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【戦争孤児の数、隠した国】国策として学童疎開を推進してきた当時の文部省官僚は、校長等公務員に箝口令を敷き、孤児資料を焼却、隠蔽。疎開中の孤児はいなかった、とされてしまった。

2017-03-22 11:52:39 | 平和

 安倍・稲田・愛国カルトは自分達が特権的地位を維持するため、戦争の悲劇を隠蔽し、再度日本を戦時体制へ駆り立てる策謀を連綿と行っている。
 戦災孤児も隠蔽したきた日本政府。昨今も書類の処分で揉めている。都合が悪ければ、書類は捨てた事にして隠す。隠蔽体質は戦中も戦後も現在も本質的に変わっていない。

 「はだしのゲン」は原爆による直接的悲劇を描くと同時に戦災孤児達が団結して戦後を生き延びていく物語でもある。原爆投下によって、広島市では膨大な死者が発生した。疎開していた学童らは、そのまま戦災孤児となった。
 作者の中沢啓治氏は、戦後広島駅の前で、ドラム缶で焚き火をして、それらを幾重にも取り囲んでいた子どもたちが死んでいった事を語っている。
 女児は女衒に囲われて、女郎として売れられ行ったが、男児は生きるすべなく死んでいった。

 日本政府は1945-1949年の餓死者数を発表していない。

以下転載
戦後、東京の上野地下道は戦争孤児であふれ、大勢の子どもたちが餓死・凍死しました。1946年8月23日の第90回帝国議会で、布利秋議員が「子どもが刻々と死んでおる。戦争孤児の対策は、どうなっておるのか」と質問、国は「戦争孤児は、3,000人。慈善事業が保護している」と答弁しています。それを国民は信じていました。
ところが、路上生活の孤児の多さに驚いた米国占領軍に命じられた当時の厚生省が1948年、全国一斉孤児調査をした結果、123,500人も戦争孤児がいたことが判明しました。厚生省は、この事実を隠蔽、50年後に見つかりました。
戦争中、都市に住む小学生以下の児童は、親元を離れ地方へ学童疎開しました。その疎開中に都市空襲で家が焼かれ、親・家族が殺され、帰る場所のなくなった孤児が非常に多く生じました。
国策として学童疎開を推進してきた当時の文部省官僚は、校長等公務員に箝口令を敷き、孤児資料を焼却、隠蔽。疎開中の孤児はいなかった、とされてしまったことも、60年後に判明しました。
隠蔽され、見捨てられた孤児たちは、路上で餓死、凍死した以外も、人身売買されたり、路上生活者になったり、過酷な人生を送りました。
12万人以上いた戦争孤児をたったの3千人と平気で国会で答弁するなど、昔から都合の悪いことは隠す国・官僚。
その上さらに「特定秘密保護法」が施行されれば、ますますウソがまかり通り、真実が闇に葬られ、うっかり話をすれば逮捕される、恐怖、暗闇の世の中になるでしょう。
金田 茉莉さん(78歳) 投稿
東京新聞2013年12月11日朝刊
Nishio Noriaki様の2013年12月11日 23:17 の記事より·
「戦争孤児の数 隠した国」
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1454075457970691&set=a.174417652603151.39711.100001047515108&type=3&theater
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