TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

馬鹿どもに免許を与えるな!

2006-08-29 08:31:00 | クルマ
掲題、海原雄山センセの名言。しかし、それに先行すること約2年、我が兄者は同じことを言っていた。兄者は当時バイク乗りで、小生も後ろに乗っけてもらうことが多かった。で、眼につくのは乗用車と軽トラのDQNぶり。

今流で言うと、DQNに免許を与えないため兄者は「共通一次(古!)試験をリンクさせて、900点(東大レベル)取れないと車の免許は取れないようにしたらええねん」と言う。俺も取れないよ・・・。俺は反射神経が要求されるので、「ゼビウス・カンスト」とか訳の分からないことを言った記憶がある。

まあ、そんなことは無理なので、次善策を考える。

フール・プルーフという言葉がある。「脳みそが働かなくても、安全は確保される」というメカニックに係る発想。

で、乗用車には通常、リミッターが働いて30km/hしか出ないようにして、制限速度が50とか60km/hとかの高い所では、リミッター解除電波を飛ばして、その制限速度までは出る、という方式。走る楽しみはその枠内で・・・・。

物凄い設備費と利権が発生しそうだが、交通事故ゼロを本気で目指すなら、このくらいのことをしなくてはなるまい。
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読書メモ:『自衛隊 そのトランスフォーメーション』その2

2006-08-26 21:40:10 | 読書
 第五章では、第四章を受け、日米同盟の世界展開について述べている。一言で言うと、“「日本は、自らの防衛に主導的な役割を果たしつつ、米軍が提供する能力に対して追加的かつ補完的な能力を提供する」”だ。周辺事態法で議論されたように、物理的場所はブラジルのような地球の裏側など、世界中どこでも求められる。集団的自衛権を実質容認しているようなものであり、先ごろは敵のミサイル基地を攻撃せよ、とファナティックに叫ばれた。実は、制服組さえもが〇五年段階で公言しているのだが。憲法は消し飛んでいると思う。『憲法を守ろう』なんて暢気に言っている場合ではない、『憲法を取り返せ』なのだ。

 第六章ではテロ訓練、軍法会議(憲法第七六条で禁止されている!)の準備、靖国への自衛隊合祀に向けた動き、占領政策(大失敗したアメリカに学ぶんだって!)など、本格的な戦争に向けた備えを自衛隊と政府が進めていることが暴露される。これは、暴露と言っていいだろう。この章だけでも読む価値はある。(本音を言えば、オリジナリティーの観点からすれば、読む価値があるのは第一章とこの章だけだ。軍事一般の観点なら、小川和久氏の書物のほうが上だ。)これらの動きは、アメリカの世界戦略と、中国などの脅威を煽るデマでなされていることには警戒したほうがいいだろう。

 第七章では憲法9条の軍事論的意義を問う。その前に、自民党の改憲案の持つ根本的欠陥について述べられる。憲法は、国民が国家に命ずるものなのに、なぜか「義務」とかの文言だらけだ。小生は「本当は改憲派」だけど、こいつらにだけは改憲させたくない。それはともかく。最近の護憲論について、著者は岩波文化人らによる「平和基本法」運動に危惧を表明する。この運動は、最小限防衛力の必要性を認め、テロへの脅威を認めている点で後退していると著者は批判する。第一点は、自衛権の放棄という解釈から、第二点は情勢認識の誤りとして。悪いけど、小生としては同意できない。第一点で同意できない理由は、憲法前文の可能性(「平和を愛する諸国民の構成と信義に信頼して」)が貫徹されている現実がない、という、「本当は改憲派」としての、著者との立場の差から。小生の場合、このターゲットはアメリカである。この条文が本当に可能ならしめるのは、日米安保を破棄した上で、アメリカとそういう関係が結べるときだ。第二のテロの脅威については、第三章に書いたとおり。小生は断固として「平和基本法」のほうが、フェティッシュな非武装的憲法9条擁護論よりマシであると主張する。この位相では、各種世論調査より間違いなく大衆は、改憲にシフトしているのだ。非武装的憲法9条擁護論では大衆と切り結ぶことは今や不可能だ。まさに、“著者の良心的意図は、この際、関係ないのである。”(p188)いつも思うのだが、ヒトラー的侵略者が現われたら、どうするのだろう。チェンバレンはどうなった? 話し合いでナチスは壊滅したのだろうか? ソビエトを中心とした軍事力が破壊したのではないだろうか? ソ連では、軍事的備えのなさが歴史的に批判されてきた。

 それでもやはり、(恐らくは)著者とは違った場所から、憲法9条の意義を今は見出したい。小生は、こういう問題を考える場合、一番心を惹かれるのは『恒久平和のために』(カント)だからだ。この本が明らかにしたことの一つは、恒久平和は国家が死滅しなければあり得ない、ということだ。マルクス主義は国家を階級分裂の産物とするが、小生は階級以上に、「そのままある」分裂として国家を捉える。その分かり易すぎる分裂に人類は捉えられていて、対立させられているのだ。それを乗り越える手がかりを、憲法9条は与えてくれないだろうか?

 勿論、憲法9条は、国家の自己否定の文言である。日本が日本たらざるを得ない今、この憲法は欺瞞であると思う。だから、「本当は改憲派」と自己規定する。しかし、何度も書いたが、今、改憲することは日本を完全にアメリカのャ`とするだろう。この危険のほうが、嫌だ。だから現実的政治的な力学を考えると、今は護憲派に組する。(この問題ではネット世界では労働通信の「しまだ」さんくらいしか同志はいない。)小生はその程度の消極的護憲派である。

 そして、憲法の言う平和主義ってのも、9条によって消極的平和主義に限定されていると思う。ドンパチやってる所に、「話し合い(だけ)で解決しましょう」と言っても、歴史を見ればナンセンスなのだ。その意味では、9条は平和のための足枷・手枷と作用し、平和に対して消極的係りしか出来なくしている。

 真面目に考えれば、9条ってのは何て酷い、いい加減な文言かと思う。それでもなお、可能性を言うのは何故か? 国家の存在理由が変容していくと思うからだ。かつては国家は絶対的であった。しかし、『帝国主義』が触れていたように、絶対的と思えた時代でさえも、資本や人間の一部は易々と国家を超えた運動をしていた。労働者の連帯は、スターリニズムの悪影響で分断されたとはいえ、かなりの程度進んでいった。国家はますます、「県」あるいは「州」化していくであろう。勿論、その過程でスターリン主義国家群など、日本国あるいは日本人とは余りにも違った価値観・行動様式を持つところと様々な摩擦があるだろう。それでもなお、EUのような動きは世界を覆うだろう。著者の言うように、少なくとも先進国同士、恐らくは国家間の正面戦争は余り得策ではないのだ。イラク戦争を見よ。アメリカは疲弊し切っているではないか。

 勿論、かつてのヒトラーのような奴が現われないとは限らないので、最低限の自衛権を認める立場に小生は立つ。吉田茂よりは後退だ(笑)。その意味では解釈改憲派に属するかも知れない。しかし、9条がある限りは、自衛を超えた分野の軍備を防ぐことは可能であると思うし、かつてそのようにしていた実績もあるので、運用法のスキルの問題に切り縮めることは可能だろう。

 その上で、そのように振舞う限り、対話可能な相手ならば、9条を保有する日本のありようから、日本=軍国主義などの妄言を言わせられないであろう。また、(軍事的に;これは政治上、外交上重要だ!)一歩引いてネゴをすれば、周囲のあることならば特に、優位に立てることもある。外交において、9条が武器になるのだ。勿論、それなりの能力とタフネスさがあれば、の話だが。そのようなすり合わせを行う中で、国家の死滅の道(例えば、アジア版EU;AUか?)がみえてくるであろう。そのとき、9条はヘゲモニーのための武器たりえるのだ。

 9条を守れを綺麗事にしたような議論や日本帝国主義の罪業と結びつける議論は好きじゃない。そうじゃない。もっとエゲツなくて汚い世界にも通用する武器として、9条は可能性を持っていると思うのだ。
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読書メモ:『自衛隊 そのトランスフォーメーション』その1

2006-08-26 18:24:43 | 読書
『自衛隊 そのトランスフォーメーション』(小西誠著、社会批評社)

 自衛隊の最近の任務の変更を、左翼の立場から批判した本。かつては冷戦構造の中で、米軍の補完部隊として対ソ連の任務を担っていた自衛隊。冷戦崩壊後、対中国と対テロの任務を、米軍の補完部隊として担うことが目指される自衛隊。そういう流れを本書は示している。

 第一章では、そのような任務変更に伴うストレスが、自衛隊という職場を覆うさまが示される。自衛隊員が隊を辞めることは上司の評価の低下に繋がるらしく、可能な限りインケツな手段で、辞めさせてもらえない異常。自閉するメンヘル対策。各種専横の横行。これはもう、一般企業でもあり得る(企業でなくても日本共産党なんか)ことで、このような腐敗への対策としては外部に組織を開くこと、著者はその具体策として「軍事オンブズマン制度」を挙げる。

 第二章では、陸自は九七年の新ガイドラインなどを受け、日米共同作戦の一環として対ゲリラ・コマンドウ作戦へと軸足を移していることが明らかにされる。市街戦の訓練もはじまっているが、これは隊員に今までにないストレスを与えているとのこと。至近距離で射撃すれば、敵の血しぶきが吹き上がり、脳や内臓が飛び散ることを想像すること。小栗さんの比ではない。

 第三章では、そのような訓練を受けた自衛隊が、治安出動にも使われる可能性を示す。「治安出動の際における治安の維持に関する協定」(「新協定」)では、相手の武装状況では、警察をすっ飛ばして自衛隊がいきなり出動できると示される。特に、米軍関係施設の警備については、かなりの武装自衛が要求される。しかし、それはアメリカの要求に基づくだけでなく、陸自の悲願でもある。“「治安出動下令前の情報収集」も、米軍への「警護出動」も、「平時」の陸自の新任務「領域警備」として作られたのだ。”(p80)そして、治安名目による国民を自衛隊が支配・管理する態勢作りに動き出したとする。

 しかし、本当はどの程度、テロは脅威なのだろうか? 著者は公安などが様々なレベルで入り込んでいる実情を示し、不可能と説く。しかし、我々はオウム~サリン事件を知っている・・・。化学工場を知っているケミカル・エンジニアが一人いたら、千人単位を殺すテロは可能であったとだけ書いておこう。それはともかく。著者はテロ脅威は虚構だとし、政府はそれを煽っているとする。小生は著者の視点に必ずしも賛成しないが、法律などの武器の使い方が乱暴としか思えない安倍某が首相になろうとしている今、趣獅ノは賛成する。ただ、完全に武装解除された庶民としては、暴力装置を国家にゆだねるしかない、とだけ書いておこう。口先だけの暴力反対で暴力が止まるわけではないことは、庶民が一番知っている。

 第四章では、対中国戦略への転換について書かれる。北朝鮮の脅威は「分かり易い」口実で、主眼は中国である、と。その宣伝には、朝日をはじめとするメディアが使われている。そして、中国を取り囲むような展開のため、海外派兵がその流れで中心となると指摘される。それはそのままいけば、限りない軍拡への道であり、自衛隊の本質上、米軍との融合に行き着きざるを得まい。では、中国の軍事的脅威は? これも良く知られた話であるが、日米同盟の前には弱いものである。軍事とは、政治の延長であり、政治であるからには宣伝とデマが伴うということだろう。
(続く)
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何や知らんけど わーい わーい

2006-08-19 22:00:01 | 野球
掲題の言葉、先日、ロッテを応援していたおっちゃんの言葉。

で、
http://red.ap.teacup.com/tamo2/270.html
とブチあげたので、今日、めでたく諭吉どんをカンパ。

そのお返しか? 日航松山のホテルチケットが当たる。試合中にもかかわらず、マウンド付近まで連れていかれ、コメントを求められる。

いきなりのことなので、「おまいら、ピッチングマシンにカンパしる」といいそびれる。次のプレーの備えが出来ていない。自己批判します。

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・最後の浦川、なんで「スカウト注目」とか言われないのかな。リーグで一番センスを感じるピッチャーなのに。

・八木(OG)といい、吉田(MP)といい、外野守備は上手くなったなあ。去年リーグが始まったときは、ああいう守備は見られなかった。

・森田はライトに飛んでも浮「なあ。力まないほうが浮「よ。

・堂上の送球に、三輪が追いつけなさそうな奴があった。凄いわ。
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【今日のワンプレー】
 八回表二死、3≠Rの同点、打者は本塁打のある3番堂上、投手は今日、スライダーと速球のアウトコースへのコントロールが抜群の宇都宮。

 外スライダー、外真っ直ぐ、外スライダーで2ストライク1ボール、ここで一球内角だろ、と読んでいたら、案の定内角に捕手は構える。これは、ボールにして、次の外角スライダーで勝負だろ、と考えていて、浮「のはストライクに投げちゃうこと(堂上は開き気味という悪い癖がある)。

 で、やや甘めのストライクに投げて、真っ芯で捉えられ、、、、開いた分バットの先で捉え、ラインドライブがかかって二塁打。

 色々味わい深かったが、そういう味わいが出るレベルには達している。
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読書メモ:『帝国主義』

2006-08-18 18:13:52 | 読書
『帝国主義』(アンドリュー・メ[ター著、福井憲彦訳、岩波書店)

 これから帝国主義について研究したり、学んだりするイギリスの初学者向けに書かれた本とのこと。だから、問題を包括的に取り組もうとしているし、リベラルな立場から書かれているにしても抑制が効いていて、イギリス人のよさが滲み出ている。

 著者の取り上げる帝国主義は、時代区分としては1860年~1914年の、資本主義的帝国主義の膨張期に焦点を当てる。この時期は、資本主義のシステムが世界を覆い出し、植民地支配が末期を迎えた時期だ。また、日本帝国主義のような非ヨーロッパの帝国主義国家が出現した時期でもある。

 第一章で帝国主義に関する様々な定義や理論が俎上に上げられる。象徴的にはレーニン。有名な帝国主義論による定義と理論。それについて、著者は“基本的には仮説であり、しかし仮説でありながらも、一般理論を提供するものとして主張された”が、正しくもレーニンの本当の意図である“第一次世界大戦の国際情勢と資本主義の未来について、説明しようとしていたのであった”と見抜き、理論は後景であるとしているようだ。同意する。

 次に、ホブソンとシュンペーター。どちらも帝国主義を恵みある進歩的なものと捉えている。悪しきものは個別利害の貫徹にある、と。他にも様々な理論が。“国際的な取引において国家が帝国主義的政策を採用せざるをえないということ、経済的正当化を体系的に与えようとする理論”。しかし、キース・ハンコックは言う。“帝国主義などは「学者の言葉ではない」”。

 確かに、“「理論」という言葉に与えられるさまざまな意味にたいして、歴史家は段々に敏感になってきている”。歴史家だけではないと思う。一般大衆はもっと広く「科学」という言葉に敏感だ。理論や科学で欺瞞されてきた歴史があるからだ。それはともかく。

 定義や理論に関しては今やばらばらであり、多くの可能性が残され、探求がされている。この本の後の章でも通用する定義は、次の広い定義くらいか。「いかなる手段にせよ、またいかなる目的にせよ、ある社会ないし国家が他を統制しようとする傾向」。本書が課題とするこの時代には相応しいと思う。この定義に従うなら、帝国主義とは国家的ヘゲモニーの争奪戦のことだ。


 第二章では、政治的側面から帝国主義が説明される。「神は自らの姿に似せて人を作った」「資本は自らの姿に似せて社会をつくった」ならば、「各帝国主義は自らの好ましい姿に似せて世界を作ろうとした」ということか。自分たちのありようが一番良いと思った各国のエスタブリッシュメント、国民が自らのありようを世界に押し付けるため、帝国主義を支持した。彼らは全くの善意である。キリスト教は自分たちを広めることに使命を見出す。どうしようもない「自分たち(あるいは西欧)=善、進歩」という図式。日本もこの図式に嵌るのだから、彼らと同罪だ。布教精神と殉教精神は同じ心根のコインの表裏。人道主義者、人間主義者(例えばマルクス)とて同じ心根を共有していた。これらの心根は排外主義と結びつき易く、それは1914年に爆発するであろう。そして、これらの心根を推進した文化人類学はレヴィ=ストロースの登場まで、真摯な自己批判はなされないであろう。


 第三章では、社会的・経済的側面から帝国主義が説明される。歴史的には大きく二つの説明手法の流儀がある。一つはマルクス主義に代表される“動機や意図についての同時代の声明からは表層的な意味が読み取れるにすぎないとして、たとえば政府によって採択された政策は、本質的に不可避のものであった”と見なす決定論的な説明。もう一つは、“もっとゆるやかな見解に立って、政治的、イデオロギー的、社会的、経済的な諸構造は、政府や政策決定者や民衆にたいして、一連の変動的な拘束力を発揮していた”として、必ずしも決定論を採らず、オルタナティブの可能性を残す説明。しかしその選択は、かなり狭く、安定しない範囲とする。この流儀を踏まえ、言葉の説明に入る。

 まず俎上に上げられるのは「社会帝国主義」である。それは、中国がソ連を批判したものではない(笑)。ハンス・ウルリヒ・ヴェーラーがビスマルクの政策などについて議論する中で、最初に展開された概念である。ビスマルクは自由貿易で繁栄などを狙ったが、経済不況などで行き詰まり、保護主義的政策と植民地利用に踏み切る。プロイセンのエリートはイギリスへの排外主義と民衆の熱狂を利用し、保守の政治支配と領土支配による大陸の支配、世界の支配を目論む。

 それは良く言われるように“国内の世論を操作して大衆の支持を動員”し、“社会主義者(ら)の不満や別の変化への圧力を、いずれも国外へとそらせるために、設計されたものであった”。

 ただし、良く知られるように、帝国維持はコストがかかる。日帝は朝鮮に現在の金で八兆円投資した。それはともかく。ビスマルクはそれに気づいていたから、そういう意図はなかったのではないかという批判。もっと日和見主義的な、成り行き任せだったのではないかと。また、ドイツはもっと内部的にはややこしく矛盾した社会の多様性があるので、単純化してはいけないという批判。

 しかし、上のような考えは、各国についても当てはめて考えられた。だが、どうも結論としては、政治はもっと内向きに眼が向いていたようで、この概念ではうまく説明できないことが多いようだ。

 次に「経済帝国主義」について説明される。この説明でなされる帝国の特徴は三つある。“第一に、人口増加と、工業生産とサービス業での雇用の増大と、農業の相対的な後退という時代にあって、植民地は食糧や原料の受容を満たす、第二に、植民地などとの交易は市場をあたえてくれる、第三にインフラ需要は、投資の機会を与えてくれる”。

 だが、公的な植民地に関する研究や統計は、これらの仮説を弱いものにする。余りにも小さいものと。企業は、国家を気にせず投資した。現在の多国籍企業の萌芽である。企業同士が連携して、帝国本国に反対することもあった。

 なかなかに「帝国主義を論じること」は難しい。


 第四章では、「周辺」からの説明。基本的に周辺から見たら、キリスト教とか世界貿易とかは「大きなお世話」なのだが、しかし、圧涛Iな力を前にすると人間はそれに屈するか、あるいは利用しようとする。ただ、帝国の欲するままに受け入れられるものではない。カスタマイズされていったのだ。入植者たちもカスタマイズされ、独自の利益を追求した。その個別のカスタマイズのありようの研究が、現在の主力のようだ。

 第五章では、その他の最近のアプローチについて。ウォーラーステインらの世界システム論を踏まえ、中核~周辺という解析。だが、インドやアフリカにも「中核」はあり得た。本書には書いていないが、江戸日本にもその萌芽はあった(事実、日本帝国主義は存在した)。また、遅れた資本主義国であるイタリア、スペインなどはヨリ帝国主義を利用しようとした。彼らは中核か?

 イギリスに焦点をあわせた研究も力がある。だけど、敷衍できそうにないらしい。それから、帝国建設・維持はなかなかペイしないようだ。「アジア解放の戦争であり、正義だった」という同じ口で、「朝鮮併合は朝鮮の近代化に貢献し、正義であった」という連中はやっぱり頭悪いや。ダブスタの正義。利益から帝国主義を説明することは、実は困難だ。

 次に、“帝国が深く根を張り維持される方式”についての研究。人類学などの科学が支配に利用された様子。次に、サイードに代表される研究。文化的特徴に重要性を見出す。オリエンタリズムという概念の抑圧性。優越心と支配心をもって生まれた概念。ディスクール? よく聞くが、俺は知らん。


 第六章は、膨張と帝国について。今までのまとめか。経済的動機だけで説明できるわけではなく、むしろイデオロギーに属するものによる運動かと。まさに、地獄への道は善意で敷き詰められている。ワシらとワシらのやり方が一番、それを世界に推し進めて何が悪い?と。最後に一発引用。(P126L5~)

“本国の自己中心的な心性が帝国建設の過程にいかに形をあたえたかについての、より完全な知識と理解、また、帝国と帝国的活動への訴えが、さまざまな種類の利害にたいして正統性をあたえることになり、重要な、あるいは説得力のある美辞麗句の仕鰍ッとして現われた、その方式についての、より完全な知識と理解とが、少なくとも必要とされている。”


 下部構造→上部構造では世界を説明できないことがハッキリした今、帝国を巡る課題も深く、広いようである。
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