で、マルクス主義の一旦の敗北を考えてみる。搾取~疎外~市場の無政府性に対して、マルクスは自由な人間の自由な諸連合を提起し、エンゲルスらにより(そしてそれは恐らく他の社会主義者の潮流の影響により)理性主義的な計画経済への希望へと転化した。
市場は一旦、金のあるものの勝ち、自由な競争は金持ちの独占へ転化した。(帝国主義的段階)今の資本主義も、大金持ちの顔は少しずつ入れ替わりながらも、基本的にはそういう状況が続いている。その危うさは多くの社会主義者の指摘するとおり。大金持ちの実質的な独裁が続いていると小生は考える。あるのは、首のスゲカエという名の政権交替に過ぎない。替えはいくらでもおるんやでぇ~。
さて、そういう段階を乗り越えたはずの「社会主義国家」はどうか。共産主義者を自称する官僚独裁に過ぎない。共産主義は出世の道具ですかそうですか。その下で、庶民は政治や経済の権限から疎外されているさまは、西側諸国と変わらない。
いずれにせよ、自由であれ、協働であれ、それは有名無実化し、疎外を再生産している。そのもとで、人間性は抑圧され、歪められ、そして歪められたままでしか生きていけない仕組みとなっている。
注目すべきは社会主義国家である。資本主義がダメなのは、資本主義社会に生きる我々は良く知っている。だけど、社会主義国家が更にダメなのも知っている。一応、ソ連にせよ中国にせよ、マルクス主義にしたがって建国され、建設されたことになっている。だけど、大事なことを忘れているとしか思えない。確かに、マルクス主義の中の科学という側面をこれらマルクス主義者は強調する。だけど、「人間の根元はやはり人間自身である」という、ラディカルなマルクスは?イタリアで釣りをして「ドリン、ドリン!」と命の躍動に笑いをこらえ切れなかったレーニンは? 彼らは、科学を突き抜けたものを掴もう、<いのち>の躍動を阻害するものを憎み、変えようとしたのではなかったのか? 「花は美しい、だが、花を見る眼を涙で曇らせるものは?」形式に安住してはならない。
そこで、小生が求める社会主義ってものを、科学の化粧の下にあるものを抉出しようとする衝動、人間のいのちそのもの、人間をささえるいのちそのものを捉えるものとして、「人情社会主義」と名づけることにする。
だから、国家と革命が最高の書物だと思うわけです。
市場は一旦、金のあるものの勝ち、自由な競争は金持ちの独占へ転化した。(帝国主義的段階)今の資本主義も、大金持ちの顔は少しずつ入れ替わりながらも、基本的にはそういう状況が続いている。その危うさは多くの社会主義者の指摘するとおり。大金持ちの実質的な独裁が続いていると小生は考える。あるのは、首のスゲカエという名の政権交替に過ぎない。替えはいくらでもおるんやでぇ~。
さて、そういう段階を乗り越えたはずの「社会主義国家」はどうか。共産主義者を自称する官僚独裁に過ぎない。共産主義は出世の道具ですかそうですか。その下で、庶民は政治や経済の権限から疎外されているさまは、西側諸国と変わらない。
いずれにせよ、自由であれ、協働であれ、それは有名無実化し、疎外を再生産している。そのもとで、人間性は抑圧され、歪められ、そして歪められたままでしか生きていけない仕組みとなっている。
注目すべきは社会主義国家である。資本主義がダメなのは、資本主義社会に生きる我々は良く知っている。だけど、社会主義国家が更にダメなのも知っている。一応、ソ連にせよ中国にせよ、マルクス主義にしたがって建国され、建設されたことになっている。だけど、大事なことを忘れているとしか思えない。確かに、マルクス主義の中の科学という側面をこれらマルクス主義者は強調する。だけど、「人間の根元はやはり人間自身である」という、ラディカルなマルクスは?イタリアで釣りをして「ドリン、ドリン!」と命の躍動に笑いをこらえ切れなかったレーニンは? 彼らは、科学を突き抜けたものを掴もう、<いのち>の躍動を阻害するものを憎み、変えようとしたのではなかったのか? 「花は美しい、だが、花を見る眼を涙で曇らせるものは?」形式に安住してはならない。
そこで、小生が求める社会主義ってものを、科学の化粧の下にあるものを抉出しようとする衝動、人間のいのちそのもの、人間をささえるいのちそのものを捉えるものとして、「人情社会主義」と名づけることにする。
だから、国家と革命が最高の書物だと思うわけです。