TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

23892km

2017-05-28 23:59:00 | クルマ
23892km、燃費17.9km/L

土曜日、難波に買い物、日曜日、法事の後、天王寺界隈をぶらつく。

大正義岩波書店の電磁気学の勉強に着手。なんつーか、色々と懐かしい。それにしても例題の計算がややこしくてうんざり。高校生の頃やってた、「東大の入試問題集」みたいだ。

あ。保護者殿。すまん。また電話する。忙しくて電話を欠いてしまった。
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23733km

2017-05-21 23:59:00 | クルマ
23733km、燃費18.1km/L

本社との往復だけだと、燃費がとても悪くなるね。
土日は三七日(さんなのか)以外は家の近所の散歩と難波あたりへ出かけたくらい。
「パリーグウォーク」というアプリを入れて、歩数を伸ばしてみて遊んだのだが、これが嵌りそう。

ところで、実家に帰る時に思ったのだが、関西線の各停、本数が減りすぎ。快速の犠牲になっているとしか思えない。
本数は、俺が生まれた1965年の時よりも少ないはず。調べてみようかな。


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読書メモ:『夜の谷を行く』

2017-05-21 23:01:00 | 読書
 『夜の谷を行く』(桐野夏生著、文藝春秋)

 連合赤軍事件については数多く書かれている。が、人間心理に関してまでストンと描けているものは多くはないだろう。権力側の書物は論外。相手を悪魔化しても、所詮は若者という人間である。そして、人間心理を描くことは、おそらくは文学にしか出来ないことであろう。

 著者は1951年生まれ、連合赤軍事件の犯人たちの中では若い世代と同じである。だから描いたのであろう。著者は他人事と思えなかったのだと思う。

 主人公は、山岳ベースの死体運びの段階で山を逃げ、そして逮捕・投獄される。その後家族はかなりな状況に遭い、ひっそりと生きることを決意する。おそらくそういう元活動家は何百もいるだろう。主人公の場合は妹と関係がつながり、姪の結婚式に呼ばれる。(ネタバレ禁止)それもきっかけに、かつての同志と会うことになる。おそらくは死ぬまで抱えたままにしておこうと思っていたであろうことを語り合う。

 印象に残るものを引用。


「私たちの誰も、あいつら(註:永田、森)に逆らえなくて、みんなで尻馬に乗っかって、仲間を見殺しにしたってことよね」(p222)
「永田も坂口も誰もがみんな、死んだ森のせいにしている。でも、あたしたちだって、永田と森のせいにしてるじゃない」(p223)


 先日『「革共同五十年」私史』という本を読んだ。こちらの本の著者は革共同中核派のことを「戦後民主主義の申し子」と規定していた。正直、よく分からなかった。というのは、戦後民主主義が1950年頃の逆コースを経て、その欺瞞への告発が爆発したのが1970年の闘争で、それを養分に革共同は一定の大衆性を得て伸張したのではなかったのか。んで。連合赤軍もそういう空気の中で思い詰めた一団の暴走であろう。だが。それが本当の話であるならば、ブルジョア民主主義の一つである「戦後民主主義」を乗り越える=突き当たりまでは進んでいるはずである。だが、そうであるならば、余りにも日本的な上の引用文のような会話があり得るだろうか。『ノルウェイの森』では、全共闘で女性が「銃後の守り」のみをさせられるという性差別が描かれていて、実は『「革共同五十年」私史』にもそういう記述があった。要は、民主主義が作風として定着してはいなかったという、実に日本的な弱点が連合赤軍という共産主義団体にもあったということを指摘せざるを得ない。そして、それは民主主義の基本である水平性が欠如していたということだ。だから逆らえない。そして「死人に口なし」。そう考えると、連合赤軍というものは実に日本的な風土による事件であったのではないか。彼らが乗り越えようとした「反動的な日本」そのものの現れではなかったか。そうは言っても、被指導部のメンバーの一人の心理描写としてはやはりこの辺が限界だろう。

 しかし。この文学が訴えたいのは多分そこじゃないだろう。上に書いたことは山本直樹の「レッド」などに描かれていると思う。では何か?最後に登場する金村=村松の手紙以降のことは、本当か嘘かは分からない。彼女の手紙に描かれ、そして主人公が認めていることによれば、女たちが子供を産み、革命戦士を育てて未来につなげる、という構想である。金村は、その遠大な永田の計画が、「森が男の暴力革命に巻き込んで」しまい、おじゃんになったと。で、金村は、西田の法廷闘争でそのことに触れて欲しかったし、その計画を暴露することで、(ここからは評者の考え)「総括という名の死のことが主ではなく、育むという生こそが目的であった」と訴えて欲しかった。だが、主人公はそうしなかった。金村の手紙は主人公への怒りが綴られている。主人公は、山岳ベースの女たちにとって同志ではなかったと打ちのめされる。それは、かつての同志たちからも孤独に突き落とされるということであった。だがだが。物語の最後に大どんでん返しが。確かに人間はわかり合えない生き物だ。だけど結局、人生において完全なる孤独というものはないのではないか。最後の描写に現れているように、命は繋がっているのである。その唯物論的な現実を忘れた「理念」による運動は、やっぱりダメなんじゃないか。

 ついでに。駐輪場の管理人との喧嘩、フィットネスクラブでの出来事、かつての闘士がひっそりと生きることも出来る様子は滑稽でもあるし、それは日常というものが滑稽なものであることを示していると思う。こうやって「わかり合えない」者同士は折り合いを付けているのだ。・・・・なんで共産主義運動ではでけへんのやろ?

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23560km

2017-05-14 23:59:00 | クルマ
23560km、燃費18.4km/L

二七日(ふたなのか)のあと、滋賀県へドライブ。
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22952km

2017-05-07 23:59:00 | クルマ
22952km、燃費18.3km/L

伊丹と何度も往復。
5月2日、母死去。
お通夜、葬儀で気が休まらず。




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