TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

2020年5月の行動

2020-05-28 23:58:00 | よしなしごと
コロナ騒動で私生活では散歩くらいがストレス発散。これは余りにもアレなので、No集近閉なドライブをしていこうかと思っている。仕事は、中旬は実験から離れることになる。課題山積ではある。

2020年5月1日(金曜日)

生まれてはじめてメーデーの日に仕事。実験は、かなり条件を絞り込んだがいつもと同じような終了の仕方。個人的には手詰まり感。休み中に自分なりの案を練ろう。数値流体解析は、個人的には史上最大の要素数の輻射伝熱計算。これ、一週間で計算終わるのか?18:00退社、しかし疲れ果てているので少しだけ散歩。


2020年5月2日(土曜日)

No集近閉ドライブ。阪神高速で池田に出て、そこから下道@絶景を通過して、再び高速道路に乗って天橋立へ。途中、PAかSAで昼食を食べようと思ったが、ないやん。天橋立まで、2時間50分くらいか。でも観光地には行かず、北上。豊岡まで出来るだけ海の風景を見ながらドライブ。奇観、絶景のオンパレード。両側ほぼ一車線なところもあるが、四国ほどえげつなくはなく、ドライブ出来るw また来たい。で。店はほぼ全部閉店。奇跡的に開いていた店も、お客さんはワシら夫婦しかいない。海鮮丼をいただく。地場の魚で身が締まっていて美味しかった。離湖のほとり。このコースはまた来るだろう。豊橋を経て養父から高速道路の無料区間、そして播但自動車道へ。途中のSAもお客さんが殆どいない。都心をうろつくより絶対安全だよな。山陽道から帰宅するつもりが、間違って中国自動車道に入ってしまう。ぼけとる。宝塚北に行くつもりが、頭が混乱して箕面の山奥道に入ってしまう。宝塚北SAで晩ご飯。店、殆どやってない、が、フードコートで久々の神座。ガラガラやん。野菜たっぷりの優しい味のラーメンに癒やしを感じる。無事帰宅。燃費、アホほど良かった。


2020年5月3日(日曜日)

午前中散髪。顔のひげそりはなし。なお、散髪屋さんは「休業命令が出たら当然休むけど、一店だけ休んだら、「あそこ、コロナ出たん?」という風評被害が出る(実際出ているらしい)ということで休めない」とのこと。本当は休みたいらしい。あと、そうは言っても客がいないので、テレビをずっと見ているらしい。国会中継を見ていると「立憲民主党の国会議員はアホばっかりや」とナイスなコメント。国は責任を負いたくない、それは役所と一緒で議員も役人化しているよね、という雑談。大東亜戦争に至る「無責任体系」は改まっていないと、丸山眞男なお話を。帰宅後、昼食はプチドライブを兼ねて松原のコメダへ。ああ、ほぼ満席だ。その後、枚岡あたりまで北上して帰宅。そして御崎まで散歩、喫茶店で文庫本を読み、帰宅。


2020年5月4日(月曜日)

おこもりドライブ第二弾。福井まで。いつもなら京都を抜けるのに大変な目に遭うが、すーいすい。米原まで二時間要していなかったのでは? 敦賀を抜けると絶景。天気も快晴。鯖江から海方面。その前に誰もいないSAでソースカツ丼。海の直前で折り返し、舞鶴、福知山を経て大阪へ。途中のPAも殆ど誰もいなかった。


2020年5月5日(火曜日)

桜珈琲に行くが、休業。そこで伏尾の蔵人で昼食。その後、イオンで買い物、散歩、家でお好み焼きの夕食。そして散歩。ほぼいつもの土曜日と変わらない。いつまで続くのだろう。徐々に自粛緩和?になるのだろうけど。


2020年5月6日(水曜日)

昼食は松原のコメダ珈琲。ここ、本と新聞が結構あって良い。帰宅後、読書メモ。散歩は御崎まで。


2020年5月7日(木曜日)

実験結果と観察。とても良いサンプルが得られたようだが(分析待ち)、装置は傷んだなあ。帰宅前に100歩ジョギング。毎日100歩ずつ増やすのだ。走ることで胸の痛みが何故かマシになる。


2020年5月8日(金曜日)

数値流体解析結果まとめ。流石にPolyhedraで400万メッシュの結果を表現するのは大変だ。なんとかなった。帰宅後、散歩は遠目に。そのままチンチン電車で阿倍野、そして花園まで歩く。前の時より人も多く、開いている店も多かった。でもやっぱり閑散としている。


2020年5月9日(土曜日)

散歩&通院。近所の病院では原因不明とされた胸痛が続くので、紹介状を書いて貰う。昼食は松原のコメダ。その後、ドライブで兵庫県。当然車からほぼ出ない。帰り、三木SAへ。先週よりは車も人も多いかな。世界一暇なラーメン屋を頂く。やっぱり獅「が、麺の茹で方がなあ。これは仕方ないか。SAだもんな。帰ってきてから散歩。


2020年5月10日(日曜日)

午前中御崎まで散歩。その後、藤井寺のコナズ珈琲。昼食にぴったり。堺の伏尾までドライブ、蔵人で茶。帰宅後、住吉大社まで散歩。夜は「麒麟がくる」で齊藤道三(もっくん)の死を見る。ははあ、光秀が越前に逃げた説に乗っているなあ。


2020年5月11日(月曜日)

ほぼ数値流体解析。dat.gzファイルが8GBって、どんだけ〜。(過去最高) 色々悩みながら計算しているので、設定をチョコチョコ変えているが、待ち時間が長い。合間?に「レオロジーの世界」(尾崎邦宏著)を読む。19:00帰宅。500歩ジョギング。夜は散歩。住吉大社。帰宅が遅くなった。


2020年5月12日(火曜日)

数値解析と粘弾性連続体のお勉強。18:30退社。600歩ジョギング。夜は張り切って散歩に出たが、イマイチ体がだるいので、漫画喫茶で「静かなるドン」を読む。


2020年5月13日(水曜日)

数値解析、重いw 気分転換で16:30退社、河内松原のコメダで読書。「大阪」という本。帰宅後、少し散歩。色々疲れている。


2020年5月14日(木曜日)

非ニュートン性流体という、とても重い解析がなんとか終了したので、報告書作成開始。色々グラフなども添付するので、次の日までかかるよなあ。18:00退社。時間があるので、結構散歩。気づいたら住吉大社の東側まで行っていた。


2020年5月15日(金曜日)

報告書二つ作る。とても重い計算を仕鰍ッて帰宅。18:30退社。ちょっとだけロイホでお茶して帰宅。ちょっと風邪気味なので散歩せず寝る。


2020年5月16日(土曜日)

警察病院へ。昔と違い、土曜日は休診なのね。救急診断?となり、レントゲンなど。胸痛の原因は分からない。後日改めて問診とのこと。昼食は病院近くのラーメン屋。上町筋と勝山通りの交差点の南東側の店に適当に入ったが、とても美味しかった。「JUNK STORY」という名前だが、正統な醤油ラーメン。その後、天王寺方面を散歩するが、開いている店は少ない。ハルカスは閉まっている。昔なじみの喫茶店は、座席の半分程度しか使わず、「満員(半分の入り)」ということで、向かいのコメダへ。ここも似たようなものだが、少し待って入店。その後難波、梅田の様子を見るが似たようなもん。人の通行量もかなり少ないまま。大阪府は段階的解除の初日だけど。まあ、浮「わな。


2020年5月17日(日曜日)

朝、御崎まで散歩、その後栂・美木多の桜珈琲で昼食、帰宅後昼寝、夕方は久しぶりの回転寿司。回ってない。注文制。あ、加藤政洋氏の「大阪」読了。夕日が綺麗なので、食後に散歩。夜空の「きぼう」は曇天で見えず。残念。


2020年5月18日(月曜日)

実験。色々工夫してきた結果を踏まえて、条件を固めたいところ。なかなか思ったようにいかない。18:00退社。雨と体調不良があり、家でゴロゴロ。


2020年5月19日(火曜日)

実験後観察。何バッチも重ねると、だんだん見慣れた風景。流体解析は重いものを監視。散歩は御崎まで。夜10時閉店の気になるアイス屋へ。美味。を、市バスの15系統と4系統が連チャンで走っている。


2020年5月20日(水曜日)

実験。うーん、上手くいかなかった。解析は重いのを継続して。17:30退社も、体が重いので、余り散歩せず。


2020年5月21日(木曜日)

久々に警察病院へ。胸痛。体がアホほど冷えた後遺症らしい。筋肉痛の一種。体が動かしたら痛みがなくなるのは、筋肉がほぐれるためとのこと。昼食は先日見つけたラーメン屋へ。塩ラーメンは醤油ほどではないのを確認。でも美味しかった。14:20に出社。早く帰るはずが、色々と仕事があって気づけば20:00。1000歩ジョギングして帰宅。夜は余り散歩せず。


2020年5月22日(金曜日)

実験。今回は上手くトレース出来たかな。解析は、重いのを継続。うーん、PolyFlowの自習の時間が取れない。本年度のチーム目標設定もせんとな。17:30退社。でも体が重いので、やっぱり余り散歩せず。


2020年5月23日(土曜日)

自粛解除で、久々に阿倍野の近鉄百貨店へ。まあ、地下鉄もデパートも空いているね。買いたかった本などを買い、帝塚山フロマージュでビスタチオのケーキを。チンチン電車で安立町から徒歩で帰宅。結構歩いたかな。


2020年5月24日(日曜日)

京都の様子を見に行く。まずは京都のキディランドへ。コウペンちゃんの人形、抹茶なものだなあ、とキラキラ目を入手。河原町の人通りはとても少ない。烏丸までの地下道にはほぼ人がいない。烏丸地下の星乃珈琲で紅茶を飲んでから、京都駅へ。グランヴィアに人がいない。とにかく人が少ない。ところどころ廃墟感。それでも変わらぬ風景の東山三十六峰の美しさに感動してから、京阪電車で大阪へ。夜は久々に堺の祥福の湯へ。ここもまた空いている。


2020年5月25日(月曜日)

実験後観察、解析。見れば見るほど次回どうする?で悩ましい。解析は重い。粘弾性連続体の勉強。17:30帰宅。1200歩ジョギング、夜は散歩。マクドが開いていて嬉しかったので入る。体も重く、ちょっと風邪気味。コロナな世界なので、無理は禁物。


2020年5月26日(火曜日)

実験。止めるかどうか、迷っていたところで強制終了。難しいものだなあ。解析は、二次元でDOM付き。意外と収束に時間がかかるね。18:00退社。雨なのでジョギングも散歩もなく、だらだら。


2020年5月27日(水曜日)

実験確認。良い結果で何より。18:00退社、松原のコメダで読書、帰宅直前に1200歩ジョギング、夜の散歩は住吉大社まで。色々と充実。二次元でDOM(輻射計算)は、希望の見える結果になりそう。


2020年5月28日(木曜日)

実験。前回のトレースになっていると思う。非ニュートン性流れの解析結果まとめ、結論は予想通り。もっとオモロイ解析をせんとなあ。18:00退社、ジョギングは1300歩、散歩は住吉大社まで。まずまず充実。


2020年5月29日(金曜日)

実験後観察。トレースには少し足らなかったかな。数値流体解析は、一覧を作って比較したらまずまず面白いことが分かった。18:00退社、体調を考えてジョギングはせず、夜に出かける。住之江公園前駅そばの「紳助バール」がこの日から開店と聞いて行くが、ちょっと「密」なので、前から気になっていた昭和歌謡なお店に。焼き鳥が美味しい。


2020年5月30日(土曜日)

通院。体調は上向きであることを報告。その後なんばから本町をぶらぶら。人通りは昭和末期よりちょっと少ないかな。大丸のアラン・デュカスの喫茶部が戻っていなかったのが残念。昔なじみの喫茶店も潰れて、韓国料理屋への模様替え中。銀装で茶をしばいてから、中之島のバラを見て、天満橋でカレーをいただいて帰宅。気づいたらかなり歩いていた。


2020年5月31日(日曜日)

何故かこの日を月曜日と思い込んで起床、特に二度寝はせず読書メモ作成継続(「大阪」)。奈良の三輪山本にそうめんを食べ、その後和歌山五条のコメダ珈琲というお気に入りのドライブコース。出発が比較的早かったので、帰宅時間がかなり早くなる、ということで、岩出からりんくうタウンを目指すが、道がかなり良く、それでも早いので再度南下し、加太を抜けた和歌山、再度北上、りんくうのイオンへ。晩御飯はフードコートの中華料理。うーん、売りのはずの餃子が余り美味しくない。麻婆豆腐は美味しいのに。



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読書メモ:『リベラリズムの終わり』

2020-05-06 23:34:00 | 読書
 『リベラリズムの終わり ──その限界と未来』(萱野稔人著、幻冬舎新書=573)

 リベラリズムは今や知性のある人たちの嘲弄の的である。というのは少し考えたらダブスタだらけであり、一部の世界(身内)以外に通用しない論理を振りかざし、マウントを取っているが、実は的外れなので傍目にはいかなる意味でも勝利していないのに勝利した振る舞いをするのが滑稽だからである。

 とはいえ、近代はリベラリズムが勝利し、そして常識になった時代でもあった。カント的には不可能毎(格率と言い換えてもいい)だが、目指すべき地平であったからとも言える。著者はリベラリズムの限界を見据え、それを未来に活きたものとして接続したいと意識してこの本を書いたようだ。

 その試みの成否は実践に委ねられよう。そのために、リベラリズムにおいては価値判断は余所から密輸入せざるを得なかった内在的論理を暴き、実践においては「パイの大きさ」という条件があることを示す。どんな理論であれ、限界を見据えないと、利用は出来ない。そういうところを示すのには成功しただろう。

 で。リベラリズムとノージックらのリバタリアニズムを対立的に描いているが、論理的にはリベラリズムの持つ自由の面を極端にしたのがリバタリアニズムであり、リバタリアニズムをリベラリズムの側から批判するのは中々困難だと思う。確かに、他人の自由を妨げるような自由は認められない、という条件を付すことで色々リバタリアニズムの暴走を抑圧出来るだろうけど、かなり曖昧ではある。この問題については、徴税ということが象徴的である。

 粗いという批判があるようだけど、本質論を突き進むという哲学者らしい骨太の主張に好感を持った。



 ではいつも通り。でも時間がないので、単語の羅列にしているところが多い。

・同性婚、一夫多妻、インセストタブー、価値判断そのものはリベラリズムからは出ない、父娘結婚を意図せずしてしまったカップルの悲劇(有罪)、自由論。

・ミルの自由論より。「人間が個人としてであれ、集団としてであれ、ほかの人間の行動の自由に干渉することが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られるということである。文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、ほかのひとびとに危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる」

・近親相姦を「遺伝的にやばい」というのは意図せず優生思想に与している、規範意識(おそらくは無意識レベルの)こそがリベラリズムの限界、インセストタブーは人間以外にも見られる、根源的原理との摺り合わせが大事である、とすればリベラリズムそのものは原理たりえないのではないか??


・リベラルへの批判の高まりは右傾化の結果ではなく、パイがリベラリストの要求に適うほどの増大をしていない中での、パイの配分を意識する大衆の当然の反応である。批判する側は国民意識からしている。要はメンバーシップ制からの批判である。国民国家を前提とするならば、当然の批判であり、それを「差別排外主義の右傾化」とみなすならば、国民国家を否定しなくてはならないだろう。

・日本の財源は乏しく、金持ち自体もたいしたことがないので、直接税を金持ちにふっかけても全然必要な財源に足りない。(とはいえ、ここ30年下がり続けているのは事実だし、法人税はもっと極端に下がっていることを著者は指摘すべきだったな。)

・生活保護バッシングをする声には、生活保護そのものの廃止を言う声はなく、適正化を願う声が殆どである。

・1991年度の社会保障費は12.2兆円、2018年度は33.0兆円。国債費は16.0兆円から23.3兆円。他は殆ど変化なし。もう、削れる無駄はない。

・1995年の生産年齢人口(15~64歳)は8716万人、2018年は7484万人と減少。高齢者の人口はほぼ倍増。(1826万人→3463人) これを前提とすると、パイの縮小は当然。

・欧州の場合。「オランダは満員」などの反移民のスローガンが。

・左翼だからと言ってパイの縮小ではきれい事は通用しない。実例としては明石書店闘争。

・「右傾化」とはパイの縮小時の権利意識の高まりとも捉えられる。補助線としての「功利主義」。ベンサムの『道徳および立法の諸原理序説』の「最大多数の最大幸福」。多くのところで適用されている。企業内の人員配置、えげつないところでは姥捨て。限りある資源を有効に活用するための主要な原理である。

・功利主義は出てくる利益、考えを飲み込んでドンドン適用範囲を広げる。個人の尊重とは必ずしも矛盾しないので、全体主義とは断言できない。(空き家問題)

・現代のリベラリズムの画期となったのがロールズの『正義論』。功利主義批判の本でもある。パイの分配を手厚くすべきという考えの軸になる本。

・リベラル派の考えの前提は「パイは十分に大きい」。だが現実は「パイは小さい」。これを見ずに「右傾化」にリベラル批判の根拠を求めるのは失当。

・1973年の田中角栄の「福祉元年」は経済成長があったればこそ。リベラリズムの主張に説得力をもたせるには経済成長が必要で条件依存的。

・民主党政権は「埋蔵金」への失望で支持率低下。事業仕分けも空振り(因みに理系は「二番じゃ駄目なんですか」で見切りを付けた人が多い)。とどめは消費税増税路線。

・民主党政権を可能にしたのはパイの分配への期待であった。団塊の世代が定年退職でパイを分配してもらう側になったことも背景にある。コンクリートから人へ、消えた年金。

・ロールズはリベラリズムの限界に自覚的だった。
 ロールズの正義の第一原理:各人は、すべての人の同様な自由の体系と両立しうる、平等な基本的諸自由のもっとも広範な全体系に対する対等な原理をもつべきである。
 ロールズの正義の第二原理:社会的・経済的不平等は、次の二条件を充たすように編成されなければならない。
(a)そうした不平等が、正義にかなった貯蓄原理に相反することなく、もっとも不遇な人びとの最大の便益に資するように。
(b)公正な機会均等の諸条件のもとで、すべての人に開かれている職務と地位に付帯するように。

・第一原理は平等と公平。分かりやすい。

・bは差別の禁止。aは「負け組」になったとしても「最善の状態となる社会を選ぶべき」ということ。それを「マキシミン・ルール」という。パイの分配が手厚くなされる限りにおいて、社会的・経済的不平等は認められる。

・貯蓄原理の貯蓄とは、社会全体で富を蓄積するということ。それを損なわない範囲でパイの分配を行うべきということにaはなる。極端な課税や極端な財政負債はこれに反する。

・aにこそリベラリズムの限界がはっきりと示される。

・「正義にかなった貯蓄原理に相反することなく」という条件。発展に持続性、将来世代に負担させない範囲でのパイの分配とすれば、高齢化社会で昔のような老人福祉(年金)は可能であろうか? 同時に、マルクスの言葉を借りれば極度の累進税制はOKなのだろうか?

・実はロールズの正義の原理は功利主義の上に成り立っている。よって、この原理では功利主義が優位になる。そしてロールズ流のリベラリズムは功利主義に基づいた突っ込み(リベラルの言うところの「ネトウヨ」理論)にしてやられる。功利主義批判として登場した『正義論』自体が、功利主義に依っていたのだ。

・ついでに。「軍事費、公務員の人件費、国会議員の歳費を削って福祉に充てろ」。全然足りません。

・ここで言うャsュリズムはャsュラリズムと言うべきだな。リベラルもャsュラリズムである。人気取りの公約で、裏にある負担に触れない。今や多くの大衆はそのことを理解しているので、リベラル=きれい事だけと見なすのだ。

・その上で、「反対できないリベラル流の正義」をリベラルは声高に叫ぶので、現実を把握する大衆は「何ぬかしとんねん」と反発を強める。リベラルが間違っているからではない。「正しい」けど実現可能性がほぼないことを無責任に叫ぶから嫌われるのだ。西欧・アメリカでは難民・移民問題でこれが露見した。「人権エリート」という言葉があるのか。日本では「世田谷自然サヨク」だな。

・「人権」などの普遍的な価値をおとしめているのはむしろ、実現するためのコストを無視してそれを振りかざすリベラル派のほうだ。(p194)

・ロールズ流のリベラルは何故パイの分配(再分配)を言うようになったのか。分配を正当化するためにロールズは「無知のヴェール」という仮想的な情況を設定する。

無知のヴェール:(すげえ略する)社会的な自分の境遇、能力、運・不運、心理的な性向を誰も知らないとすると、正義の諸原理が公正な合意もしくは交渉の結果もたらされる。
(ちょっとややこしいでんなあ)

・この前提から、「負け組」になってしまうかも知れないという想定をし、手厚いパイの分配が受け入れられる選択をする、とロールズは予想する。(マキシミン・ルール)

・マキシミン・ルールへの批判としては、最悪の場合が最もマシとなる選択をするとは限らない(飛行機墜落が最悪だからと言って海外旅行をしないのか、真面目に働きさえすれば最悪の貧困を回避できると見込みが成り立つならどうする?)。確率論的に考えたら批判は妥当であろう。よって、出版後にロールズはこの理論を援用しなくなった。これは上のaの否定である。

・マキシミン・ルールは、功利主義以外からパイの分配の正当性を導こうとしたルール。これなしでは、功利主義かメンバーシップ制(ナショナリズム)による正当化を必要とする。

・突き詰めると、リベラリズムによってはパイの分配を正当化できない、ということではないか。ということで、論理的には「徴税=本質的に自由の侵害」とするリバタリアニズムに帰着する。一般的なリベラリズムは大きい政府、リバタリアニズムは小さな政府を指向する。「勤労収入への課税は、強制労働と変わりがない」(ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』)

・徴税権の根拠を自由尊重から導くのはどうも上手くいかない。そこでロールズは「共通資産」という概念に根拠を求めた。
共通資産:社会的諸関係によって構成される分業体制によって形作られる資産、のことかなあ。賞金3億円のスメ[ツ大会では、球拾いなどで関わる人全員がいてこそ大会が成り立つし、莫大な利益(と賞金)が生まれる。因みに各人の才能そのものが共通資産ではない。

・共通資産の概念は、自由尊重からではなく、メンバーシップの論理から生まれている。「友愛」なのである。

・結論として、リベラリズムの主張は、功利主義か排外主義に陥りかねないメンバーシップの論理を往々にして密輸入して成立する。

・リヴァイアサンを参考に国家の根拠を考えた上で、それを乗り越えるには世界国家が考えられるが、それをすると先進国の多くの勤労大衆の生活水準は低下するだろう。リベラル自身がそれに耐えられるであろうか。耐えられるにしても、「多くの人がそれを望ましいと思っていないなかで世界国家を樹立しようとすれば、ありうる方法は、強国かそれ以外の国々を武力で併合していく以外にない。それはリベラリズムを根本的に裏切る行為であり、リベラリズムの限界を克服するどころの話ではなくなる」(p236)


 極右と極左に共感する立場からは色々突っ込みたいところはあるが、リベラルのアャ潟Aを把握するには良い本である。

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