草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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 絶対合格するという強い執念

2015年01月24日 10時25分22秒 | 
 おはようございます。昨日の指導には、小6のみなさんが全員参加してくれてほっとしております。桜修館女子の倍率が8倍ほどで去年の10倍までいかなかったようですが子どもたちには緊張するに十分な倍率だったことでしょう。不安になるの普通の感情なのでょうが、なに、気にすることはありません。そのうちの大半はまるで力がないのは相場であり、あなたたちのように厳しい高度の訓練を受けてきた子たちが気に病むことではない。富士の方は、男子4.7倍、女子5.8倍です。男子はやや下がりましたね。竹の会の子たちにはチャンスだと思いますよ。わたしの最高レベルのレジュメはこなせなかったとしても、全然問題ないでしょ。竹の会の厳しい訓練を受けてきたあなたたちには、他の子たちよりずっと思考力では上であり、実は有利なのです。
 マイケル・チャンの言葉
 結局、あきらめない人間が勝者になる

  執拗なまでもの合格への執念が、どんな場面にでもあきらめない強い意志をつくる。「解き直し」を繰り返すことです。納得のいくまで何度も何度も「解き直す」ことです。この単調な練習のくり返しこそが精神の安定をもたらす最良の方法なのです。
  わたしが、大学受験のとき、わたしはどれほど合格への強い執念をいだきつづけてきたことか。「必ず受かる」とわたしはいつも心に反芻し、くり返していました。11月に「受けろ」と言われて渋々受けた予備校の模試の成績は、九大どころか、大学受験そのものが無理なのではないかというほどひどいものでした。けどわたしはあきらめませんでした。勉強を開始したのが、10月です。できないのはあたりまえだと思いました。わたしは自分で決めた、合格に達するのに必要な基準を毎日休みなく8時間以上勉強に集中することを課して「繰り返した」のです。
 そのときにわたしが決めた基準は次のようなことでした。
 ○数学  Z会の「数1・数2B問題集」200問の理解 ※何十回繰り返したかわからない
 ○英語  赤尾の豆単の完全暗記(50回以上繰り返した)  原仙作の「英標」(何十回だったか、とにかく繰り返した)
 ○国語  古語2000の暗記  他はやっていない。 結局、古語の暗記は不十分でした。得意の現代文勝負でした。
 ○日本史 「山川用語集」の暗記  何回も繰り返し、覚えたらボールペンで黒く塗りつぶした
 ○世界史 「山川用語集」の暗記
 ○生物  数研出版の薄い定番の問題集のみ。ただし、やったのは例題のみだった。興味がもてなくて覚えるのが苦痛だった。メンデルの計算はこなした。
 以上です。
 わたしは毎日朝9時から12時、13時から17時、19時~21時 文机の左側に件の参考書を積み重ね、その日の予定のくり返しが終わると右へと積み重ねていきました。すべての参考書が右側につまれるとその日のノルマは終わりです。
 これをただ黙々と繰り返しました。紅葉の秋、師走のさまざまな行事、正月、すべてわたしには関係ないことでした。わたしは実家の三畳の部屋にこもり、ただ黙々とその日の日課を繰り返したのです。これは、年が明けて、1月、2月と変わることはありませんでした。2月は私大の受験たけなわですが、国立一期校、つまり九州大学しか受けない、わたしには関係のないことでした。3月3日4日5日の3日間にわたって九大の入学試験は実施されました。わたしは博多に旅館をとってもらい3日間試験会場のある六本松校舎まで路面電車で通いました。
 当時のわたしの憧れは、マカロニ・ウエスタンのクリント・イーストウッドでした。葉巻をくわえて滅法強い、ナイスガイです。わたしはともすれば萎えそうな精神のよりどころをあのスクリーンの中ですかっとする強いガンマンに求めたのかもしれません。孤独でだれひとりとして頼るものもいない、いつも相談するのは自分だけ、自分で考えて自分で実行し、どんな結果も受け入れるしかない、そういうことをすべて知っていた自分です。失敗すれ再び東京か、横浜でもう自分の人生は「ない」だろうと思い詰めました。冷たい父がどう言うかわかっていました。出て行くしかない、それは決意していました。模試で箸にも棒にもかからなかった、旧帝大の受験、ひとは無謀と笑うだろう、力もないのに受けるのかと嘲笑するだろう。
 でもわたしには執念があった。数学の200問すべての数式が頭の中でまるでメロディーを奏でるように流れるまでになったこと、問題を見ただけでびっしりとした数式がたちまち頭の中を流れた。英文は文体を見ただけで、作家の名前が出てきた。これはロバート・リンドの文体だな、オゥエルの文だなというのがわかるのだ。英文はそのまま頭の中で瞬時の同時通訳となって流れていくまでになった。覚えた英単語は1万語を超えた。ボールペンで塗りつぶしていった単語も頭の中では鮮明な印字として蘇った。完全暗記した2冊の山川用語集はぼろぼろだった。ボールペンで真っ黒に塗りつぶされた用語集。問題集も他の参考書も一切やってない。時間がなかったこともあるけれど、わたしは1つのことに集中したかった。1つのことを完全にしたかった。この中から出たならば絶対に答えられる、そう思うまで繰り返した。
 わたしは合格への強い執念をもって試験の日を迎えた。まだ暗い夜明け前の一番の急行で福岡へ行った。郷里の別府から3時間ほどだった。祖母と母がふたりがかりで朝食と弁当を作ってくれたっけ。
 旅館は国鉄経営。受験生であふれていた。わたしは工学部受験の子と相部屋だったことを覚えている。二人で相談して夜9時には就寝し、ぐっすり寝て試験会場へと向かった。大部屋では夜明けまで電気が明々とついていて、徹夜した者もいるという。はた迷惑な話である。
 相部屋の受験生にも恵まれてわたしは心静かに受験に専念できました。初日午前の数学がすべてを決める、それで瞬時に終わる、それは覚悟のうちでした。時間100分、わたしは最後の30分でどう解くか迷っていた2問を解ききった。「=0」と証明を書き上げると、試験終了の鐘が鳴った。薄氷を踏む思いでした。5問中、2問は解ききり、2問は時間のかかる代数的処理をとるか、なにかうまい解き方があるはず、と苦しんだ、5番の順列と組み合わせは小問2問に分かれ、1問は解いた。時計を見るとあと30分しかない。わたしは焦りながらも時間のかかる方法をとらざるをえなかった。長い数式を代入したり、とにかくA4の答案用紙にびっしりと書き、たしか楕円の問題だったと思うのだがなんとか終わらせて、残りの1問、これは証明の問題でやはりびっしりと計算して、最後は0になって証明終わりということで、15分で書き上げた。
 「できた」。試験が終わった後の正直な感想だった。難関の数学を突破したことで心は軽くなった。
 時折思い出すのは、国語が難問で、和歌を見て原典を書かせる問題が8問も出た。それも金槐和歌集といったマイナーな原典ばかりだった。国語は難問が出て救われた。得意の現代文で勝負できるのだから。日本史、世界史はほぼ9割以上をとれていた。
 3月15日合格発表。テレビ中継がはいり西日本1円に放送された。テレビ中継を見ていたのは祖母と母。ふたりは画面にわたしの番号を見つけて、ふたりで泣いたそうです。わたしは当日は大分市の映画館にいて頃合いを見て家に電話したのでした。
 「たけちゃん、合格したよ」。母が叫んだ声が今でも耳から離れない。一瞬時間が止まった。
 夜になって、いつもの三畳の部屋にぽつんといた。そしたらなぜか涙が流れてきて、止まらない。どうしても止まらない。あふれるようにながれてきて・・。
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