TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

読書メモ:『ピストルと荊冠』

2019-05-27 00:09:00 | 読書
 『ピストルと荊冠ーー<被差別>と<暴力>で大阪を背負った男・小西邦彦』(角岡伸彦著、講談社α文庫、299-1)

 同和事業を食い物にし、大阪の街を食い物にした男。同和地区を貧困地区から救った男。一言で言うならば怪物である。光あるところに闇がある。摂津富田の被差別部落で生まれ、新大阪の東側の飛鳥地区を拠点に<大企連>を立ち上げてトコトン大阪をしゃぶり尽くした。だが、行政もそれに加担している。共犯者と言える。だが、共犯者に仕立て上げたのは、陰・陽向の暴力である。彼に逆らったら大阪の役人としては生きていけない。時代は下がり、同和対策事業はもう必要ないと判断された時、国家と行政は小西を牢に押し込んで「清算」しようとしたように小生には見える。同和、ヤクザ、行政。大阪の闇のトライアングルに対する大阪市民の無意識が、大阪維新の会を押し上げている。そのへんの機微を簡単には書けない。小西の亡霊は今も大阪を捉えている。

 ただ、一つ小西について思うことは、この人は生まれ落ちる環境が違えば、偉大な人物になっていただろう、ということ。差別と貧困が、優秀な資質をもった人間を歪める典型例であると小生は思う。どうしても嫌いになれない。
 ではいつもどおり面白いと思ったことをピックアップ。

・小西氏の風貌は一見インテリ風だが、射抜くような鋭い目と右頬に数センチの傷。
・言いたいことを言い、怒鳴り散らすこともあるが後で「言い過ぎた」と詫びを入れる愛嬌がある。とびきりのさみしがり屋、酒好き、女好き。思い込みが激しい。善と悪、天と地の両極端の人生。

・千代の富士が大関になる前から支援していたが、横綱になった後に千代の富士が花札に夢中で小西氏の訪問を待たせた時、小西氏は千代の富士を蹴り上げた。
・社会に門戸を閉ざされた被差別部落の大衆は、ヤクザになる者が多かった。「差別が貧困を、貧困が暴力を、暴力がまた差別を生む」(p25)
・ガキ大将であった子供の頃の小西氏は被差別体験がない。恐らく腕力にものを言わせていたのだろう。親戚にさえ遠ざけられていた。一方、勉強がとても出来たが、家にお金がなくて実質小卒。中学校の時にはキタの闇市で新聞売り。そこでは喧嘩がつきもの。
・ほどなく少年刑務所へ。「あんなの矯正教育違う。犯罪学を学ぶとこや」(p30)20代までの若い頃に6回にムショぐらし。22,3歳でヤクザ組織(金田組;組長金田三俊(金三俊)、通称「サンズイさん」)に。有名な酒梅組にも誘われたらしい。最盛期には1500人の構成員。武闘派の柳川組の傘下。
・飛鳥地区(江戸時代には「新家の皮多」と呼ばれた)には在日朝鮮人が多い。貧困層が被差別部落に入って来たのはよく言われること。地場産業は膠づくり。近江八幡の武佐から膠の原料、窒フ皮は泉佐野から。過酷な労働条件なのは言うまでもない。
----(メモスタイル変更)----
 飯が食えるように教えることが教育、善悪を言えるのは余裕のある人間、”組”は憩いの揺籃となり、逃避の場となり、連帯の場となる。(谷川康太郎(康東華)) 小西は組織の力を借りて銭儲けするために組に入った。柳川組は第一次頂上作戦で1969年に解散。粗暴なサンズイさんだが、人の使い方が上手く、若い衆のいざこざを仲裁するなど人望もあったようだ。水平社活動に多くの活動家を輩出したのが飛鳥地区。1968年には地区土着は三分の一。二十代で小西はサンズイさんのいる飛鳥地区に住む。結婚していて家の中をきれいに聡怐B小さい組で下働きをしていたようだ。学問を断念したためか、時間があれば読書していたとのこと。『孝経』の一節を暗唱するくらいに。叩き上げのインテリで視野の広い人物。1969年の同対法施行後に解同の運動の成果が見えてきた。大阪府内の支部の三分の二は施行後設立。事業が出来てムラの暮らし向きが良くなる、と。(これは正しいよね。) 飛鳥地区では新幹線建設中に汚水が発生したのを受け、水道管敷設運動をきっかけに支部が出来る。初代支部長は日之出地区から。で、水道が出来ると飛鳥支部は消滅。その後同対法の他地区の成果を見て再結成される。再結成の最初の支部長はインテリのおとなしい人(ええしのぼん)。確かにこういう人では運動は引っ張れない。金になると思ったと思われるサンズイさんが支部長になろうとしたが、在日なのでなれなかった(差別やん)という話が。代わりが富田の部落の出身である子分の小西。のし上がって来た小西をムラの住民も頼もしく思ってサンズイさんに頼んだようだ。飛鳥の生業は廃品回収、コボチ、日雇い。生活苦からヒロャ唐ェ流行。小西もヒロャ唐フ常習者だった。小西はヤクザ者だったが、母親に『ちょっとはまともな人間になれ』と言われ、真人間になりたいという思いから解放運動に参加。被差別部落の人は大人しい人が多く、運動向けでない人が多い。そこを変えるところから小西の活動は始まったように小生は思う。困った人を放っておけない優しさを持っていたのも事実だろうな。涙もろい人情家でもある。小西はヤクザと解放運動の二足のわらじを履き、飛鳥の顔になる。大賀正行(解同大阪府連合会書記長を勤めた)は「小西は解放運動を真面目にやっとった。」(p52) ヤクザをまともな活動家に出来たら運動に影響力があろう。大賀は小西がヤクザから足を洗ったように見えたようだが、実際は死ぬまで抜けられなかった。抜けようとしたが、サンズイさんが許さなかった。

 「寝た子を起こすな論」との闘いの中、小西はアカと言われる。最初はガリ版摺りをして、配布活動をする。とても地道。そんな頃、地域の共同浴場であるパール温泉が焼失。水道管の不備、消火栓の錆付きで消火出来なかった。当時は他の部落でも火災が相次いだが、道路が狭く消火出来ないこともあった。これは1970年代前半の平野の被差別部落を見ていた小生も思いっきり思い当たる。小西は共同浴場の再建に取り組む。周りはどのくらい出来るか観察。市との交渉では理詰め。交渉の仕方も理解している。ピカイチの活動家である。交渉時は重度の吃音者であるところを見せない。一年を待たずに新共同浴場を再建。周囲の小西への見方が変わる。組織の統率力も見せる。後に小西は解同大阪市内ブロックのNo.2になる。また、府連の執行委員になった時は、行動隊を作り、グズる人間を抑える組織を作る。ヤクザも入れようとしたが、ヤクザが断るw そして西成支部のメンバーが入る。西成は松田喜一を生んだ。松田門下の靴職人が面白い。利権を漁りに来たヤクザがいると「おんどれ、どこのエタじゃ!」と怒鳴り、蹴散らすw ヤクザを恐れぬ堅気。なお、松田の弟は松田組という博徒ヤクザ組織を作る。なお、行動隊の隊長はヤクザ組織に関係していた岡田繁次。「われらの行く手を阻むものあらば、一刀両断あるのみ」を信条とする。理詰めは小西、ヤカラ対策は岡田という役割分担。なお、1973年に羽曳野市長誕生後に、同対事業で建てられた住居の入居を巡り、解同と共産党が暴力沙汰に。共産党は山村工作隊上がりが駆けつける。共産党の街宣車に上がろうとする解同メンバーを取り押さえるだけでなく、腕をへし折る。対全共闘でもそうだが、ゲバでも日本共産党は強かった。解同では無職のメンバーがやんちゃをしていた(吹田市長の池の鯉をつつくなど)。解放同盟では元を含むヤクザが重要な役割を果たしていた時期があった。小西はヤクザと縁が切れたと言っていたが、一九七一年に金田組幹部の出所出迎えの写真に写ってしまう。上に書いたように、抜けたかったのは本音だろうが。それを批判する解同メンバーがいて、組員と分かる行動は控えると約束して支部長を継続。とはいえ、テキヤに詳しいなど、ヤクザ人脈を利用して色々と課題解決をする。(例の駐車場など) なお、小西は駐車場事業を私物化しようとした。その市との交渉のマル秘議事録には「表向きには対処できない」と書かれていて、暴力を背景(小西はヤクザに抑えが利く)にした交渉であることが読み取れよう。なお、新大阪駅からやや離れた駐車場だったが、送迎バスサービスで繁盛。バスサービスは小西の発案。年間約二億円の売上。ああ、優秀な人だ。一方、中高齢者雇用対策という名目は反故。なお、売上は金田組長へ。「ヤクザの世界はそんなもん」 小西は支配を嫌がり、抜けるために指を切断したが、金田は受け取らず。小西は一生抜けられなかった。一九七六年の寺尾不当判決抗議ハンストにはいきなり現れ、実行し、終了後は「呑みに行こ!」。バイタリティーの塊だ。また、支部の文書は自分で書くため、ものすごく勉強していた。解放運動は真面目そのもの。また、高槻の解同の指導に入り、行政と運動側にナアナアを許さないという一面もある。一九七五年の大阪府の同対事業予算は二七〇億円。前にも書いたが、これは「毒饅頭」(by日共)かも知れないが、確実に必要だったと、部落のそばで生まれ育った小生は思う。小西は力をつけるにつけ、飛鳥解放会館内の人事権、市職員の採用に権限を持つようになる。同和利権である。なお、自分のいる自治体以外にも顔が利く人はそうはいないらしい。一方、行政も「グズリ」対策やヤカラ対策で小西を利用した。この本では上六の「上汐」の駐車場の例が。磯村市長も小西には頭が上がらない。解同は「差別やあ!」と半ば恫喝、行政は「いくら値切るか」という交渉w 交渉は行政吊し上げの場でもあった。「大阪市を蝕む最大のガンは同和行政」(p99)、だがそれを批判した日本共産党は党利党略から物事を判断する独善性と、財源無視の主張ゆえに支持が広がらない。行政マンは解同を忌み嫌っていた。

 支部長としての収入は月14万5千円。なお、地区内の事業計画を事前に知り得る立場にあった小西は、土地の転売で儲けていた模様。で、昔世話になった方にお礼としてお金を持っていく律儀さ。(やっぱり、嫌いになれんわ。)市営住宅入居の差配もする。個人的コネでもOK。なお、金の出入りを一括管理して地域に還元した支部もあった。七〇年代はじめの被差別部落は個人や小商店・事業所が大半。そこで融資と税務対策で「大阪府同和地区企業連合会(大企連)」を解同が設立。そのきっかけ。税務署が地区の廉価の理容店の実情を考えず、所得を過少報告したとして追徴課税しようとしたり、病気の治療費の支払いのための土地の売却価格を過小評価している(部落の地代は安い)としたり、差別の実態を知らないとしか言いようのない下手を税務署は打った。その後の話し合いで大企連が出来た。解同側の要求がほぼ通った。色々問題含みだが、特に問題なのは「企業連(大企連)を窓口として提出される白、青をとわず自主申告については全面的にこれを認める」(p110)という文書。これから税務署は大企連に対して「触らぬ神に祟りなし」状態。小西に口利きしてもらえれば、部落とは関係のない企業も加入。北新地の店も。小西は当然口利き代を得ている。こうしたことは全国にも広がっていたようだ。国会議員の村田吉隆と交流。三和銀行淡路支店に国税局が査察に入った時、小西関係の資料を目にしたが、「見んかった、見んかった」と。富山の税務局にも話が通じる。あとは平野の場合はK建設が、同対事業を一手引受けたように、同建協が工事を請け負う。小西は同和対策事業の申し子であった。また、闇金的なことや不動産取引を小西はやった。もちろん、違法である。小西の金については『同和と銀行 三菱東京UFJ”汚れ役"の黒い回顧録』(森功、講談社)に詳しいらしい。百億は稼いだらしい。銀行からヤクザへの貸金の手数料稼ぎなど。そして酒と女で散財。財布は持たず、ャPットに金を突っ込む。気に入った議員の選挙費用、右翼の活動費を見たことも。京唄子さんや中村美律子さんの公演チケットを買い上げたり。なお、壁には皇室カレンダー。小西は右でも左でもなかった。あと、金塊好き。奈良の自宅は三億円。本音で懐に飛び込む銀行員を気に入る。三和銀行はヤクザ対策、総会屋対策などを小西に頼む。石切神社宮司の息子死亡事故の仲介なども。府の公金扱いは大和銀行が幹事銀行だった。三和銀行幹部の息子のお手つきもみ消しも。小西担当は出世した。小西は熱狂的阪神ファンで年間ボックス席を毎年契約した。三和はヤクザではなく、解同を浮ェっていた。そしてエセ同和に振り回された。外からは区別がつかんもんな。危険人物対策は組織の中の個人が問われる。その後、商法改正や暴対法などで企業はヤクザを浮ェる必要がなくなった。なお、小西は銀行が「金を貸すところ」ということを知らなかったらしい。三和銀行の担当であった岡野氏が色々基礎を教えたようだ。結局、小西は三和からの八〇億円の融資を焦げ付かせることになる。岡野に言わせれば、小西には何の責任もないらしいが。銀行もバブルに踊った時代であった。強面の内側の小西は「素直、嘘言わない、裏切らない、愛情あり」男としては最高。聞く耳もあり、強面のイメージは増幅されていた。小西は許永中とも交流があり、仕手情報も得ていたらしい。岡野も役得に預かった。ナンバヒップスや大阪駅前のビル開発のための土地整理という汚れ仕事も小西は請け負った。左手の小指がないから4000万円、の話は笑う。呑み代は月一千万円。クラブ通いが生きがい。酒場は商談の場でもあり、酒には滅法強かった。賑やかな酒が好き。請求書は項目チェック。チップは出さない。豪放と吝嗇の同居。金銭は身内に厳しく外部には寛大。店によっては迷惑してたようだ。「変なんは、誰も来えへんから」って、店にとって一番変なんが小西だったw 日付が変わると凶暴に。「弟が出てきた」。ヒロャ唐フ後遺症説がある。死に金使いの下品な酒でもあったが、ホンマに困ったホステスの駆け込み寺でもあった。百万円くらいは「貸した」。なお「貸した金は、やったもんと思え」と親戚を諭している。元金田組員にも「貸した」。「二度と来よらへんから」。面東ゥの良さが常人レベルではない。解放運動のために知恵を絞ると共に、身銭も切っている。例えば社会福祉法人ノーマライゼーション協会は山中多美男氏を通じて。そういう生き金も使っていた。なお、貯蓄するという発想はなかった。なお、バブルの頃、小西は解放運動と距離を置き始めていた。

 一九八〇年代に運動に距離を置き始めた感性は極めて真っ当。解放運動の成果で同和教育重点校(小生の母校である大阪市立平野小学校もそうだった)に教員や教材が充実すると、兄弟でだぶつくようになり、子供が物を粗末にするのを見たからのようだ。また、「乳児一人に保母一人」という同和保育運動も無茶な要求と見ていた。同和保育に疑問を感じた小西は、飛鳥地区に隣接する土地に「ともしび保育園」を開園する。凄い実行力だ。職員の待遇が過剰にならないようにしていたのは、身内に厳しい小西らしさ。同和事業が甘えを生むとも考えていたようだ。また、子供好きで週末に皆を集めて出かける計画も自分で立てていた。なお、ともしび保育園の法人設立では前科が問題となった。社会党国会議員ではラチが開かず、元柳川組の右翼の紹介で中川一郎に繋いでもらい、厚生大臣の園田直に面会したら、許可が出た。クリスマスではサンタに扮し、個人や店舗の記念日には花を贈るマメさ。地元高槻の特別養護老人ホーム・高槻ともしび苑には八億円相当を寄付。ただ、税金逃れの細工はあった。公私混同を忠告する人もいたが。ともあれ、福祉活動を始めたのは母親が「年寄りは今日の日本の宝、子供は明日を背負う人間」という言葉がきっかけの一つ。不良だった若い頃の小西の更生を願い、母はお百度詣りした。また、ヤクザから足を洗うために断指した後、指がないのを見つけられて激怒され、小西は震え上がった。小西の母は地元で慕われ、難儀な話は小西にも回って来た。母親は一九八四年に急死、小西は手当たり次第に物を投げた。あの織田信長の父の死のときの信長のように。なお、父の死ではそんなことはなかった。両親の香典、それぞれ一千万円は高槻市に寄付された。小西の息子は酸欠状態で生まれたために病弱であった。小西は「ちゃんとした病院に早く連れて行ってたら、こうならなんだ、わしが悪かった」と悔やんでいる。この子が三歳で離婚して引き取っている。性格はすこぶる優しく穏やかだった。障害児の親となった小西は、福祉事業家の道も進む。「自分が死んだらこの子はどないなるんやろ」と考えるのは障害者の親の常。そこで故郷の人に相談すると「急を要するのは特養や」と言われ、そうする。なお、毎日新聞に小西の言として「体を洗うのはホースで水をかければいい」と語ったという記事が載り、激怒。毎日変態新聞は嘘を書く。実際は、地元の年寄りを旅行に連れて行ったりして大事にしていた。保育所と高齢者施設を合体させるのは素晴らしい夢と小生も思う。解放運動から実のある福祉へ。「ハコモノだけ立派なもんを建てても、誰も喜ぶ者はおれへん。」(p185) また、解放運動の成果で部落民というだけで生活に不自由することもなくなった。小西は飛鳥会の事務所を北区に構え、住民との交流も疎遠となった。また、大企連は利用主義者(フリーライダー)に食い物にされていることを問題視した。80年代には飛鳥会内部からも幹部批判が出てきた。同和住宅の又貸しも問題になっていた。行政や有識者(地対協)も同和優遇政策を疑問視しだしていた。小西も合い通じる考えを持っていた。「自立せなあかん」。小西は飛鳥支部を解放会館から移動する。そこで1995年のある日、執行委員会が開かれるはずが、執行委員は解放会館で待機。小西は激怒し、以後執行委員会も支部大会も開かれず。支部長選挙は無投票当選が続く。一度、小西の師匠大賀正行日ノ出支部長が「もう引きや」と言ったが、他人が頼りなく見えて引かなかった。「俺がやめたら、泣く奴がおる」。また、解同の支部長だから脱税容疑で逮捕されないと考えていた。既得権を維持しつつ、一方では社会福祉事業を発展させたいと思っていたようだ。金がないと人を助けられないのは真理。サンズイさんが死んだ時、「ごっつい喜んだ」。その後顔が穏やかになった。サンズイさんの重圧がすごかったのだろう。若い人に「目の上のタンコブは先に死ぬさかい、我慢しとけよ(大意)」と伝える。飛鳥会の駐車場の売上のうち、年間五千万円が小西の懐に。これも支部長を辞めなかった理由か。少し前まで工事へ因縁をつけるヤクザはどこにでもいて、それを抑えられるのはヤクザだけであり、金田組の小西は重宝された。地上げに応じない店に浮「人を派遣すると他の客は逃げるなど。大手のゼネコンはヤクザを利用した。「近隣協力費」はヤクザの懐に入る金であった。関空では何百億も流れたらしい。生コンは一立米につき、というふうに渡していたらしい。小西はヤクザ体質(良い面としては人の話は一応聞く(関係ない話なんてあるかい)、人が困ったら助ける)で、飛鳥支部はいわば小西組であった。元ヤクザで小西の側近になった人には、ヤクザを遠ざける仕事をした人もいた。防波堤だ。小西と交流のあったヤクザは生島久次、小西ルートで貸金庫を利用して拳銃と実弾を保管していた。小西はそのことを知らないほど、生島を信用していたのか。サンズイさん牽制のためか、後の山口組五代目の渡辺芳則に五千万円を送金している。ヤクザの世界でも「同和の小西」の名は知れ渡っていた。中野会の中野会長はヤクザの老後の受け入れ先となる福祉施設を構想し、小西に会ったとのこと。九〇年にはヤクザ三人組に誘拐され、「息子に何があっても知らんぞ、5億円出せ」と脅され、承認して解放された。その後犯人の声色を元ヤクザの側近に話し、その伝手で現役ヤクザが犯人を見つける。一人は小西自ら半殺しにし、残り二人は? 「けじめをつけた」とは? 小西はヤクザと縁が深く、仲の良いヤクザの敵からは敵視される。中野会の敵から飛鳥支部の入った建物が銃撃され、小西は娘に遺書めいた手紙を書いている。なお、小西は「友達同士がケンカしてかなわんのや」(p222)。 なお、渡辺も中野も、二〇〇五年に引退している。翌年、小西は飛鳥会事件で全てを失う。

 逮捕理由は業務上横領と詐欺。公私混同のツケである。担当は抱き込んでいた4課(暴力団対策)ではなく、2課(詐欺などの知能犯)だった。操作情報が小西に漏れることはなかった。背景には、同和対策事業の終焉がある。終焉と共に、解同や同和行政にかかわる不祥事が次々と摘発された。有名なのはハンナン、芦原病院。芦原病院の件では、小西が保守政治家にお金を渡してもみ消したらしい。「同対事業によって地元雇用された人間は、あまり働かない」(p232)。大阪市もまた局長クラスで諭事ニ職を出す。八尾の安中(やすなか)の丸尾(小西のエピゴーネン)が恐喝で逮捕された三ヶ月後に飛鳥会事件が起きる。なお、「膿出し」は大阪だけじゃなく、京都でも行われ、当時の桝本市長は「同和行政の大きな柱として『優先雇用』をしてきた。甘い採用をしていたのは事実で、不祥事の要因の一つだ」(p235)と、同和利権を公式に認めている。これに対する反論は解同は勿論、自由同和会も全解連も「何だかなあ」である。奈良ではャ泣Vェ中川。運動側にはボス支配を許す前近代的な体質が残っていた。権力は正常化を進めたと言える。p238からはこの本の内容を圧縮したような新聞の見出しの羅列。それでも極一部。大阪府警幹部は「浅田と小西を、絶対ここに連れてこい」と部下に厳命。小西の取り調べ中、解同は小西を除名。小西は「除名者の言い分を聞くという規約がある(中略)わしが火を点けたようなもん」と不満と悔悟を述べる。ちょっとかわいそうなのは保険証「偽造」で挙げられた飛鳥人権文化センターの館長。公務員であり、配属されたら小西に忖度する。任期を全うすれば課長級。大阪市の課長は天下り出来る。定年の数ヶ月前に逮捕されて失職して退職金が出ず。人身御供やん。彼は「上司に相談しても解決にならない」と言う。上は皆問題から逃げていて、無責任であった。逮捕後の小西は黙秘していたが、「息子も逮捕状を取るぞ」と脅されて屈する。日本の取り調べが先進国の中では非人権状況であるのは有名な話。保釈金三億円で逮捕から三ヶ月後に保釈される。解同は保釈から一ヶ月後に「『飛鳥会等事件』真相報告集会」を開くが、マスコミには名刺の提出、写真やビデオ撮影禁止、記者会見なしという条件を突きつける。「総括と府連見解」は、「同盟支部長という肩書きを悪用した「エセ同和行為」ということが明らかになりつつある」とあるが、そもそもそのような人物を40年も支部長にしていたのは解同自身ではないか。小西の起こしたことは「エセ同和行為」ではなく、解放運動の腐敗そのものであった。なお、総括した松岡徹委員長は小西に可愛がられていて、松岡の選挙支援、府連の人事の相談に乗っていたようだ。更には、報道に対して「差別を助長する」と解同は抗議文をメディアに送りつける。産経新聞は見事に(というより真っ当に)抗議文批判を行っている。解同の抗議に対して「組織内部の要職にあった彼が行った行為こそ、差別を撤廃する側ではなく、間違いなく差別を助長、再生産する側にあったと考えます。厳しく社会的に指弾する報道をすることは当然のことであると考えます」(p261) そして、解放運動の空洞化を大阪府連の抗議文は示していた。初公判の小西は目つきが鋭く、現役ヤクザに見えた。小生はこう思う。小西は緊張し、戦闘態勢に心が入っていたのだろう。冒頭陳述では「暴力団構成員よりも金もうけがしやすく、絶大な権力が手に入るなどと考え、飛鳥支部支部長に就任した」(p264)とあるが、後付であり事実と違う。検察は自分に都合がいいようにストーリーを作成するものだ。これは小西が息子を絡めた脅しに屈したことと、刑事の策略にひっかかったためらしい。周囲の人間は疑問に思ったらしいが。他にも検察らしい馬鹿らしい文章が続く。「俗情との結託」。メディアは無批判に垂れ流すのもいつものこと。さて、弁護人は最後の博徒・波谷守之の弁護をした渡邉淑治、浅田の弁護をした黒田修一、元暴力団担当検事の桃井弘視、万全の態勢である。基本的には検察側と争わなかった。そうすれば情状酌量が入るからだろう。ところが判決は懲役六年と予想より重いものだった。世論の影響、スケープゴードである。渡邉は裁判で主任弁護士を外された。理由は、小西が「迷惑かけてごめん」と言いにきたのが接見交通権の濫用なので保釈を取り消せ、と検察が言ってきたから。普通は見逃す。かように、この裁判は国策裁判であった。小西は控訴するが、弁護を引き受けてくれる人がいない。そんな時、著者に小西が電話をする。週刊現代で小西を批判的に取り上げたのだが、小西の言い分を記載したことのお礼。二審で三和銀行と大阪市を法廷に引っ張り出す準備をしていた小西だが、ガンで入院する。ガンは転移していて、重粒子線治療などの最先端医療も受けていたが先は短いと医師に告げられる。自分で葬儀の手配をしようとして、断られる(笑)。七〇歳になった時は、式次第まで細かく指示している。見舞いに来る姪を中々返さない。究極の寂しがり屋の面を強く見せている。先に子分が死ぬが、金策が出来ない。アゲられてから収入が激減したようだ。最期は奈良の家で迎える。葬儀は付き合いがあった人だけで、親戚も呼ばれなかった。組関係者がいて、刑事が警備。棺桶に不備があり、歪んだ状態で荼毘に付される。「贅沢ではあるがゆがんだ棺とともに、小西は被告のまま灰となった。」(p284)

 小西の死から三年余り後に、長男が肺炎で死去。小西の長女は父親について「あんなに優しい人もいないけど、あんな浮「人も見たことがない」という。長女は飛鳥会事件まで父親の生業を知らなかった。被差別部落のことなど、言葉に出来なかったのだろう。全てを知った長女は「ああ、そうか」と腑に落ちたらしい。飛鳥会事件を奇貨として、大阪市の同和対策事業はゼロに等しくなる。人権文化センター、青少年会館、老人福祉センターから人が引き揚げられる。設備から「人権」「解放」の文字はなくなる。そして、普通の設備になり、ムラは普通の街になっていった。ただ、google mapで見る限り、とても寂しいムラが多い。

 最後に小西の言葉を。

 母親がよく言いました
「いつまでも世間に顔向けできない人間でいるのか
 今からでも遅くない
 世のため、人のために少しでも役立つ人間になれよ」と
 それからは、少しは人間らしく生きてきたつもりです
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47779km

2019-05-26 23:59:00 | クルマ
47779km、通算燃費18.2km/L

徳島県で下道をダラダラ移動したら、アホほど燃費良かった。

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47022km

2019-05-20 11:42:00 | クルマ
47022km、通算燃費17.4km/L

出勤のほかは堺浜の祥福の湯くらい。
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46989km

2019-05-12 23:59:00 | クルマ
46989km、通算燃費17.5km/L

月曜日のぐうたら界往復くらいしか乗っていない。
あとは通勤。燃費が少し落ちたな。

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46912km

2019-05-05 23:59:00 | ノンジャンル
46912km、通算燃費17.6km/L

イオンにちょっと行った他は、日曜日に徳島観戦(日帰り)。
流れに乗ったらかなりのスピードだったせいか、燃費は伸びず。


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