TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

大阪の子は10歳にして気づかされる

2008-08-05 07:59:48 | 幻論
 東京の人は活大人にして知る。しかも、多分、活動家のみかも。以下、『ゲバルト時代』(中野正夫著、basilico)p191より引用。1967年頃のお話かな。前にも書いたが、大阪人は大学時代学生運動に関わっても、解放同盟などがいたら、フェードアウトするのだ。「係わり合いになりたくない」と。

 この本、面白くて一気に読んでしまいそうだ。

 私にとってチョッパリの会は、朝鮮史、アジア史を学ぶ場であった。玉城氏をはじめ論客がそろっていて、話を聞いていると得るところが多かった。ただ、そこで交わされた「差別」という言葉には統一的な定義がなく、人の数だけ「差別」の概念があることに今になって気づかされた。またどのような実態を「差別」というのか、主観と客観がないまぜになって、差別されたと思うことが差別だ、などというひどい「差別」の定義がまかり通っているバカな世の中になってしまった。「差別」という葵のご紋を盾にして自分の利権を守る、同和利権やシタリ顔のエセ平等主義者もいるのが現在の状況だ。
 しかし当時においても「差別」狩りともいうべき状況はあった。何もかにも差別という一面からしかものを見ることがない怨念的反差別主義者たちには、その頃からオモテにこそ表さなかったが、私はむしろ反感を覚えていた。なぜなら、「お前は差別している!」と敵対者を恣意的に決め付けて糾弾すれば、それが金科玉条の正義になり、根本的にそれに反論できない者は総攻撃を受けることになるからだ。使う方が抑制しない「差別」とは、人を黙らせ善意の活動家を萎縮させるに便利な言葉であった。また使う側の思考停止をぶりをあらわす象徴でもあった。一九七〇年七月七日の華青闘による新左翼諸党派への「告発」事件もそのレベルの話だ。それ以来「差別」と言う言葉が口からやたら出てくるやつの話には、内心気をつけることにしている。
(中略)
 こんなことから「反差別」活動への深入りはヤバイな、と直感的に感じた。


(あと、金嬉老事件について)
コメント
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