草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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母親の呪いの言葉、オオカミに羊の番をさせることを選んだ国民とは、など

2015年07月25日 10時51分05秒 | 
 おはようございます。本当に例の夏が来てしまいました。連日熱帯夜のあの夏です。それにしてもわたしが少なくとも高校生の頃に今ほど熱中症で倒れる人がいたのか、少なくともそういうことが社会を賑わすニュースになったということはなかったと思います。
 竹の会の子どもたちはわたしの希望通りにきちんと勉強しているだろうか、気になります。希望は10時間です。しかし、最低でも5時間というのは、譲れないところです。前回の聴取では、4時間だ、などと口ごもりがちに言うのが怪しく、落胆させました。
 道を拓くのは、自分たちです。
 特に、中3に実施した社会の結果は、一人について、ショックでした。あれからいろいろな考えが頭を過ぎり、結局戦略的指示を出すこととしました。できなかった一人については、この夏は理科、社会をまず優先させることとしました。数学はかなり遅れていますが、都立をとるための戦略としてやむを得ないと判断しました。
 1日10時間なら理科・社会で6時間です。理科、社会は毎日6時間です。理科、社会で最初のV模擬で90点をとることを目標にしてください。理科、社会で都立への道を切り拓くのです。
 夏というのは、何か、達成すべきことを確実にやりあげることが大切と思います。英文解釈書を終わらせるとか、理科、社会を7回まわすとか、第1類7回目を終わらせるとか、とにかく具体的なことを一つ一つやりあげていくことだと思います。
 受験のこつに、できるかぎり「薄いテキスト」1冊にしぼり、それを何回も「まわす」というのが、あります。
 しかし、実際には、多くの受験生が、これとは逆のことをやっているわけです。
 大手などが用意するテキストは、網羅的でかなり厚いですよね。まず凡人は「これをすべてやらなければ受からない」と思い込み、自らを出口のない迷路に追い込みます。
 やりだしたらキリがないでしょ。よく受検ママが、大手のパンフを見て、「小石川そっくりコース」などという戯れ言に踊らされて、申し込むのも同じです。
 世の中そんなにうまい話しはない、よくできた話しほど胡散(うさん)臭いということです。
 人間というのは、実に暗示を受けやすい。特に、母親のような立場の人が、子どもに毎日のように語りかける言葉というのは、ときには、呪いの言葉として子どもを呪い殺すことだってある。
 たとえば、母親が、毎日「勉強しなさい。いい学校にいかないとろくな者にはなりませんよ」と子どもに語りかけているとする。まあ、そういうことを耳元でうるさく言う。耳元で毎日言えるのは母親だけですからね。そうすれば子どもは確実に生きる力が衰弱していくと思うのです。なぜって、母親は、暗に、「あなたが何を考えようと、何をどう判断しようと、わたしの言っていることは正しくて、あなたの考えは意味のないものだ」と語りかけているのですから、なんとも言いようのない呪いの言葉ではないですか。これは突き詰めれば「あなたには生きている理由がない」というのと等しい。
 そういう呪いを毎日のようにかけられれば生きていく気力もなくなるでしょ。
 よく「うちの子はやる気がない。無気力だ。怠け者だ」という母親がいますけど、そうなるように仕向けたのは、母親自身でしょ。「あなたには生きている理由がない」と幼いときから毎日のように耳元で言われ続けていれば、無気力になるのはあたりまえでしょ。
 世に親という者が、子に対するとき、親はあらゆることについて正解をすでに知っている、正解を知っている以上、親はことの理非の判断をあなたに委ねる気がない、という態度を示すものならば、それは呪いによる教育であり、その顛末は推して知るべしである。
 これは世にはびこる原理主義というのとよく似ている。
 原理主義といえば、イスラム原理主義という言葉をよく耳にするけれど、実は、わたしたちの世の中はどこもかしこも原理主義思想に満ちあふれている、とわたしは思っています。
 アメリカの南北戦争で北軍の大義は「奴隷解放」であったけど、この奴隷解放にしても、ひとつの原理主義といっていい。何が正義か、ここでは奴隷解放が唯一の正義とされたからである。奴隷解放、つまりは奴隷の命を助けるために、一方では、何万人もの南軍という名のアメリカ人を殺戮している、その殺戮が正義の名の下に正当化されている、というのはどこかトリックを感じないか。
 そもそも原理主義とは何か、である。
 原理主義とは、どこかに正義がある、その正義には誰もがしたがわなければならない、という考え、といっていい。
 統一教会などの宗教は、こういった思考をとるのが普通である。イスラムというのももちろん宗教における原理主義である。ちなみに、安倍首相は統一教会に属している。もちろん宗教に限らない。企業でも官庁でもありうる。社会も原理主義的なものをよく押しつけるということはある。
 原発再稼働も、原発反対も、場合によっては、原理主義に陥る可能性がある。安倍総理は反知性の旗手と言われるのはともかくとして、原理主義的な言動が目につくのは事実である。
 何かを主張するときに、いつしかそれが唯一だ、唯一の正しい思考だ、すなわた正義だ、とまで言うようになると、他の考えは一切拒絶するということになり、その頑なな態度が原理主義とみなされる。
 知性というのは、自分の思考の枠というものを柔軟に解体、再構成していく技ではないだろうか。
 わたしたちは、自民党というオオカミにわたしたち(羊)の番人をお願いしたわけである。
 民主主義ということが、オオカミの暴走の歯止めになるのか、ということが言われるけれど、民主主義というのは、多数の意見を政策とする考え方である。つまり、民主的な政策決定にはみなしたがわなければならない、という原理である。その結果、オオカミのなした犯罪的政策の結果、羊が死に、あるいは他国に損失を及ぼしたとき、国民全員がその責任を負わせられる、負わなければならない、という政治制度である。そもそも飼い慣らした、洗脳した少数の羊を総動員した選挙で多数をとってしまえば、その後4年間はやりたい放題に羊を食うなどということが、民主的な制度とはとても思えない。
 
 
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