マルクス主義は歴史の原動力に階級闘争を見る。そして、我らが生きる資本主義社会において二大階級への分裂を予言する。実際の歴史はともかく、脳内構図としてはそういうことだ。で、知識人は本質的にブルジョアで、しかし零落する可能性が極めて高いものとされて「自らの運命を知るとき」プロレタリアートの側に立つ。
こうしてプロレタリアートの外部としての知識人が外部注入を行なう。今の理論はもっと複雑だが、まあいいや。そして、外部注入された革命意識(理論)に従ってプロレタリアートは社会改良~革命に決起する。
しかし、労働者意識はそのまま(ありのままの)労働者にとって「他者」なのだ。レーニンの『なになす』の偉大さはそこを明示したところにある。すなわち、その「他者」を受け入れる少数と受け入れない多数に分裂する。ここにマルクス主義最大のアャ潟Aがある。幸福な一致は異常時でしかありえない。革命は戦争とならぶ危機の時代にのみ問題になる。それはともかく。
外部注入を行なう知識人やその党は、先進的・自覚的労働者を選ぶ時点で差別を行なう。党幹部は先進的・自覚的労働者を党に結集し、それを伝導ベルトとして労働者大衆に宣伝、あるいは大衆を扇動し、目的を遂行する。
党が小さいときはそれもまた良かろう。大衆と雖も顔の見える関係だ。マルクスの言う「人間の目的は人間自身である」という幸福な関係態も可能だ。しかし、党が大きくなると? 目的のはずの人間を道具にすることになるだろう。機能的な組織(ゲゼルシャフト)とはそういうものだ。
すなわち、党は労働者大衆を道具とする。役に立たない、立つを基準にした差別を同伴させて。
そしてその差別はマルクス主義にとって、その論理構造が持つ本質的な必然だと思う。
終戦直後からしばらく左翼暴力団として利用された被差別の怒り、そして何よりも華青闘の告発というものは、1968年という時代に表出された日本左翼の利用主義への怒りと理解される。しかし、一つ被差別や民族の問題に留まらない、マルクス主義左翼の困難性に起因する差別(性)への怒りだと小生は考える。
多分、ゲゼルシャフトに人間は耐えられないのだ。
今読んでいる『素描・1960年代』、あるいは『革命的な、あまりにも革命的な』を見返しながら、そんなことを考えた。
こうしてプロレタリアートの外部としての知識人が外部注入を行なう。今の理論はもっと複雑だが、まあいいや。そして、外部注入された革命意識(理論)に従ってプロレタリアートは社会改良~革命に決起する。
しかし、労働者意識はそのまま(ありのままの)労働者にとって「他者」なのだ。レーニンの『なになす』の偉大さはそこを明示したところにある。すなわち、その「他者」を受け入れる少数と受け入れない多数に分裂する。ここにマルクス主義最大のアャ潟Aがある。幸福な一致は異常時でしかありえない。革命は戦争とならぶ危機の時代にのみ問題になる。それはともかく。
外部注入を行なう知識人やその党は、先進的・自覚的労働者を選ぶ時点で差別を行なう。党幹部は先進的・自覚的労働者を党に結集し、それを伝導ベルトとして労働者大衆に宣伝、あるいは大衆を扇動し、目的を遂行する。
党が小さいときはそれもまた良かろう。大衆と雖も顔の見える関係だ。マルクスの言う「人間の目的は人間自身である」という幸福な関係態も可能だ。しかし、党が大きくなると? 目的のはずの人間を道具にすることになるだろう。機能的な組織(ゲゼルシャフト)とはそういうものだ。
すなわち、党は労働者大衆を道具とする。役に立たない、立つを基準にした差別を同伴させて。
そしてその差別はマルクス主義にとって、その論理構造が持つ本質的な必然だと思う。
終戦直後からしばらく左翼暴力団として利用された被差別の怒り、そして何よりも華青闘の告発というものは、1968年という時代に表出された日本左翼の利用主義への怒りと理解される。しかし、一つ被差別や民族の問題に留まらない、マルクス主義左翼の困難性に起因する差別(性)への怒りだと小生は考える。
多分、ゲゼルシャフトに人間は耐えられないのだ。
今読んでいる『素描・1960年代』、あるいは『革命的な、あまりにも革命的な』を見返しながら、そんなことを考えた。