりが初先発した9月22日のスカイマークスタジアムの1629人だけ。入場料収入も伸びず、不景気の影響でスャ塔Tー確保もままならない。最初に“悲鳴”を上げたのが大阪。球団への出資者3人が、6月末に追加融資を拒否。選手の同意を得て、8月から給与20万円を半減。経費削減に乗り出したが、それでも資金繰りのメドが立たなくなった。
神戸も8月分の給与遅配、10月分の給与支払いも“無期限延期”。ある球団では、3万円、5万円、2万円など、少額に分けて、別の日に振り込まれるようなケースもあった。昨年9月24日の代表者会議で、今季の選手給与は「8万円プラス出来高」に、バイトも基本的に容認されることになった。「1シーズンやって、これが身の丈の額」と紀州球団社長の鋳?・行。この案を、5月末の時点で実行に移していれば、神戸が2000万円、明石も2600万円に上った、昨年1年間の赤字額を、大幅に減らすことはできたはずだ。
リーグ2年目今季、紀州の監督を務めるのは元西武投手の石井毅。これは、球団代表の木村虫uの旧名。つまり、代表職との兼任だ。「新しい監督を招聘(しょうへい)する資金がないというのも、事実なんです」と鋳?B消滅した分配金と、堅持した『給与20万円』の“ダメージ”は今もなお、続いている…。
=敬称略。肩書は当時
(喜瀬雅則)
【関西独立リーグの真相】(3)お粗末過ぎたプロ野球ビジネスの“素人集団” (1/3ページ)
2010.1.30 12:00
このニュースのトピックス:野球独立リーグ
中田監督と初勝利を喜ぶ吉田えり=京セラドーム大阪=2009年3月 分配金3000万円の未払いの責任を取り、運営会社のステラがリーグを撤退した後も、関西独立リーグの4球団は、資金難に悩まされた。脆弱(ぜいじゃく)な経営基盤を好転させようと、各球団はスャ塔Tー獲得やファン拡大のためのイベントを行事予定に組み込むことが増えた。
神戸球団社長の廣田和代は「地域密着の独立リーグ球団として、そうしたイベントは、なくてはならないもの」と練習時間を削ってでも、野球教室やファンとの触れ合いを優先させたい方針を掲げ、選手たちへの協力を要請。しかし、監督の中田良弘は、球団側のその姿勢に首をひねり、幾度となく、異を唱えた。
「選手たちの夢は、NPB(日本野球機構)に進むこと。そのためには、きちんとした指導を受け、練習をこなすことが大事。野球を優先させてやりたい」。表だって球団側に本心を伝えづらい選手たちの思いを代弁する、監督としての親心であり、現場の指揮官としての偽らざる本心だった。ただ、これが後々、球団との“対立の火種”となる。
独立リーグのゲームは基本的に週末開催。平日の日中は、みっちりと練習を行う。長ければ7~8時間、短くても2~3時間。練習優先の中田の姿勢に「そんなに練習時間が必要なのか?」と食ってかかった球団関係者までいた。
練習後のイベント出席にも「体を休めることも大事」という中田の方針から、球団が指定した人数を、大幅に削減するケースもあるなど、球団の経営方針と監督の育成方針が真っ向から対立。その象徴的な事件が起こったのは、ステラ撤退後初の試合開催となった2009年5月29日の神戸*セ石戦(尼崎記念公園野球場)だった。
女子投手の吉田えりが右肩痛から復活して開幕戦以来のマウンドで、打者1人を空振り三振に打ち取った。投手交代を告げた中田は、一塁側ベンチ前で吉田を出迎え、右手を取って2人で万歳。師弟のほほえましい歓喜の光景に、3187人の観衆は沸いた。しかし、そのシーンを見ていた一部のスャ塔Tーが、球団側に“猛抗議”したのだ。
「監督だけが、いい思いをしているんじゃないのか」=B知名度抜群の吉田をはじめ、選手たちを活用できず、スャ塔Tーとしてのメリットを享受し切れていない不満が膨らみ出した中、中田の“ファンサービス”が、逆にスャ塔Tーからの大反発を呼んだのだ。
経営基盤の弱い球団は事態を放置できず、その直後から「監督解任」の構想が浮上。しかし、前期を戦うチームは、大阪と優勝争いを展開。2位に終わったが「解任がしづらくなる」と、球団内部では「優勝するな」という思いで“団結”していたほどだったという。そんな状態で必死にプレーしていた選手は、浮かばれない…。
廣田が中田を呼び出したのは、後期開幕直後の7月29日。中田への配慮から「辞任の形で発表したい」という球団側の提案に対し、中田は「辞任は、選手を見捨てる形になる。解任で結構」と指揮官としてのプライドを貫いた。不成績による解任ではなく、双方の信念のもと、互いに譲れない形となってしまっては、妥協点を見いだすのは難しかった。
「これを、1つの反省として、新しい球団組織を早急に構築したい」と廣田は、球団側と現場側をつなぐ球団代表の職を置くことを念頭に、複数のNPBコーチ経験者を対象に交渉を開始。ところが、新たな独立リーグ球団の理想像を描くはずが、その後の拙速かつ稚拙な対応で、無用の混乱を引き起こしてしまう。
中田解任後、初の試合となった7月31日の神戸°I州戦(尼崎記念公園野球場)は、5選手が体調不良を理由に欠場。中田を慕う選手たちの、事実上の“ボイコット”だった。吉田えりは、ショックで体調を崩し、横浜の実家に帰省した。
プロ選手として、職場放棄は、決して肯定できるものではない。それでも、同郷の横浜出身で自らのドラフト指名を球団側に働きかけてくれた恩人が、突然いなくなったのだ。17歳の吉田が“大人の事情”の解任劇を簡単に理解できるはずがない。衝動的な行動に出たことを、一概にとがめることはできないだろう。
しかも、廣田は組織としての決定に至った理由をきちんと伝えるどころか、吉田に対し「人の気持ちを、私は変えることはできない」と退団すら容認するかのような言葉を口にした。これで、世間の風向きも変わった。交渉していた“代表候補”からも、色よい返事が返ってこない。26歳と選手最年長で、信頼も厚かった投手の小園司を、現場と球団フロントのパイプ役として、投手兼コーチ補佐に起用する“組織改編”を検討も、球団から小園への打診は、たった1度。小園が保留した返事を、再確認する機会すら作っていない。
神戸球団のスタッフの大半は、廣田の経営している会社の社員が兼業。経費節減を図るためとはいえ、プロ野球ビジネスの“素人集団”の危機管理は、あまりにお粗末過ぎた。後期に入ると、神戸は最下位を独走。資金難の解決どころか、給料の遅配も発生。出口が見えない混迷が続く中、神戸だけでなく、リーグの人気を支え続けてきた17歳の吉田えりが“退団への決意”を固めていた。
=肩書は当時、敬称略
(喜瀬雅則)
他
【関西独立リーグの真相】(1)運営会社の“ハプニング撤退” (1/3ページ)
2010.1.23 12:00
このニュースのトピックス:野球
三重スリーアローズの入団に合意して会見をする吉田えり=12月28日(撮影者・伊藤奈々)=津市三重スリーアローズ球団事務所 四国・九州アイランドリーグ、ベースボール・チャレンジ(BC)リーグに続いて、国内第3の独立リーグとして、昨年に発足した「関西独立リーグ」。女子初のプロ野球選手、吉田えり(前神戸9クルーズ)の登場で話題を集めながらも、拙速な球団運営や資金難、さらにはリーグ分裂…とゴタゴタ続きとなったリーグ初年度。一体、裏側で何が起こっていたのか=Bその真相を探る。(敬称略。肩書は当時)
◇
京セラドームには、1万1592人。吉田えりのデビューに大観衆がわいた。その華々しい開幕戦から、わずか54日後に関西独立リーグ運営会社「ステラ」の撤退表明は起こった。「資金はない。これ以上、迷惑はかけられない」=B代表取締役・中村明の“辞任の辞”。それは、悲しいウソを積み重ね続けてきた“代償”だった。
関西独立リーグは、初年度の2009年、大阪、神戸、明石、紀州の4球団で3月27日に開幕。しかしほどなくして球団の“資金枯渇問題”が露呈した。神戸球団社長の廣田和代は兵庫・淡路島で行われた5月16日の試合後、選手たちに「給与が払えないかもしれない」と通告。開幕直後の3月31日にリーグから振り込まれる予定の分配金3000万円が、その時点でも支払われておらず、5月に入って給与支払いの原資が不足。各球団で、早くも資金ショートの可能性が浮上していたのだ。
独立リーグの球団運営にかかる費用は、年間1億円前後。初年度に各球団はその分配金を予算に組み込んで当座の運転資金に充当し、その間に新規スャ塔Tーを開拓して観客動員を増やすことで入場料収入を確保するとともに、球団運営を軌道に乗せる構想を描いていた。
しかし、3月31日、4月15日、同30日と、支払い予定は、3度にわたって延期。4度目の期日に設定されていた5月15日にも、振り込まれることはなかった。さらに、支払い予定日の前後に中村に連絡を取ろうとしても、なぜか“音信不通”。
困り果てた4球団と翌10年から参戦予定だった三重による緊急の代表者会議を行ったのは5月19日。苦境の中、リーグ運営の続行を確認、決意を表明する記者会見が設定された同20日、5球団が集結していた和歌山市内のホテルに、中村が突如として姿を見せた。
「分配金は払う。資金もある」=Bこれまで4度も約束をほごにされながら「悪い言い方をすれば、分配金を人質に取られているようなもの。誰も中村さんに強く言うことができなかった」と紀州球団社長の鋳?・行は言う。資金難の球団は、その言葉に、ただすがるしかなかった。その中村の“口約束”も、記者会見の席上で、あっけなくメッキがはがれる。
「原資はないが、支援者はいる」「払えないのは、手続き上の問題ですから」=B90分に及んだ記者会見。質問のたびに論獅ェぶれ、会見前に球団首脳に明言した「支払う」という言葉すら、会見では避けようとする。
「質問に全く答えていない」という報道陣の指摘にも、口元に笑みを浮かべ「この会見は茶番ですね」と言い放ち、さらには「今回は、準備をしていなかったので、改めて会見を開きたい。そのとき、私の本音を語らせてもらう」と半ば強引に会見をまとめようとしたとき、球団首脳たちの堪忍袋の緒が切れた…。
「本音を語るのに、準備が必要なのか?」と紀州の鋳?ェ、紅潮した顔で、中村に食ってかかった。「もう、本音をしゃべってくださいよ」と三重球団社長の壁矢慶一郎も、中村に矛先を向けた。壇上の球団首脳たちが、互いに耳打ちすると、紀州球団代表の木村虫uが、突如マイクを握り「この4チームは、関西独立リーグを脱退します」。壁矢の「えっ、三重はどうなるの?」という困惑の声が、事態の急展開ぶりを、物語っていた。
報道陣から「もう一度話し合った上で、最終結論を出してください」の逆提案を受け、別室で行われた、中村と5球団の会談は90分間。ほんの数時間前に「ある」と中村が断言したはずの分配金の資金は、手元にないどころか、調達のメドも不透明で、運動具メーカーへの未払い金の存在なども浮上するなど、舞台裏での再会談も、混乱を極めたという。再開された会見で、中村は“引責撤退”を表明した。
中村と高校時代の同級生だった神戸の廣田は「お金がないならない…と言ってくれたらよかった。そうすれば他に考えることもできたんです」と涙ぐんだ。分配金ありきで、予算にも組み入れていた球団側の見通しの甘さも責められるべきだろう。しかし、中村の重ねた“ウソ”のせいで、資金難への対策を遅らせてしまったという一面も否定できない。
中村はその後、6月16日に放映されたTVインタビューで「私が会見に呼ばれたのは、糾弾のため。会見の途中で分かった。そういうシナリオだったんです」と述懐している。しかし、大阪球団社長の浦野聖史は「もしかしたら払ってもらえるかもしれない。中村さんを、最後まで信じたいという思いだった」。中村との縁を切ることは、3000万円の分配金をあきらめること。『中村解任』の選択肢など、毛頭なかった…。中村の釈明は、的はずれな“自己弁護”と言うしかない。
三重の壁矢も、会見後に中村と会談の予定が入っていたことを明かし「約束していたくらいだから、辞めるなんて、全く考えていなかったんだろう」。球団側も、中村自身も想定していなかった、運営会社ステラの“ハプニング撤退”=Bそのダメージが、その後の関西独立リーグを、さらに苦しめ続けることになる。(喜瀬雅則)
【関西独立リーグの真相】(2)“自縄自縛”となった「選手給与20万円」の堅持 (1/3ページ)
2010.1.24 12:00
このニュースのトピックス:野球
吉田えりが初めて先発出場した2009年9月22日の試合。5回3失点で無念の2敗目を喫した=スカイマークスタジアム(撮影・森本幸一) 開幕から54日。まさに走り出したばかりだった関西独立リーグは、分配金3000万円の未払いから、リーグ運営会社ステラが“引責撤退”。和歌山での会見から3日後の2009年5月23日。5球団の代表者会議が兵庫・明石公園第一野球場で行われ、リーグ続行への決意を、改めて確認した。
しかし、球団の資金難の問題が、一気に解決するはずがない。分配金に当て込んでいた3000万円は、各球団の年間予算の3分の1強を占める高額。その“穴”を埋めるために、新規スャ塔Tーの開拓、観客動員のアップを図るなど、収入増への努力は、もちろん急務。しかし、運転資金となる、手持ちのキャッシュフローが、底をつこうとしている緊急事態。支出を、いかにして食い止めるのか=B球団側の念頭にあったのは『選手給与の削減』だった。
月額一律20万円。この関西独立リーグの選手給与は、他の独立リーグに比べ、格段に高い数字だった。四国・九州アイランドリーグは、過去の実績や活躍に応じたインセンティブで、最大40万円まで上昇するが、最低月給は10万円。寮設備が整えられた四国・九州側とは違い、物価水準が高い都市部で、家賃を含めた生活費という観点からすれば、決して恵まれた額とは言い切れないかもしれないが、資金難という危急の事態を前に、選手、監督、コーチ、球団スタッフを含めると、総額600から700万円に上る『人件費』に手を付けざるを得ない…と考えるのは“企業の論理”としては、当然だった。
神戸球団社長の廣田和代は、給与カットと兼業容認をセットにした“スャ塔Tー収入増”の腹案を抱いていた。選手たちを、近郊地域でチェーン展開している居酒屋、ガソリンスタンド、コンビニ店などへ派遣。バイト収入で生活費を補充するのは当然だが、店舗周辺のコミュニティーで選手たちを“支援”してもらうというものだった。
「例えば、選手がレジに立っている。『週末に試合があるから来てください』といえば、近所の人も『レジのお兄ちゃんが頑張っているなら、行ってみようか』となる。店が、個人スャ塔Tーになってくれて、袖にワッペンをつけてもいい。それが、本当の地域密着だと思う」(廣田)。
危機脱出の、1つの妙案だったに違いない。しかし、各球団の監督、選手たちからの“異議申し立て”の声が高まりつつあった。『兼業禁止』のリーグ規定をタテに、神戸監督の中田良弘は「経営がアカンから、給与をカット…ではダメ。選手の生活もある」と現場の思いを代弁した。独立リーグは、給与をもらって、野球をプレーするプロ。バイトをすればプロではない…というプライドは、相当に強いものがあった。
リーグ側でも、給与カットへの“反動”を恐れる声が出た。運営会社ステラの撤退の時点で、リーグと球団側が交わした契約書は、すべて破棄されているものの、球団と選手が交わした契約に関しては“白紙”と見なされない可能性があったため、その場合、給与削減で、選手側から「契約違反」の集団訴訟が発生することも考えられた。
そうした不安と、選手側の強い要望に押される形で『20万円』の給与が堅持された。しかし、いわば梼Y危機ともいえる状況に直面し、給与を削減することを、ためらう必要があったのか? 球団存続、経営安定が第一という観点から、選手たちを説得、納得させるのも、経営者の“責務”だろう。明石球団社長の大村節二は「自分の給与はありません」と自宅も抵当に入れ、運営資金を工面するなど、懸命の努力を重ねた。それでも『給与20万円』の堅持が“自縄自縛”となる形で、球団の経営状態は悪化の一途をたどった。
1試合2000人を採算ラインとしていた観客動員だが、ステラ撤退までの開幕2カ月間の計36試合で、1試合平均の観客数は1115人。“ご祝儀”の意が強い開幕戦(11592人)を除けば、同815人にとどまる。後期での“4けた動員”は、神戸の吉田えりが初先発した9月22日のスカイマークスタジアムの1629人だけ。入場料収入も伸びず、不景気の影響でスャ塔Tー確保もままならない。最初に“悲鳴”を上げたのが大阪。球団への出資者3人が、6月末に追加融資を拒否。選手の同意を得て、8月から給与20万円を半減。経費削減に乗り出したが、それでも資金繰りのメドが立たなくなった。
神戸も8月分の給与遅配、10月分の給与支払いも“無期限延期”。ある球団では、3万円、5万円、2万円など、少額に分けて、別の日に振り込まれるようなケースもあった。昨年9月24日の代表者会議で、今季の選手給与は「8万円プラス出来高」に、バイトも基本的に容認されることになった。「1シーズンやって、これが身の丈の額」と紀州球団社長の鋳?・行。この案を、5月末の時点で実行に移していれば、神戸が2000万円、明石も2600万円に上った、昨年1年間の赤字額を、大幅に減らすことはできたはずだ。
リーグ2年目今季、紀州の監督を務めるのは元西武投手の石井毅。これは、球団代表の木村虫uの旧名。つまり、代表職との兼任だ。「新しい監督を招聘(しょうへい)する資金がないというのも、事実なんです」と鋳?B消滅した分配金と、堅持した『給与20万円』の“ダメージ”は今もなお、続いている…。
=敬称略。肩書は当時
(喜瀬雅則)
【関西独立リーグの真相】(3)お粗末過ぎたプロ野球ビジネスの“素人集団” (1/3ページ)
2010.1.30 12:00
このニュースのトピックス:野球独立リーグ
中田監督と初勝利を喜ぶ吉田えり=京セラドーム大阪=2009年3月 分配金3000万円の未払いの責任を取り、運営会社のステラがリーグを撤退した後も、関西独立リーグの4球団は、資金難に悩まされた。脆弱(ぜいじゃく)な経営基盤を好転させようと、各球団はスャ塔Tー獲得やファン拡大のためのイベントを行事予定に組み込むことが増えた。
神戸球団社長の廣田和代は「地域密着の独立リーグ球団として、そうしたイベントは、なくてはならないもの」と練習時間を削ってでも、野球教室やファンとの触れ合いを優先させたい方針を掲げ、選手たちへの協力を要請。しかし、監督の中田良弘は、球団側のその姿勢に首をひねり、幾度となく、異を唱えた。
「選手たちの夢は、NPB(日本野球機構)に進むこと。そのためには、きちんとした指導を受け、練習をこなすことが大事。野球を優先させてやりたい」。表だって球団側に本心を伝えづらい選手たちの思いを代弁する、監督としての親心であり、現場の指揮官としての偽らざる本心だった。ただ、これが後々、球団との“対立の火種”となる。
独立リーグのゲームは基本的に週末開催。平日の日中は、みっちりと練習を行う。長ければ7~8時間、短くても2~3時間。練習優先の中田の姿勢に「そんなに練習時間が必要なのか?」と食ってかかった球団関係者までいた。
練習後のイベント出席にも「体を休めることも大事」という中田の方針から、球団が指定した人数を、大幅に削減するケースもあるなど、球団の経営方針と監督の育成方針が真っ向から対立。その象徴的な事件が起こったのは、ステラ撤退後初の試合開催となった2009年5月29日の神戸*セ石戦(尼崎記念公園野球場)だった。
女子投手の吉田えりが右肩痛から復活して開幕戦以来のマウンドで、打者1人を空振り三振に打ち取った。投手交代を告げた中田は、一塁側ベンチ前で吉田を出迎え、右手を取って2人で万歳。師弟のほほえましい歓喜の光景に、3187人の観衆は沸いた。しかし、そのシーンを見ていた一部のスャ塔Tーが、球団側に“猛抗議”したのだ。
「監督だけが、いい思いをしているんじゃないのか」=B知名度抜群の吉田をはじめ、選手たちを活用できず、スャ塔Tーとしてのメリットを享受し切れていない不満が膨らみ出した中、中田の“ファンサービス”が、逆にスャ塔Tーからの大反発を呼んだのだ。
経営基盤の弱い球団は事態を放置できず、その直後から「監督解任」の構想が浮上。しかし、前期を戦うチームは、大阪と優勝争いを展開。2位に終わったが「解任がしづらくなる」と、球団内部では「優勝するな」という思いで“団結”していたほどだったという。そんな状態で必死にプレーしていた選手は、浮かばれない…。
廣田が中田を呼び出したのは、後期開幕直後の7月29日。中田への配慮から「辞任の形で発表したい」という球団側の提案に対し、中田は「辞任は、選手を見捨てる形になる。解任で結構」と指揮官としてのプライドを貫いた。不成績による解任ではなく、双方の信念のもと、互いに譲れない形となってしまっては、妥協点を見いだすのは難しかった。
「これを、1つの反省として、新しい球団組織を早急に構築したい」と廣田は、球団側と現場側をつなぐ球団代表の職を置くことを念頭に、複数のNPBコーチ経験者を対象に交渉を開始。ところが、新たな独立リーグ球団の理想像を描くはずが、その後の拙速かつ稚拙な対応で、無用の混乱を引き起こしてしまう。
中田解任後、初の試合となった7月31日の神戸°I州戦(尼崎記念公園野球場)は、5選手が体調不良を理由に欠場。中田を慕う選手たちの、事実上の“ボイコット”だった。吉田えりは、ショックで体調を崩し、横浜の実家に帰省した。
プロ選手として、職場放棄は、決して肯定できるものではない。それでも、同郷の横浜出身で自らのドラフト指名を球団側に働きかけてくれた恩人が、突然いなくなったのだ。17歳の吉田が“大人の事情”の解任劇を簡単に理解できるはずがない。衝動的な行動に出たことを、一概にとがめることはできないだろう。
しかも、廣田は組織としての決定に至った理由をきちんと伝えるどころか、吉田に対し「人の気持ちを、私は変えることはできない」と退団すら容認するかのような言葉を口にした。これで、世間の風向きも変わった。交渉していた“代表候補”からも、色よい返事が返ってこない。26歳と選手最年長で、信頼も厚かった投手の小園司を、現場と球団フロントのパイプ役として、投手兼コーチ補佐に起用する“組織改編”を検討も、球団から小園への打診は、たった1度。小園が保留した返事を、再確認する機会すら作っていない。
神戸球団のスタッフの大半は、廣田の経営している会社の社員が兼業。経費節減を図るためとはいえ、プロ野球ビジネスの“素人集団”の危機管理は、あまりにお粗末過ぎた。後期に入ると、神戸は最下位を独走。資金難の解決どころか、給料の遅配も発生。出口が見えない混迷が続く中、神戸だけでなく、リーグの人気を支え続けてきた17歳の吉田えりが“退団への決意”を固めていた。
=肩書は当時、敬称略
(喜瀬雅則)