TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

読書メモ:『愛と幻想のファシズム』

2014-04-08 21:26:00 | 読書
 『愛と幻想のファシズム』(村上龍著、講談社文庫)

 一九八〇年代、ある意味緩い時代に、反時代的な人間集団である新左翼の諸君が貪り読んだと言われる伝説を持つ本。棒黒膜氏や、自称人権ファシスト――なんだそれ?彼は優しすぎる――が嵌ったらしいから、読むことにした。

 主人公トウジはハンターである。彼は弱者が嫌いである。世の中を原始時代に戻し――それは無理だから、新たなる部族社会を作り――、至高の快楽であるハンティングが生活の糧を得る唯一の社会になることを夢想する。

 曖昧さのない、野性味の塊のような男にゼロというアーティスト肌の人間は惹かれ、トウジをコーディネートすることにする。トウジの野望のためのクレンジングを行なうべく作られたのが狩猟社であり、その暴力装置がクロマニヨン。

 クレンジングは密教であるが、顕教としては、危機に陥った社会の救済である。左翼的な話になるが、ファシズムとは、「中間層および資本家が、危機の時代において革命などにより自らが没落することを避けるために、強権的で権威主義的な政治を求めること」となろうか。勿論、トウジ自身は政治そのものには興味はない。まずは弱者を狩ることが目的だ。その意味では、弱者のルサンチマンを自ら体現していたような過去の実在のファシストの指導者とは異なる。しかし、左翼的な定義に従い、その指導者をファシストと呼ぶならば、トウジはファシストと言えよう。


 この小説が書かれたのは一九八〇年代である。小生にとっては、思春期から青春時代に当たる。当時のイデオロギー、雰囲気、社会を思い出しながら、現代のことも照らし合わせ、色々考え、感じながら読み進めた。

 技術者として驚かされたのは、この本において近未来では情報通信システムこそが暴力の帰趨を決することが描かれていたことだ。WWWが登場する前の話。S&T班と名付けられたクラッカー集団が大事な役割を果たす。また、エネルギー源として風力、太陽光も登場する。まだ萌芽とさえ言えないものだったのに。

 一方、政治経済においての予測は結構外れている。それは、とても難しい話だからだ。現実にはソ連は崩壊したし、カウツキーの「超帝国主義論」を思い出させる「ザ・セブン」のようなコングロマリットはない。それは、必ずしも良い意味で「ない」のではなく、金融資本の地位が特権的となり、国家を選択できるほどの怪物になったからであり、その意味ではこの本の予言よりも現実は深刻と言えよう。

 また、日本の左翼勢力はゼネストを打つ力さえなかったし、今はもっとない。終身雇用は一部大企業を除いて崩壊した。この本では餓死はない、と書いているが、2014年には餓死は毎年何件も報道されている。そういう差異はあるにしても、気持ち悪いくらいに現代を予言しているように感じたのは確かだ。

 まず、この本は、戦後日本人の持つ鬱屈した雰囲気を表出しているのだが、それは今も続いているからだ。貿易立国であるということは、原材料を止められたらそれまで。何よりも「平和」と「信用」がなければ、貿易立国など不可能なのである。そのことに対する漠たる不安を抱えていない人は「おめでたい」。この本では、南米のデフォルトで平和と信用が崩壊し、日本が窮地に立たされる。勿論、様々な金融システムにより、ここまでひどくならない仕組みを構築しようとしているが、一皮剥けばこういう事態がないとは言えない。世界中で、特に先進国で債務危機が言われている現在の状況の「先」かも知れないという不気味さがある。

 さて、トウジ。唯一者たらんとし、それが全一的に可能な社会を求め、弱者のクレンジングを求めたが、しかし、巨大なシステムの崩壊という好機を利用するにしても、自らが狩猟社とクロマニヨンという組織=システムに縛られることになった。彼の言うエルクは、そんなシステムのことではないだろう。自然そのもののことであろう。中沢新一が『はじまりのレーニン』で描いた「ゾーエー」のことだろう。彼は、社会運動によくある逆説に嵌った。コーディネーター=ゼロの欲望の対象はトウジの巨大化だから、彼の作り出したシステムそのものと同化した瞬間が終点である。自殺したのは終点だからか。彼は幸せかもしれない。一方トウジは、自分自身がシステムと化し、曖昧な水滴に満ちてしまった。彼はそれに耐えられるのか? トウジは発狂するか、システムを極限まで推し進め、世界を滅ぼすしかないだろう。あるいは、別のシステムに敗北するか。

 人類が農耕を選んだのは、おそらくは狩猟の快楽よりも、生存の確かさを選んだからだろう。トウジも言うように、百姓は強者の遺伝子を受け継いでいる。時田の言うように、何が強者で何が弱者は本来決定できない。その時々の「自然=環境」に適応出来たものだけが強者なんだろう。とても相対的な何かだ。トウジは文明の利器で武装しなければ、今やハンティング出来ないのだ。
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