草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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祝と呪

2010年07月16日 08時13分58秒 | 
「祝う」と「呪う」って, 似てますね。どうも語源は同じらしいですよ。いずれも「名付ける」という意味ですよね。祝の場合, 昔は, 『徳川吉宗の一字「吉」を冠して「吉○」と名乗れ』などというように偉い人の名の一字をのたまわるのが栄誉とされた。これも実は名で縛る。もらった名を辱めてはならないと縛るわけです。
 呪の場合も, 名前で「縛る」。呪文で「縛る」というが, 「名付ける」ことはその名前をつけられた人を「縛る」。
 祝日というのは, 日を縛る。
 祝も呪も同じように縛るものだが, 祝はいい縛り, 呪は悪い縛りの違いとでも言おうか。
 私が, 「名付ける」ことは縛ることであり, 呪いをかけることだと知らされたのは, 小説「陰陽師」の中に出てくる安倍清明のセリフでした。これは鋭いと思いましたね。
 人間は, 風景だって, なんだって形のないものにも名前をつけて縛りをかけます。時間にだって「バブル期」などと縛りをかける。もうとにかく何でも名前が付けられる。
 歴史のテキストを開いてみると, これはもう名前だらけです。年号という機械的な名前から, 事件名, 人名, 土地の名, 政策の名前, 役職の名前ととにかく名前だらけです。金閣寺という名で縛られた建物は, 足利義満という名で「関係づけられる」。
 「名付ける」という縛りつまりは呪いをかけることから, 「関係づける」つまり名前と名前をつなぐ意味あるつながりが可能になる。
 学問というものは, 人間がものや現象などに名を付けて縛りつけた呪の世界を前提にして, 目に見えない, 形のない抽象的な「関係」すなわち「つながり」について, 法則を見つけようとすることなのかもしれない。
 子どもというのは名のもつ呪の世界からどうしても影響を受けてしまう。名から離れられない。子どもを, 名の呪縛からいかにして解き放つかが, 子どもたちを導く際の攻め所となる。
 子どもは, 大きい数÷小さい数 は理解する。が, 割合というのは, 小さい数÷大きい数 であることがほとんどである。子どもたちの脳の中では, 「大きい」数という呪縛, 「小さい」数という呪縛が絶対的です。混乱は, 大きい数と小さい数の「関係」を理解しきれないところからきています。子どもたちの脳の中では, 大きい数は小さい数の何倍かという比較がなされています。ところが, 小さい数は大きい数の何倍かという比較は, できないのです。いや, ありえないと思っています。「関係性」の理解がまだ名から切り離されていないのです。
 比較量÷基準量 という抽象的な関係のみを切り離して考えることができない。
 子どもの知能は, 名からの縛りがつまりは呪が少ないほど高いということになりますか。名に深い意味を求めない態度です。ところが, 現実の社会というのは, とにかく名にこだわる。姓名判断というのも名の縛りをことさら強調するものといえます。
 名に縛られているとものごととものごとの「関係性」というものを軽視しがちです。子どもが具体的なものの中でしかものごとを考えられないのは, まだものの呪縛が強すぎるからです。
 思考というのは, 名を記号化するくらいに考えていくこと, 名の呪縛から解き放たれることだと思うのですが, どうでしょうか。
 
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