TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

5822km

2016-03-27 23:59:00 | クルマ
5822km, 通算燃費17.0km/L

日曜日、越知町へ。香川オリーブガイナーズ対愛媛マンダリンパイレーツの試合の6回に到着して、7回に風船飛ばしをしただけ。愛媛の守備がかなりズタボロ。センター高田の偉大さを思う。練習開始が遅かったからなあ。調整できていない。途中、梶田宙さんにお願いして『牛を飼う球団』にサインを貰う。

その後、エミフルマサキで紅茶を購入して帰宅。



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読書メモ『暴力批判論』

2016-03-26 11:06:00 | 読書
 『暴力批判論』(ヴァルター・ベンヤミン著、岩波文庫)

 本について書く前に。著者の悲劇的な死について書こう。著者はユダヤ系ドイツ人として生まれる。そして迫害を受け、フランスに逃れるが、フランスはビシー政権となる。そして、スペインに逃げるが、そこもまたフランコの政権に。そして、ピレネー山脈を越えてャ泣gガルに逃れようとするが、たった一日違いで国境は封鎖され、無国籍者の移動が禁じられる。そして、自殺する。

 彼は国家暴力によって殺されるのだ。この本は、主として国家暴力について述べている。暴力のうち最も恐るべきもの、それが国家暴力なのだ。そして法はそういう暴力に根拠を定める。「ごめんで済んだら警察要らん」(40年前の大阪の子供)ということだ。で、警察はいかがわしい。

 ではこの本について。

 この本は決して暴力否定の本ではない。暴力の存在論とでも言うべき本だ。現実は暴力に裏打ちされていること、それがどのように存在しているのか、現実を支えているのか?ということを問うているのだ。

 まずはこのように宣言することからこの本は始まる。


 暴力批判論の課題は、暴力と、法および正義との関係をえがくことだ
(P29)

 そして最後のほうでこう述べる。

 非難されるべきものは、いっさいの神話的暴力、法措定の――支配の、といってもよい――暴力である。これに仕える法維持の暴力、管理される暴力も、同じく非難されなければならない。
(p65)

 非難されなければ理由についてこの本は説明している。が、解決すること(暴力をなくすこと)の困難さをも浮き彫りにする。


 それではいつも通りに箇条書きでャCントを。かなり分厚く書かなくてはならない。

・暴力批判の俗論として「暴力が正しい目的のためのものか、それとも正しくない目的のためのものか」を問うことがある。だがそれは「原理としての暴力そのものの批評基準ではなくて、暴力が適用される個々のケースのための批評基準」(p30)であるため皮相な批判に留まるとする。

・その皮相な考えの例として自然法の扱われ方を挙げる。「自然法は、正しい目的のために暴力的手段を用いることを、自明のことと見なす」(p30)とすれば、正しい目的のための暴力は何の問題もないことになる。

・対して実定法があるが、実定法とても「あらゆる未来の法を、その目的を批判することによってのみ判定しうる」としているので、自然法と同じく「適法の手段は正しい目的へ向けて適用されうる」(p31)というドクマは共通である。

・こうして、「自然法は、目的の正しさによって手段を「正当化」しようとし、実定法は、手段の適法性によって目的の正しさを「保証」しようとする。」(p31) では、適法の手段でもって間違った目的という、我々がよく目にする事態とは?? 「この点を明晰に認識するためには、まず圏外へ出て、正しい目的のためにも適法の手段のためにも、それぞれ独立の批評基準を提起しなくてはならない」(p32)

・著者は目的の領域=正義の批評基準をまず退ける。そして暴力を構成するいくつかの手段の正当性を問う。そして歴史的に承認された暴力(法定の暴力)と法定のものではない暴力という区別を見る。実定法の尺度を判定するのだ。

・現代ヨーロッパでは暴力でもって個人の自然目的を追求することをどんな場合にも許容しないとされる。「法の手中にはない暴力は、……それが法の枠外に存在すること自体によって、いつでも法をおびやかす。」(p35)からだ。逆説的に、日本で言えば鼠小僧や石川五右衛門が民衆の人気者になる所以である。法=暴力の独占に対する反発か。

・ストライキについて。非行為=非暴力という捉え方があるが、社会的な恐喝なので暴力である。組織労働者は国家を除けば暴力の行使権を持つ唯一の権利主体である。国家に認められた暴力が全面化するのがゼネストであるが、しかし、その段階において国家は敵意をむき出しにゼネストと対立する。「暴力を行使するストライキ労働者に、(国家が)暴力をもって対立することは、法的状況に内在する具体的な矛盾のあらわれ」だが、「法の論理はそこでも一貫している」(p37)

・というのは、「(暴力は)法関係を確定したり修正したりすることができる」(p38)という点で。それが国家の外部に向いたものこそ戦争である。強者、あるいは勝利者は相手の法を措定するのだ。

・そして、暴力は法維持のためにも行使される。本書を裏読みすると、そのような暴力は倫理的・歴史的なものに裏打ちされている。法維持の暴力は社会的脅迫なのだ。

・犯罪者の運命、特に死刑に値することを考えれば、その脅迫の不確定性が浮かび上がる。捉えられなければ罰せられないが、捉えられれば永遠の処罰=死刑となる。「法における何か腐ったようなものが感じとられる」(p43)のだ。

・法措定暴力と法維持暴力の二つが怪物化しつつ混合して警察の中に現存する。警察は「広範囲にわたって法的目的をみずから設定する権限(命令権)を」もっている。(p43)そして、時の権力の意向を先回りしてくみ取り、手先となっていることの例は今現在の辺野古などで見られる。警察は「もはや法秩序によっては保証しえなくなっているところ、(略)明瞭な法的局面が存在しない無数のケースに「安全のために」介入して、生活の隅々までを法令によって規制し、なんらかの法的目的との関係をつけながら、血なまぐさい厄介者よろしく市民につきまとったり、あるいは、もっぱら市民を監視したりする。」(p44)

・こうして法が倫理的にはあやしげであることが感じられる。

・法的協定は、当事者たちによってどんなに平穏に結ばれていても、それが破られたときのことを考えると、破ったものへの暴力を行使する権利が担保されていなければ意味がない。「法的制度のなかに暴力が潜在していることの意識が失われれば、その制度はかえって没落してしまう」(p46)のだ。

・当時のドイツ議会は革命的暴力を忘れたがゆえにみじめな見世物になり果てていた。「議会主義が生きた諸問題のなかで何に到達するかといえば、それは起原にも終末にも暴力をまといつかせた、あの法秩序でしかありえないのだから。」(p47)

・詐欺について。嘘が罰せられない=暴力の不要というところでのみ、話し合い――非暴力的な和解――は本来成り立つ。だがそれでは詐欺や嘘はやり放題。ここで「法的暴力が割りこんできて、詐欺を処罰の対象とするにいたった。」(p48)

・古代ローマでは、詐欺そのものは少しも暴力を伴わないので処罰をまぬかれていた。後代の法では、著者に言わせれば「他者への恐浮ニ自己への不信」(p48)が法の動揺を示しており、「欺かれた者が振るうかもしれぬ暴力への恐普v(p49)ゆえに法は詐欺に反対する。

・詐欺という「非暴力的」な手段が引き起こす暴力に怯えて法は制約を課す。同様に、スト権を認めないことにより引き起こされるであろう暴力に怯えて、スト権という暴力行為を合法とする。

・話は階級闘争へ。ジョルジュ・ソレルが出てくる。二つのゼネスト。国家権力と結びついた穏健な社会主義者による政治的ゼネストを「別の主人のもとに――ソ連の官僚制を想起するべきだな――置かれるように、デモンストレートするのだ」(p50;孫引き)とソレルは切って捨てる。対置するはプロレタリア・ゼネスト。国家暴力の絶滅を唯一の課題とする。

・プロレタリア・ゼネストは「労働が完全に変革されなければ、いいかえれば国家――資本と結びついた――による強制がなくならなければ労働を再開しない」(p51)ものであり、革命を貫徹する。既存のシステムに対する「脅し」ではなく、無視であり、純粋な手段であり、その意味で非暴力的である。(この論理は納得しがたいところがある。)そしてアナーキスティックである。

・ともかく、ソレルを引用する著者の主張を。「倫理的で真に革命的な構想と対置するとき、プロレタリア・ゼネストがひきおこしかねない破局を考えてこれに暴力という烙印を押したがるような考えは、どんな考えであれ、とるにたりない」「ある行動の暴力性は、その行動の効果や目的にてらしてではなく、もっぱら手段の法則にてらして、判断されてよい」(p52)

・だが、国家は効果のみを眼にとめる。そしてプロレタリア・ゼネストを暴力呼ばわりして対峙する。また、ソレルはプロレタリア・ゼネストにおいて、厳格な構想ゆえに、革命のなかでの本来の暴力の展開をどれほど減少させうるかを論じているらしい。

・外交官は私人間の合意とよく似通ったしかたで、国家間の紛争の処理にあたっている。(法が直接支配するわけではない。)

・一切の暴力を完全に、原理的に排除することはまだどうにも想像できない。このあたりから話はかなり抽象度を増す。「すべての法理論が注目しているのとは別種の暴力についての問いが、どうしても湧きおこってくる。」(p53)

・「手段の適法性と目的の正しさについて決定をくだすものは、決して理性ではない」(p54) 手段の適法性については「運命的な暴力」、目的の正しさについては「神」である。

・そういう次第で、「神話的な暴力は(中略)神々のたんなる宣言である」(p55) 存在の宣言である。運命的な闘いが法をもたらす。(英雄伝説)

・「法の措定は権力の措定であり、そのかぎりで、暴力の直接的宣言の一幕にほかならない。正義が、あらゆる神的な目的設定の原理であり、権力が、あらゆる神話的な法措定の原理である。」(p57)

・法措定暴力が保証しようとするものは権力である。そもそも法(レヒト)は権力者の特権であった。境界を引くことで、(権力者の)敵にも権利を認める。法を知らずに境界を踏み越えたものは、贖罪させられる。今は処罰だ。「暴力のみが法を保証する」。

・直接的暴力の神話的宣言は法的暴力の、歴史的機能の疑う余地のない腐敗性として明確にする。それを滅ぼすことが課題となる。それを命じうる純粋な直接的暴力とは? 「神話に神が対立するように、神話的暴力には神的暴力が対立する」(p59)。それは「前者(神話的暴力=法)がつみをつくり、あがなわせるならば、後者(神的暴力)は罪を取り去る」(p59)ものだ。(イエスを思い出すよね)

・悪乗り。神的暴力はイエスなのだ。「神話的暴力はたんなる生命にたいする、暴力それ自体のための、血の匂いのする暴力であり、神的暴力はすべての生命にたいする、生活者のための、純粋な暴力である。前者は犠牲を要求し、後者は犠牲を受けいれる。」(p59~60)

・神的な暴力の現れの一つとして、教育者の暴力がある。それは究極的には法措定の不在によって定義される。それは「罪を取り去る暴力」「生活者のこころに関しては、けっして破壊的ではない。」(p60)

・戒律は行為以前にある。戒律は行為の物差しではない。断罪を戒律から根拠づけることはできない。「非常の折りには、それ(戒律)を度外視する責任をも引き受けねばならぬ」(p61)

・「生命ノトウトサ」と言う言葉への強烈な批判。これは本書の柱の一つだと小生は思うので、引用しておこう。(p63)――小生としては、三島由紀夫がまさに命を賭して「生命よりも大事なものが人間にはある」と訴えたことを思い出す。

暴力革命で批判されるべきは旧体制なのだ!


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「暴力革命を捨てていない」共産党について

2016-03-23 19:31:00 | 幻論
 国会での議論が低レベル化して久しい。公安の白書やらを持ち出した共産党攻撃がされている。日本共産党については、小生も様々な疑問があるし、親戚・友人を含めて実害を受けているので正直良い印象はない。ネットで普段は知性をしっかりと発揮する人も、共産党が絡むと感情で目が曇ることもしばしばだ。

 だが、だからと言って、共産党に投げかけられるケッタイな物言いを放置すべきという話にはならない。そこで日本共産党に関する「暴力革命」について考えてみよう。

 日本共産党と暴力の関係について、避けられぬ話にいわゆる50年問題がある。ここで確認しておかなければならないことについてまず述べる。1950年、終戦直後の日本共産党は徳田球一書記長の下、「平和革命」を訴えてきた。朝鮮戦争に向けて事態が動いていたとき、コミンフォルムは後方かく乱のために日本共産党に武装蜂起を要求した。「平和革命が出来るなんて愚かな考えだ、日本共産党は即刻考えを改めろ」(大意)というわけである。いわゆるコミンフォルム批判である。

 当然のごとく日本共産党は大混乱に陥った。まず、「理屈だけの世界の住人」とでも言うべき宮本顕治らは「コミンフォルムの理論は正しい=武装ほう起を準備すべき」という考えを採った。これが国際派である。暴力賛成、ということだ。一方、コミンフォルム批判を受けいれることの意味を戦前からの活動家である徳田球一らは正確に理解していた。平和革命を主張していた徳田らが受け入れられるはずがない。そこで「所感」を発表した。だが、中国からもコミンフォルムと同様の批判が所感派からなされると、たまらず表向き受け入れることとするが、これがきっかけで国際派と所感派に日本共産党は分裂する。ちなみに、徳田球一が書記長なので、正統派は所感派である。

 そして、朝鮮戦争が起きる。徳田らは中国へ亡命するが、国内に残った所感派は日本国内で武装闘争を開始する。こうして引き起こされたものが白鳥事件などの虐殺事件である。その後日本共産党は所感派と国際派が合一するが、言ってしまえばどちらの流派も暴力容認の歴史を有するということだ。

 さて。日本国政府は共産党対策を主目的として破壊活動防止法を作る。そして日本共産党は今でも破防法に基づいた公安調査庁の監視団体である。

 さて。日本共産党は六全協で統一する。その後、議会制民主主義に基づくこと、自由と民主主義の宣言(顕教だから心底信じていいかどうかは疑わしい)を行い、原則として権力奪取の手段としての暴力は放棄していると見てよいだろう。

 だが、問題はこの先である。日本共産党の最大のトラウマの一つと言われるものに、チリのアジェンデ政権の崩壊がある。合法的に、選挙によって樹立された社会主義政権がピノチェトの軍事クーデターで潰されたのだ。そして、多数の死者が生まれた。この出来事については様々な分析がされているが、要点としては、アジェンデが軍を掌握できなかったこと、CIAの工作がされるがままであったことがある。要は軍事という国家の大事を把握できなかったということだ。

 こういうこともあり、日本共産党は「敵の出方論」を唱える。権力奪取後に敵が武力に訴える場合は、当然のごとく武力に訴える、ということである。眠たいくらいの正論だ。繰り返しになるが、今の日本共産党は議会制民主主義に基づき、選挙による権力奪取を目指す。選挙で多数派になること=多数者革命というわけだ(変な理論だと思うが。というのは、この顕教に従うと、日本共産党が権力奪取においてやろうとしていることは、革命ではなく、単なる政権交代だからだ。) 日本共産党が「敵の出方論」で言っているのは、まさに権力奪取後の反抗の問題である。反革命が武装抵抗するならば、武力でもって容赦なく粉砕すると言っているに過ぎない。これは全くもって当然の、合法的で、正当な行為である。(自衛隊を獲得できるか、という問題は置いておく。)

 で。愚かな今の日本国の内閣は、この正論に噛みついているというわけだ。穿った見方をすると、今の内閣は「日本共産党が政権を握ったら、今掌握している自衛隊を使ってクーデターをするぞ」と言っているようなものだ。「敵の出方論」を捨てたのならば、ワシらの反抗を放置しろや!というわけだ。

 「敵の出方論」とは、権力奪取の課題ではない。権力維持の課題である。権力奪取前に日本共産党が権力を握りそうになった場合の、日本共産党に対する武力行使という課題もあるが、その場合は正当性がない武力行使に対して、大いに革命的暴力を振るう権利がある。この場合も、部分的ではあるが権力維持の課題であると小生は思う。


 んで。共産党の言い方に問題が全くないわけではない。「我が党は一貫して」という理論で、自縄自縛に陥っているという指摘が、現役日本共産党員からなされている。


 共産党は宮本氏引退後は暴力革命どころか革命そのものを事実上棚上げした改良主義路線を採っているのだが、党中央は方針転換したことを明確には認めず「党の方針は一貫している」と、党員向けには説明してきた。党中央は「一貫している」その方針を非暴力の地道な社会改良であると党内外に説明するが、「一貫している」のなら、対抗暴力の行使を含む革命路線は昔のまま不変であろうとの治安機関の認定にも根拠を与えている。



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読書メモ:『実録・北の三叉路』

2016-03-21 11:41:00 | 読書
 『実録・北の三叉路』(安宿緑著、双葉社)

 ほぼ全編、ゲラゲラ笑いながら読む中に、時々はっとさせられる記述があった。

 著者は北朝鮮をそもそも支持し、その後故あって総連から除名された祖父の元で喧嘩をしながら育つ。朝鮮大学を出て総連の職員をやっていたというと、思わず身構えてしまうが、中身は聖闘士星矢マニアの腐女子w 中学生の時に政治的憧れ傾向として厨二病を患っていたことがワクチンとなったのか、政治的なものをかなり客観視して見ておられることが分かる。最後の言葉がそれを象徴しているのではないだろうか? 「人は何もないところに意味づけをして、レッテルを張り、わざわざ遺恨を作り出すのだ。」(p188)

 この言葉は「ただの岩礁」であるリアンクール岩礁(駐〟A独島)に関する言葉だが、今のネット空間のネトウヨ、ブサヨ、反日、売国、などなどのレッテルや決めつけ全般に当たると思う。実際、右翼にも左翼にも知り合いがいて、時折在日の方々と交流していると、この著者の言葉は重い。

 あ、すんません。重すぎることを書いた。基本的に「ゲラゲラ笑える」本だし、多くの書評にあるように、北朝鮮の中の人々の息遣いが聞こえてきそうな本であることがこの本の本題です。



 んで。いつも通り、「へえ!」という話を。ネタバレ防止のため、基本「重いこと=はっとさせられること」で。

・祖父(『血と骨』の主人公、金俊平に近いらしい)とはお互いに「北朝鮮へ帰れ」と罵唐オあって育つ。

・実家はラブホの上。男女の営みのお声が聞こえる環境で育つ。「闇金やパチンコ屋よりまし」と思うと気が晴れるw

・そもそもは北朝鮮支持の祖父。だが、妹の看取りのために韓国に渡ったことで総連を除名されて韓国側に。その後民団の機関紙で総連批判。

・朝鮮中学校は基本ヤンキー系リア充の世界。「民族教育」は殆ど皆がうざがっていた。が、著者は「模範的朝鮮労働党員」にあこがれ、そして聖闘士星矢マニアの腐女子という非リア充。

・ヤンキー中心の学校では他生徒から浮き、「完璧な副委員長」を担任から求められ、対人恐撫ヌに。

・高校に入り学習組に。実態は、先生の前でよい子を演じる集団。基本的に総連の活動家の子女の集まり。他の生徒からは好かれるはずがない。中学で厨二病だった著者もまた「遅いわ!」と感じてなじめず。

 ここではっとさせられる重い話。青字。

「聖闘士の優劣は、何もまとっている聖衣(クロス)で決まるものではありません。要は小宇宙(コスモ)です」

「人間の善悪は、何も国籍や所属で決まるものではありません。要は生き様です」
(p172)


・韓国籍の人は、北に行くときに「訪北届」を出す必要がある。係員曰く「で、北韓はどうだったんだ? みんなちゃんと食えていたか?」

・駐⊥竭閨iあえて)は全くもって著者の言う通りだ。遠い昔から日本人も朝鮮人も使ってきた、絶海の岩礁。著者は2012年5月に上陸。漁民は駐⊥竭閧X0年代まで知らなかった。海老やホヤが取れるらしいが、そんなに良い漁場でもなさそうだ。

・お。二十代までアナキズムに傾唐オていた韓国の若者のド正論。
「独島問題を論じる上で最も重要な事項はサンフランシスコ講和条約とラスク文書なのに、韓国では『高麗£ゥ鮮時代時から我々の領土だった』と教えるに留まっている。無条件で『我が民族は世界一で、我が民族の血を奪おうとする奴らがいる』と教えることは国家主義的洗脳教育だと思います。これでは北朝鮮の金日成主義教育を批判できない」(p187)

・独島問題の市民団体リーダーも知的だ。ネトウヨ的行動に反対する。

で。再掲。


「人は何もないところに意味づけをして、レッテルを張り、わざわざ遺恨を作り出すのだ。」(p188)



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5547km

2016-03-20 22:36:00 | クルマ
5547km, 通算燃費16.8km/L

 土日にかけて岡山県の湯郷温泉に行ってきた。泉質は道後温泉に似た柔らかさ。面白いのはヒノキのボール(直径25cm)が浮かんでいたところ。ぼへーと動きを観察。

 温泉の近所には昭和おもちゃ館とか鉄道模型(Nゲージ)の巨大ジオラマのある模型館があり、当然入る。おもちゃ館では、中身入りのミリンダを発見! 多分貴重。あと、大昔の野球選手ブロマイドで南海ホークスの中谷信一投手を発見。とても貴重。戦争ゾーンではやっぱり出征兵士の日の丸がぐっとくる。漫画では「男一匹ガキ大将」が19巻まであった。北原照久さんも来場されていたんだな。館長あての司馬遼太郎さんの手紙があった。館長は絵師だったらしい。模型館の巨大ジオラマは京都精華大学の学生さんの力作。走っている車両は、現代のものばかりだったが、持ち込み可なので、いつかは小生の所有する渋すぎる車両を走らせたい。

 翌日はドイツ農業公園?という謎の空間へ。天気が良くて散歩が心地よい。ウサギをなでなでしたら、嫌がられたw 「ソーセージ」「ザワークラウト」「ジャガイモ」という、ドイツ人罵湯P語三種をムシャムシャ喰ってやった。この中では、ジャガイモパンにリンゴジャムを塗ったものがとても美味しかった。あと、だらけまくっているロバがいて(さすが「怠け者」のイメージで語られるだけのことはある)、一匹飼いという、スイスでは違法飼育なモルモットが、主のように巨大化してデンといたことが印象的。その後、強風の中瀬戸大橋を渡り、ルーヴで「イチゴソーダ」をいただくが、これが本当に美味しい。んで、散歩などで時間つぶしをし、一鶴の土器川店に行くと、見たこともない行列が! 諦めて他のところで食べた(とほほ過ぎる味だったので無視)後、帰宅。

 高速が多かったので、燃費の値が上がった。

 読み終わった本。
『実録・北の三叉路』(安宿緑著、双葉社)
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