『これは私の運命 レーニンとスターリン』(ルバノフ著、伊集院俊隆訳、新読書社)
ロシアきってのレーニン研究者、ルバノフによるレーニンの死までの約1年を記した書物。
内容に入る前に、以下の写真を見て欲しい。
なんとか、上手くスキャンできたようで幸いである。この本の凄さを知ってもらう、いや、上手く小生の今の思いを記すには、スキャンして保存するしかないのである。
小生は40年くらい生きているが、生きている人間について、これほど恐ろしい写真を見たことがない。この写真は、1923年のレーニン闘病中に妹さんが撮影したものである。まるで、石像のようである。眼が恐ろしい形相で、死相を漂わせるように睨んでいる。死者は石棺で覆われて墓地に眠るが、まるで、レーニンは生きながら、貌が石棺と化して己の生きる魂に蓋をしているかのようである。そうなのだ。レーニンは生きながらにして死んだことにされたのだ。そして、そのことについてレーニンは自覚していた。そのときに撮られたのだろう。そして、病状が改善して死んだことにした者に反撃しようとしたときに、急死したのだ。
さて、本論を書こう。世間では、レーニンが発病してから13×7=91なる暗算さえ出来なくなったのに、一々取り巻きがお伺いを立ててレーニンの意向を聞きながら政策決定していたかのような説が流布している。特に、反レーニンの保守派において。だが、事実はそんなものではない。どちらかと言えば逆である。レーニンが発病して間もない頃、スターリンはレーニンを指導部から遠ざけ、レーニンに関する情報を一手に統制した。スパイを用いて。レーニンの意向は、スターリンによって封殺されたのである。方やレーニンは、はじめは口述筆記可能な程度であったが、だんだん病状が酷くなり、最悪のときは会話もままならなかった。一番酷いときは、「アラ・ラ、アラ・ラ」という意味不明の叫びを上げることしか出来なかった程度に。しかし、最悪の状況でも可能な限りのゼスチャーで対話を試みた。可能な限りのことを彼はしようとした。しかし、療養の名の下に、レーニンは死んだことにされた。政治に生きることでのみ生きていたレーニンには耐え難いことであった。それでも、レーニンは、政治的なことを語らない/語られない状況にあっても、手を尽くして状況を把握し、病状の回復と共に(リハビリによって凄まじい回復を示した、勿論、言語能力や計算能力は破壊されていたとしても、残った脳内の財産は他人にはない凄まじい財産だ! 計算能力がないからといって、全て脳の能力が死滅していると考えるのは、現在の大脳生理学を理解しないものの推論だ!)反撃を試みるほどに。そのとき、レーニンは不意に死んだ。毒殺説については、著者(そしてトロツキー)は否定しない。トロツキー曰く「政治が医学の上に立っていることを(医者は)理解していた。」死の原因は公式にはアテローム性動脈硬化症に起因する脳軟膜の出血である。そう、それ以上、医者はどういうことも出来なかったのだ。ちなみに、梅毒などの特殊な経過は認められなかったらしい(笑)。
毒と言えば、レーニンがスターリンに毒を求めたという話がある。だが、スターリンはそういうことで「俺様はレーニンの死さえコントロールできるんだぞ!」という権力誇示をしたかったのではないか。
最後に、スターリンの元秘書のB・バジャノフの回想を記しておこう。
「スターリンから私は複雑な印象を受けた。心の中ではレーニンの死を非常に喜んでいた。レーニンは、権力の道に立ちはだかる一番大きな障害だったからである。自分のオフィスでは、秘書たちがいても彼は上機嫌で、喜びに輝いていた。集会や会議では、彼は悲劇的に悲壮な、偽善的な顔をつくり、偽りの演説を行い、熱をこめてレーニンへの忠誠を誓ったりした。彼を見つめながら、私はこう思わざるをえなかった。“おまえは何という卑劣漢なんだ!”」