TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

アホこそが時代を突破する

2005-07-30 22:01:13 | 幻論
今、「銭」(鈴木みそ)の第三巻を読んでいる。起業家というのは、アホだから成功するという貧乏神様。アホに冷たい日本社会。日本の閉塞感はこの辺にもあるのだろう。

さて、アホと言えば、もう負けると分かっているのに己の信じる大義に殉じた日本人ってのがいる。例えば、天誅組。現在、それに近いのが、三里塚の闘士たちではなかろうか、と思う。闘争とは継続性のことであると信じて疑わない小生としては、占拠闘争ってのは、どうやねん?という思いがあるが、この闘いが日本社会で切り開いた地平ってのは、広大なものがある。

この闘いの落とし前を、闘士だけにつけさせることは、日本の未来のために避けなければならない。

粘着的な、継続的なカンパを。
http://jioos.podzone.net/index.php?itemid=24
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チョコレートは安いよなあ

2005-07-29 19:11:36 | よしなしごと
職場での雑談。ガキの頃、チョコレートと言えば頼子ねえちゃんが持ってくるもので、ご馳走でした。

当時、38g(推定)で50円(昭和40年代前半)。

今、72gとかで100円。ロッテのガーナチョコとか。

砂糖がゴミ価格と言われるのは有名だけど、カカオという商品作物も価格が暴落したのかな。良く知らん。マルクス主義で定義される「労働の搾取」よりも、農業の交換の搾取のほうがはるかにリアルに感じる。

それから、ジュースって、やっぱり200cc位で売るほうがいいと思う。今、350ccとか500ccが主流だけど、量多すぎ。昔は200ccか250cc位だったもんなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お遊戯?はぁ?

2005-07-28 00:28:15 | よしなしごと
幼稚園ではロクな記憶がない。いきなり、同年代同士集められ、集団でお遊戯なんて恥ずかしいこと(すでに恥ずかしいと認識していたが、何か?)を強制される恐普B一生懸命走っても、人の半分の速度しか出ないので、「真面目に走れ」と罵られる恐普B

「疎外」って奴を最初に感じたのはここだったな。あかん、書いているだけで何かムカついてきた。こんな面白くないことを思い出したのは、多分蒸し暑くて眠れないせいだろう。

小学校に上がって、脚力とは違い脳みその計算能力が人の3倍程度あることを認められて褒められたときは、解放感を感じたよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食塩

2005-07-27 20:39:30 | よしなしごと
某金属会社からやってきた同僚に聞くと、溶鉱炉の労働者は岩塩を齧り、水をすすりながら仕事をしているそうな。

その岩塩は、ミネラル増強したものらしい。

しかし、アホの厚生省はかつて、イオン交換膜法以外の食塩を認めなかった記憶がある。

そうすると、規制緩和以前は、あの有毒な99.99%NaClを齧らせていたの
だろうか? そうだとすれば、恐ろしすぎる。

規制緩和も良い面はある。まあ、必要なのは時代に合わせた規制組み換えであることは言うまでもない。


あ、そうそう。大学の寮の後輩によると、上級国家公務員の残業ってのは、言質を取らせないための文言作りのためであり、その言質を取ろうとするのは業界団体、プロ市民団体だそうですw
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民主主義は可能か?

2005-07-23 22:36:04 | 幻論
ジジェクの本をぱらぱら目通しすると、彼が小生に突きつける第一の刃は、「民主主義は可能か?」ということ。

例えば、今、三里塚闘争で管制塔占拠を成し遂げたコマンドーたちが、刑期を勤め、堅気として暮らしているにもかかわらず、その生活を破壊するような攻撃が国家権力によってなされている。円卓会議などで言葉の上では農民には謝罪しながら、その農民を支えた人たちにこういうことをするとは、日本は本質的に民主主義ではないと、小生は感じる。

かようなことは、ブルジョア民主主義の限界であり、プロレタリア民主主義なら ないかなあ、と考えていたが、しかしコトはそう簡単なものではないようだ。

民主主義とは少数意見の尊重こそ本質なのであるが、しかし、少数の意見が少数の賛意しか得られない限りは、実質的には尊重されない。そして、少数意見を保障するシステム(=形式)こそが肝心だが、多数派が本気でそれをなすには、強力なイデオロギー(信念)こそが問題となろう。

しかし、いかなる主体であろうとも、多数派=権力者となれば、そういう態度を保持できるであろうか? ボリシェヴィキの歴史を想起せよ!

したらば、イデオロギーを強制する仕鰍ッが必要である。だが、我々はそれを樹立することはおろか、構想することさえ成功していないのではないか? ならば、我々は民主主義を可能にしているとは言えないのではないか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする