TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

読書メモ:『サラリーマン球団社長』

2020-11-04 19:28:00 | 読書
 『サラリーマン球団社長』(清武英利著、文藝春秋)


 志のある人は組織を変えることが出来る。だが、それを継ぐ者がいなければ、元の木阿弥である。阪神タイガースのことだ。タイガースを立て直した球団社長の野崎勝義の奥様が最後に強烈なコメントを発している。今は健気なカープのファンとのこと。

 「タイガースは、選手がタニマチやファンにチヤホヤされて、監督もビシッと指導できんもの。カープは監督も選手も一生懸命で、甲子園の高校野球を見てるみたいやから、気持ちがいい」(p318)

 カープは、地域経済の規模の小ささと、広島県人の熱しやすく冷めやすい気性のため、常勝球団になることがなかなか叶わなかった。それでも、松田オーナー一族の優しさに支えられ、ケチではあるが暖かく、知恵を巡らせて生き残ってきた。その上で、この本の一人の主人公である鈴木清明が、若かりし頃の松田元に請われてカープに転籍し、元々の経理の修業を積んでいたのでそこからはじめ、緒方らの野球留学の付添でマネージャー兼料理人兼通訳として渡米、カープアカデミーの責任者としてドミニカへ行き、そして、地元密着、広島出身者をターゲットとしたファンの掘り起こしなどをこなし、カープを貧乏球団でなくしていった。今現在は不調だが、カープは強い球団になった。

 野崎勝義は前任者が消耗しつくして球団を去った後釜としてタイガースのフロントに入る。本書から分かるのは、球団社長と雖も年俸一千万ほどであること。阪神グループにおけるタイガースの位置づけが分かるorz 利益の大半が球団に残らず、電鉄に吸い上げられる仕組み。自由獲得枠があった時、どうせ巨人やホークスに取られるからと金を鰍ッない。球団OBを軸とした派閥に支配される球団。一言で言ってぬるま湯。当時の久万オーナーに問題意識がなかったわけではなく、だからこそ、ひたすら堅い電鉄の中にあって、アグレッシブに仕事を取る必要のあった阪神旅行社の、しかも海外ビジネスを展開する野崎という人物を呼んだのだろう。だが、タイガースはぬるま湯で、外様を監督にするような球団ではなかった。そこに風穴を空けて野村、星野を監督にしたのは志があったからだろう。久万も日和見だが、一定は変える努力をした。野村、星野という外部の人材は、タイガースの問題点を客観的に指摘し、オーナー自身が変わるべきことを示した。久万はそれを聞き入れた。結果、金の鰍ゥる大型補強を実施するなどして、2003年と2005年の優勝である。その裏で、日本最初のBOS(Baseball Operating System)を構築していた。これも野崎の慧眼であった。前近代的なタイガースとNPBを変える革命児であった。だが、球団のエートスはそれを許さず、失意の中キーマンである吉村浩はBOSに興味を持っていた日本ハムの大社オーナーに誘われて去っていった。吉村の活躍で、日本ハムは実質日本で最初にBOSを構築し、理解のあるオーナーとスタッフの下、それは改良されて維持されている。システムを作るより、システムを維持するほうが難しいのは、サラリーマンなら誰でも思い当たるフシがあるだろう。周囲の理解と協力、そして維持するための膨大な労力がないと維持できない。

 本書は、FAの駆け引き、合併問題における様々な歴史的証言、著者がかつて巨人の球団代表だったことから巨人側の視点、球界の改革についても描かれていて野球ファンには興味が尽きない。

 また、阪神が今何故、再び低迷気味かも分かる。組織がキチンと機能していないのではないかと思わざるを得ない。それは、いくつかのセ・リーグ球団にも思い当たるフシがあるけど。パ・リーグのファイターズ、ホークス、イーグルスは先進的だと思う。

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読書メモ:『民衆暴力』

2020-11-03 12:34:00 | 読書
 『民衆暴力 ──一揆・暴動・虐殺の日本近代』(藤野裕子著、中公新書=2605)


 読後、思ったのは、民衆はインテリのイデオロギーに従った存在では決してなく、彼らが決起し、暴力を行使する理由は「我々の生活を守れ」という言葉に尽きるのではないだろうか。それが進歩的に見えたり、排外主義に見えたりするが、別に別の原理に従っている訳ではないと思った。だから、関東大震災の時、知り合いの朝鮮人を守りつつ、知らない朝鮮人を殺したり出来るのだ。

 本書の解説としては、この本のあとがきが素晴らしい。一部抜粋する。(p208から)
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 「暴力はいけない」という道徳的な規範だけで民衆暴力を頭から否定することは、そこに込められた権力関係や、抑圧をはね飛ばそうとする人びとの力を見逃すことになる。それだけでなく、抑圧された苦しい現状から一挙に解放されたいという強い願望と、差別する対象を徹底的に排除して痛めつけたいという欲望とが、民衆のなかに矛盾せず同居していたことも見逃しかねない。

 権力への暴力と被差別者への暴力とは、どちらかだけを切り取って評価したり、批判したりすることが困難なほど、時に渾然一体となっていた。一度暴力が起きると、さまざまな感情や行為が連動して引き出されるためである。

 したがって、過去の民衆暴力を簡単に否定することとも、権力への抵抗として称揚することとも、異なる態度が求められる。
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 外国には分かりやすい例がある。ロシア革命の一つのスローガンは「ドイツ女(皇后)を絞め殺せ」であり、パリ・コミューンはプロイセンに対する排外主義がきっかけであった。どちらも対戦国への敵意が排外主義として表れつつ、革命としても表現された。

 必要なことは、以下のことであろう。
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 民衆暴力をネガティブに捉える機制を見抜き、暴力をふるう行為者に即した理解を試みること。そして、権力を乗り越えようとする民衆の力がどのように発揮され、同時にどのような存在を切り捨てていたのかをしっかりと見据えること。
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 暴力をふるう論理、内在的論理を把握しなくては、あらゆる変革的思考と行為は、現状では単なる道徳論に堕し、一ミリとて社会を動かせないだろう。


 では、非常に簡単にはじめから内容を振り返る。近代に入る前、すなわち近世の民衆暴力としてイメージするのは一揆である。だが、江戸時代の一揆は、本質的には非暴力であった。為政者には仁政が求められ、下手をすると農民は逃散する。すると、年貢はなくなる。また、酷い場合には幕府によってお家お取り潰しに遭うので、無体は出来ない。「仁政」イデオロギーが機能していたので、暴力に訴えることは希であった。但し、商品経済が発達する江戸末期には、仁政が機能しなくなり、暴力化していった。甲州騒動、そして世直し一揆。兵農分離の原則を曲げ、農民に銃殺を担わせて鎮圧した。仁政が機能しなくなり、民衆の間に解放願望が高まったことが背景にある。商業の発達で貧富の差が拡大し、解決策として二宮尊徳に代表される「通俗道徳」が浸透した。が、誠実で理想的に見えるが、それで貧富の差は小さくならない。今なら、緊縮財政的なものだ。マクロとしては余計ダメになる(合成の誤謬)。「真理は抑圧的」。正しいことは抑圧的だから、そこからの解放を求める心情はあり、それが「遊び日」の増加に繋がった。そして「いいじゃないか」踊りへ。踊りでは異性装が流行した。

 で。御一新(明治時代へ)。国家指導部が「出羽守」化w 西洋の規範を民衆に押しつける。裸で出歩くな、たちションするな、学校に貴重な労働力だった子供を通わせろ(銭もかかる)、警察という訳の分からない制度、血税=徴兵制(それ、武士の仕事ちゃうん?)、などなど。これらを背景に「新政反対一揆」が登場する。面白い「噂話」を。「西洋式の病院に行くと、患者は鉄串の上に乗せられ知らぬ間に身体の「膏」を抜かれ、笑いながら死ぬ」「徴兵されると「軍務司」という虫にして「異人」に食わせる」(p36)。日本中に奇っ怪な噂が流れたが、要は外国人が非人間的で残忍だというイメージから来ている。今の権力はその手先に見えただろう。異人は女・子供の脅威=種や民族の維持への脅威と見られた。また、色々な関係性が「平等」になることへの不満、不安も見られる。有名な「解放令一揆」である。播但一揆、美作一揆など。なお、身分解放令は、地租改正で税金の鰍ゥらない土地(宅地)をなくすためだったらしい。被差別部落に対するボイコット(不買)もあったらしい。抵抗した被差別部落は、虐殺もあった。一揆は呼びかけられて動員されるものだが、拒否した村もあった。なお、警察や軍は、この時代に整備されていった。一番の主眼は士族反乱であった。が、新政反対一揆を鎮圧するには旧武士(士族)に頼るしかなかった。筑前酎ц龜рナは福岡県庁が一揆勢に占領されるほど、軍や警察は弱かった。陸軍は権限を侵されたと怒ったが。明治政府が暴力を独占するという国家の基礎を固めるのは、西南の役の後である。

 西南の役の時、同志に決起を促された自由党の板垣はしかし、同意せず言論戦にシフトした。自由民権運動である。だが、求めた議会や憲法制定は予防反革命w的に政府に機先を制せられた。西南の役の軍費は不換紙幣増発で賄いインフレを誘発した。対策として増税したが、これにより租税を納められない農民が激増した。土地は競売に鰍ッられる。土地が完全に人手に渡ることは江戸期には例外的で、「過酷な近代」を農民に突きつけた。当時の日本の輸出産業は銅と生糸だったが、その生糸の価格が政策的に暴落させられ、特に秩父地方を直撃した。さて。自由民権運動は集会条例などで抑圧されるが、弁士は各種パフォーマンスで人集めをし、勧誘をする。それを見ての予防反革命であった。その残党の15人が秩父事件に参加。但し主導的人物は全部で100人ほどであり、主導したというほどではない。秩父困民党の総理は、博徒(ヤクザ)の田代栄助である。地域の顔役の富裕層でもあった。親分肌と義理人情の人。次郎長親分、国定忠治みたいな人か。40年賦返済、学校の3年休校(経済的負担が大きかった)などを求めた。近代的な理念で蜂起者は参加したのではなく、近世からの論理で参加した。近世は、借金返済が遅れて土地が人手に渡っても、遅れて返済したら元に戻る、最低限の衣食住を除いて財産処分したら棒引きなどの温情措置があった。だが、「赤シャツ(『坊ちゃん』」が正義?とされる近代はそうじゃない。共同体主義は近代によって崩壊させられた。なお、田代は暴力のプロとして、蜂起で国家暴力に対抗出来ないと考えていた。それでも対抗するために、軍事組織を作った。軍律が面白い。「~するものは斬」。性暴力も斬。さて、蜂起は田代の意図に反して、困民党と警察の衝突(殺し合い)から始まった。田代は逃走を指示。一週間ほどで鎮圧されるが、高利貸しは数多く打ち壊された。死者は30人強。死刑は7人。なお、井上伝蔵は35年逃亡。偽名で生き延びた。民衆の生活を顧みない、仁政とは真逆の近代への憤怒が渦巻いていた。武装闘争をしなかった先行する武相困民党の書にもその怒りは記されていた。なお、権力側の対応は、二宮金次郎らの「通俗道徳」の説教である。令和初期の今、それはデフレを悪化させることを、経済に関心のある人は知っている。通俗道徳に収まらないエネルギーはどうなるか? その一つの表現が日比谷焼き討ち事件であろう。

 明治期、日本は富国強兵を進め、曲がりなりにもアジアの一等国となり、都市プロレタリアートと中間層が形成された。だが、選挙権はまだまだ富裕層だけに与えられていた。そんな大状況で日比谷焼き討ち事件という暴動が起きた。日露戦争は過酷な戦争であったが、ギリギリのところでメ[ツマス条約という妥協をせざるを得なかったが、しかし、これだけの犠牲を払っても取れるのはこれだけ?という大衆の気分は、日清・日露戦争で大きくなった新聞・雑誌というメディアで増幅された。知識人向けの「政論新聞」ではなく、大衆向けの「民衆新聞」(『万朝報』など)がその役割を果たした。戦争期は大衆の気分を高揚させて挙国一致を醸し、戦勝に酔わせ(提灯行列)、露探という幻想を作り、ナショナリズムを煽った。条約で高揚感は厭戦ムードに転化した。ボテッカーが街に貼られ、「○○○を斬殺せよ」とアジられた。街頭は、集団示威の場になっていた。暴動になったきっかけの国民大会におけるインテリの目論見は講和廃棄と戦争継続であった。国家の伸張が大事なのであった。それは国民の厭戦気分と乖離していた。「国民」と言いながら、国民大衆と意識がずれているのは今時の野党と被るね。そんなプチブルを「国民」と措定した集会に、ガチの「国民(蕎麦屋の小僧など)」が来たのであった。その多数は労働者であった。労働者は親方や商店主を夢見ていたが、成れるものは殆どいなかった。野望はほぼ実現しない。鬱屈した思いは「飲む、打つ、買う」の刹那的行動で発散された。自己責任論的な通俗道徳と真逆である。そうなる必然がある。喧嘩も茶飯事だが、直ぐに仲良くもなる。酒場の殴り合いは仲間形成のプロセスでもあった。価値観はマッチョで義侠心。日常監視していた警察権力は敵。だが松原岩五郎のルメw再暗黒の東京』が描く通り、彼らには巨魁たるべき人物がいなかった。トロツキー的に言うなら「シリンダー」がなかった。他にも多数の暴動があったが、暴動は蜂起に至らず、ましてや革命に結実しなかった。内閣は飛んだが、巨魁が権力を握ることはなかった。なお事態を重く見た「憲政の神様」尾崎行雄東京市長は民間の自警組織を作ることとし、警邏夫を置いた。また青年団や在郷軍人会を基盤にした自警組織も出来た。これらの組織が、権力のお墨付きを得て関東大震災で大虐殺を引き起こす。

 デマに乗せられた大虐殺であることは知られている。だが、デマの発生源は今や不明であるが、警察が朝鮮人に関する流言飛語を率先して流したことは確認されている。内務省警保局は長官名義で「朝鮮人が暴動を起こした」と電報を発している。そのデマを受け、各種自警団が動いた。その背景には歴史的経緯がある。日韓併合は1910年。その統治は武断政治と、朝鮮版地租改正。その過程で多くの土地が日本人側に奪われ、明治初期~中期で日本国で行われたような「近代化」が強制された。大規模な叛乱は三・一運動。運動は、一部暴力的になったとはいえ、総じて祝祭的なもの(いいじゃないか踊りに比すべき?)であった。だが弾圧は割に合わないほど過酷で、7500名が殺された。朝鮮統治はこの後、同化政策となるが、結果として農村は疲弊した。米の増産のために水利事業費が農家に押しつけられたためである。その農家の一部は貧困から逃れるように日本内地に来た。また、三・一運動時の朝鮮での政務総監だった水野錬太郎は内務大臣として大震災で戒厳令を発するなど、三・一運動の鎮圧者が大震災時の治安責任者になっていた。彼らは朝鮮人の叛乱に恐浮オていた。また、三・一運動を受け「不逞鮮人」という言葉が生まれ、流布していた。朝鮮人は得体の知れない、叛乱を起こす「他者」として関東の住民には見えたであろう。今風に言えば「テロリスト」のイメージである。自警団だけではなく、荒川放水路沿いでは軍隊が朝鮮人を虐殺した。「官憲が流言を広め、軍隊が厳戒令を布き、朝鮮人を殺す」(p158)。東京ではかくのごとし。「官民一体の虐殺」。公権力の関与が流言は真実だと民衆に信じ込ませただろう。千葉では避難民が流れ込んできた。また例えば北総鉄道の工事現場で働く朝鮮人労働者を自警団が針金で縛り、船橋警察署に連行したが、東京からの避難民が「そんなやつらたたき殺してしまえ」といい、それがきっかけで暴行が始まった。軍隊が収容した朝鮮人を周辺の村に配って自警団に殺させた。そもそも救護目的で収容したが、デマに乗せられた。千葉では軍公認の自警団による虐殺であった。埼玉では避難して来た人間から朝鮮人を自警団が見つけ出して虐殺した。朝鮮人が逃げ出したら一人残らず殺すという決まりも場所にあっては存在した。警察が保護した朝鮮人を、自警団が署内に侵入して殺したこともあった(本庄署内)。地震から三日後から、内務省はデマ打ち消しに動いたが、混乱は続き、警察・軍は虐殺阻止にも荷担にも回った。埼玉は民衆が虐殺の中心となった。このような事態では当たり前のように性暴力も発生している。日本女性が強姦されているという流言があり、それから「守る」という名目でも朝鮮人は虐殺された。朝鮮人として、反撃は逃げることが精一杯であった。それでも生き延びれた人は運が良かったとしか言えない。なお、事後司法省は殺害された人数を二三〇人としている。一方、吉野作造らの調査では二六一三人である。その差は遺体の隠滅(警察幹部に指令された)に主としてよると推定される。また、軍隊や警察による虐殺はカウントされていない。権力犯罪の隠蔽は、日本の権力の通弊である。(21世紀なら自民党のみならず、民主党も原発事故については同罪である。)そして、虐殺者は自警団などの民間人のみが裁かれた。不公平である。それも懲役2,3年が通例と軽い。なお、日本人を朝鮮人と間違って殺した場合は懲役十年である。日本国は今に至るまで事実関係を認めず、謝罪も賠償もしていない。「数が不明だから」だそうだ。唾棄すべき態度ではある。

 なお、東京朝日新聞の記者の記述に「天下晴れての人殺し」というものがある。見た目労務者の言葉。「俺ァ今日までに六人やりました」とも。同時にそうしないと「身が護れねえ」とも。デマに乗せられての「天下晴れての人殺し」である。行為については「豪気なものでサァ」。能動性がある。労務者の背景には、下層労働者としての日本人と朝鮮人の競合があり、敵対心がある。本書では南綾瀬村の虐殺について詳述している。九人の朝鮮人が150人の自警団に包囲され、抵抗のためにビール瓶を投げた時、「そら、爆弾だぞ」と自警団が叫び、それをきっかけに七人が殺害された。ささやかな抵抗も暴動の根拠とされたのだ。裁判では、自警団の被告は四ツ木橋に関する「朝鮮人が爆裂弾を投げたり」という軍隊の流したデマを信じて、「守らねば」と思ったことが明かされている。同じ人々が避難民に握り飯や水を与え、そういうデマを聞かされていた。義侠心とマッチョな価値観から虐殺に加わっている。本庄の警察署に保護されていた朝鮮人はなだれ込んだ自警団に約70人が虐殺された。郡役所から「東京で悪さをした朝鮮人を警察につき出せ」という指示があり、朝鮮人狩りが行われた。殺害方法は親の見ている前で子供の首を斬る、親は磔、生きている人間の腕を切断など酸鼻を極める。「こんな時でないと日本刀の切れ味が分からない」とも。人間の残酷さが爆発している。虐殺は国家のお墨付きで、多く殺すほうが国家への貢献と思われた。十六人殺したと自慢する者も。目撃者たる朝鮮人を生きて朝鮮に返したら仕返しが浮「という心理も皆殺し的な虐殺に繋がった。事後、県の命令で証拠隠滅のため遺体を焼却処理。日本のお約束。だが消しきれるものじゃない。これも日本のお約束。翌日、普段のトラブルなど(神輿規制、遊郭規制、自警団が朝鮮人を連行しようとしたら「司法権の侵害」と署長は怒った)で「署長を殺せ」と暴徒が本庄警察署を襲う。署長は新聞記者や在郷軍人会などに救われて脱出、後で軍隊が来て鎮圧。日比谷焼き討ち事件に似ている。なお、本庄町では製糸工場主が朝鮮人を匿い、群馬新聞の支局長が身体を張って自警団を止めた。朝鮮人と共に暮らし、気心を知る人は虐殺を止めた。そうする一方、見知らぬ朝鮮人を虐殺する人もいた。


「過去の民衆暴力を見る視線を研ぎ澄ませれば、現在を見る眼も磨かれる。民衆暴力をネガティブに捉える機制を見抜き、暴力をふるう行為者に即した理解を試みること。そして、権力を乗り越えようとする民衆の力がどのように発揮され、同時にどのような存在を切り捨てていたのかをしっかりと見据えること。そのような視座から歴史を見ることで、私たちが現状を乗り越え、変えようとする際に、どこかに生じているかもしれない切断を意識的に見つけ出し、紡ぎなおし、編みなおす力が得られるように思う。」(p209)


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