ボクシングレヴュー

「TM」はタイトルマッチ、階級名につく「S」はスーパー、「L」はライトの略です。

辰吉丈一郎vsセーン・ソー・プルンチット

2002年12月15日 | 国内試合(その他)
初めは全く現実感がなかった。入場の時、足を滑らしてリングから落ちそうに
なった。辰吉も緊張している。しかし見ている方も緊張している。
1ラウンドが始まっても、今テレビの前で辰吉が動いていることが信じられず、
「あり得ない、あり得ない」とつぶやいていた。

この夜は、信じられないことばかりだった。1ラウンド開始30秒間は両者
様子見に徹したが、辰吉のあまりにも軽快なステップに驚かされた。
そして信じられないほど早くて力強いジャブがセーン・ソー・プルンチットの
顔面を捉えた時も、全く信じられない思いだった。

僕は結果を知ってから深夜の録画中継を見たのだが、6ラウンドTKO勝ちと
いう結果だけ聞いた時には、辰吉が体格の差を活かしてパワーで押し切ったんだ
な、と思っていた。しかし実際には、パワーよりも技術やスピードでタイの
元世界王者を上回っていたのだった。そのことに最も驚いた。

ありきたりな表現ばかりになってしまうが、それは3年4ヶ月もブランクのある
ボクサーの動きとは到底思えなかった。歴戦のダメージを完全に抜き、口だけ
ではなく想像を絶する緊張感を持って、密度の濃い練習をしてきたのだろう。
ディフェンスや距離感、試合運びの冷静さなどは、むしろ以前よりいいくらいだ。

辰吉と言えばガードが低いことで知られるが、今回の第1ラウンドはきっちりと
ガードを固め、またノーガードの場面でも丁寧に相手のパンチを外していた。
5ラウンドに辰吉のパンチでセーンがぐらついた時も冷静だった。やみくもに
責めるのではなく、相手にまだ力が残っていると判断するやすぐに距離を取る。

そしてまたジリジリと距離を詰め、全盛期に匹敵するほどの高速連打の嵐を
見舞う。あれは辰吉にしか、あらかじめ才能を与えられたボクサーにしか
出来ない芸当だ。ここまで復調することはもちろん、僕は辰吉がここまで凄い
ボクサーだとは思っていなかった。まさか3年4ヶ月ぶりのリングで、そんな
ことまで知らされるとは・・・。

確かにセーンの方には全盛期の力はなかった。会場の圧倒的な辰吉コールに
呑まれてしまった部分もあるだろう。ある時点から、セーンの眼は怯えていた。
打ち合いに応じたのは、元世界王者のプライドと、「このままでは殺される」
という恐怖心からだろう。

それはともかく、辰吉がここまで見事なカムバックを果たすとは、一体誰が
予想しただろうか。狂信的な辰吉ファンならともかく、マスコミやボクシング
ファン(僕も含め)は、みな悲観的な予想しか立てられなかったはずだ。
過去の名王者たちが、「余計な1試合」のために目や脳をやられてしまった
悲しい例を、我々は数多く知っている。今回の試合も、「辰吉時代の終焉」だけ
ならまだしも、辰吉丈一郎という人間の終焉さえ予感し、残酷なショーになる
ことを危惧した人だって少なくはなかっただろう。

だからこそ、この日辰吉が演じた復活劇は信じられない光景だった。大げさに
言えば、それは奇跡だ。こんなことの出来る人間はそうそういない。辰吉が
カリスマと呼ばれる理由が、ようやく分かったような気がした。