TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

仕事の進め方

2005-09-30 20:15:43 | よしなしごと
大坂仰山党板で「The work of nations」を紹介したので、それに関連して。

昔、ペーペーだった頃、仕事を回すには副課長、課長の印をもらってしかるのちに相手方の課長、副課長、そして担当者というふうに資料なぞは回っていた。時間がかかるぞ。

今、メールのやり取りは担当者から担当者へ直に流され、ccで関係する上司にも送られる。余程のことがない限り、チェックしてから流すということはない。

何かあれば、フラットに議論する。そういう時代なのだ。そうしないと、競争に勝てない。

結局、組織と雖も手を動かし、作るのは下なのだ。下=プロレタリアの動きを適正に制御しつつ、その生の躍動を引き出せた企業群が勝つのである。「<帝国>」のはじめもそんなことが書いてある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書メモ:『哲学マップ』

2005-09-27 08:08:48 | 読書
『哲学マップ』(貫 成人著、ちくま新書)

 哲学はとっつきにくい。一つには「なぜそんなことを問題にするのか」と思うし、さらには「何を問題にしているのか、課題がわからない」からである。そんなものでも、来し方を知れば意味がわかろう。哲学マップという言葉からは様々な哲学の現在地を示しているように感じるが、それだけではなくこの本は様々な哲学がどのようにして出来てきたかを記している。そして、そこに著者の熱い思いが込められているので、魂に響いて心にストンと落ちる。

 まず、ギリシャにおいてソクラテスは「~とは何か?」を問い、それを承けてプラトンは物事の本質、すなわち「イデア」を措定した。その後、キリスト教の隆盛により「神」が大いに問題となる。本質やら実質やらが錯綜する難しい神学が発展する。それが続いた後、古代ギリシャ思想がヨーロッパで復活し、「~を問う自己」「~を問われる外部」、すなわち主体(主観)/客体(客観)が問題となる。確実なのは意識をもつ主体=自己である。デカルトだ。方法的懐疑で確実なものを抽出すると、自己に突き当たる。そして、外部もある。だが、これも出発点は独断だ。力のせめぎあいとして世界を描くホッブズの批判、神の実体が基礎とする汎神論によるスピノザの批判、人間の多様性からするパスカルの批判など。まあ、これらも独断なのだが。ちなみに、独断だからダメということではない。一方、それらへの批判として知覚=経験が先んじるという経験論・懐疑論がイギリスで起こる。しかし、上の独断的な知性も、経験も相互補完的に人間の認識は実は深まっていくのだ、としたカントが現れる。そのありようこそが問題である、という考えが超越論と言われる。だが、カントにあっては様々な局面での哲学はその局面において、という緩いものであったので、統一性が求められてドイツ観念論が現れる。その完成形態はヘーゲルだ。それは、絶対精神=神で閉じる。しかし、現実の運動が閉じたためしがあったろうか?
(マルクスの共産主義にはこのような問いがあると思うし、その点で師匠を乗り越えていると思うが、しかしいわゆる「共産主義」は?)とりあえず、ヘーゲルで近代哲学は頂点に達したと言えよう。

 キルケゴールとマルクスは飛ばして、と(笑)。フロイト。今まで無視されていた意識の奥底の無意識を西欧哲学で俎上に上げた。それはどうも合理論となじみがよさそうだ。で、ニーチェ。凄い。価値観は弱者のルサンチマン。地底人の下の最底人の叫び。様相は異なれど、実質は同じことの繰り返し。弥陀の光を思わせる、差異が消滅する大いなる正午。諦念の果てにあると言える力への意志。真も善も美もルサンチマンの成せる業。これまでの哲学の否定だ。こうなると、好悪の念で語るべきレベルだ(笑)。まあ、仏教はそれをry。諸行無常を受け容れること。。。やめとこう。

 現代哲学はこれら、特にフロイトとニーチェを受けて発展しているように思われる。思考の道具である言語、論理学、認識論、個人をさらに微視した身体論、ますます流動化する社会を捉え、変革を意識している構造論などなど。多岐に渉るが、この本のおかげで流れはわかる。個人的にはケミカル・エンジニアのたしなみとして、複雑系をやりたいなあ。ここまで来ると、哲学は「なぜそれを問うに至ったか」という段階になり、関係性がますます問われる。

 あ、そうそう。孔子という関係性の思想、無から諦念を説く仏教、これらは確実に西欧に影響を与えているのだが、巻末にまとめられていたのはやや残念。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書メモ:『これは私の運命 レーニンとスターリン』(ルバノフ)

2005-09-25 22:15:04 | 読書
『これは私の運命 レーニンとスターリン』(ルバノフ著、伊集院俊隆訳、新読書社)

 ロシアきってのレーニン研究者、ルバノフによるレーニンの死までの約1年を記した書物。

 内容に入る前に、以下の写真を見て欲しい。





 なんとか、上手くスキャンできたようで幸いである。この本の凄さを知ってもらう、いや、上手く小生の今の思いを記すには、スキャンして保存するしかないのである。

 小生は40年くらい生きているが、生きている人間について、これほど恐ろしい写真を見たことがない。この写真は、1923年のレーニン闘病中に妹さんが撮影したものである。まるで、石像のようである。眼が恐ろしい形相で、死相を漂わせるように睨んでいる。死者は石棺で覆われて墓地に眠るが、まるで、レーニンは生きながら、貌が石棺と化して己の生きる魂に蓋をしているかのようである。そうなのだ。レーニンは生きながらにして死んだことにされたのだ。そして、そのことについてレーニンは自覚していた。そのときに撮られたのだろう。そして、病状が改善して死んだことにした者に反撃しようとしたときに、急死したのだ。

 さて、本論を書こう。世間では、レーニンが発病してから13×7=91なる暗算さえ出来なくなったのに、一々取り巻きがお伺いを立ててレーニンの意向を聞きながら政策決定していたかのような説が流布している。特に、反レーニンの保守派において。だが、事実はそんなものではない。どちらかと言えば逆である。レーニンが発病して間もない頃、スターリンはレーニンを指導部から遠ざけ、レーニンに関する情報を一手に統制した。スパイを用いて。レーニンの意向は、スターリンによって封殺されたのである。方やレーニンは、はじめは口述筆記可能な程度であったが、だんだん病状が酷くなり、最悪のときは会話もままならなかった。一番酷いときは、「アラ・ラ、アラ・ラ」という意味不明の叫びを上げることしか出来なかった程度に。しかし、最悪の状況でも可能な限りのゼスチャーで対話を試みた。可能な限りのことを彼はしようとした。しかし、療養の名の下に、レーニンは死んだことにされた。政治に生きることでのみ生きていたレーニンには耐え難いことであった。それでも、レーニンは、政治的なことを語らない/語られない状況にあっても、手を尽くして状況を把握し、病状の回復と共に(リハビリによって凄まじい回復を示した、勿論、言語能力や計算能力は破壊されていたとしても、残った脳内の財産は他人にはない凄まじい財産だ! 計算能力がないからといって、全て脳の能力が死滅していると考えるのは、現在の大脳生理学を理解しないものの推論だ!)反撃を試みるほどに。そのとき、レーニンは不意に死んだ。毒殺説については、著者(そしてトロツキー)は否定しない。トロツキー曰く「政治が医学の上に立っていることを(医者は)理解していた。」死の原因は公式にはアテローム性動脈硬化症に起因する脳軟膜の出血である。そう、それ以上、医者はどういうことも出来なかったのだ。ちなみに、梅毒などの特殊な経過は認められなかったらしい(笑)。

 毒と言えば、レーニンがスターリンに毒を求めたという話がある。だが、スターリンはそういうことで「俺様はレーニンの死さえコントロールできるんだぞ!」という権力誇示をしたかったのではないか。

 最後に、スターリンの元秘書のB・バジャノフの回想を記しておこう。

 「スターリンから私は複雑な印象を受けた。心の中ではレーニンの死を非常に喜んでいた。レーニンは、権力の道に立ちはだかる一番大きな障害だったからである。自分のオフィスでは、秘書たちがいても彼は上機嫌で、喜びに輝いていた。集会や会議では、彼は悲劇的に悲壮な、偽善的な顔をつくり、偽りの演説を行い、熱をこめてレーニンへの忠誠を誓ったりした。彼を見つめながら、私はこう思わざるをえなかった。“おまえは何という卑劣漢なんだ!”」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

汝、神を試みるなかれ

2005-09-24 19:35:20 | よしなしごと
昨日、レーニンを尊敬している人にカマかけて「レーニンが1917年7月蜂起失敗(別にボリシェヴィキが本気でやろうとしたわけではない)のあと、フィンランドに亡命する途中に溺死してたら歴史は残酷な方向に進まなかったかも知れませんぜ」と言ってみたら、むっとされた。

心のどこかに悪魔が棲んでいるようだww。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民主書店は良いなあ

2005-09-23 23:21:35 | よしなしごと
たまには共産党関連を誉めてみる。

今、本を買おうと思うと、アマゾンとかを覗く。これはこれでいいんだが、「何となく」はやりにくい。本屋では、本が並んでいて背を見て気になったものをパラパラめくる利点があるが、普通の本屋なら売れ筋ばかりだし、大きな本屋では数がありすぎる。専門書を探すなら、それでいいが。

その点、民主書店は自分の関心のある分野の、そこそこディープな本で、良質の本が選択されて置かれている。しかも、こぶし書房とか社会批評社とかも置かれている。

素晴らしい。実に素晴らしい。清風堂さん、ありがとう!


そういえば、昔お世話になった難波の清風堂のご主人、どこでどうされているのかなあ。

あ、そうそう。100年後、日本の歴史を俯瞰したら、現在意味のある言説を吐いていた左翼は実は日本共産党だけかもね、という雑談を某氏としていました。まあ、言いすぎかも知れないが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする