田神六兎の明るい日記帳

田神六兎の過去、現在、そして起こるであろう出来事を楽しく明るくお伝えします。

終戦の日

2017年08月15日 | 日記
 昔々、オイラが子供の頃、オイラの記憶違いかもしれないが『終戦記念日』って言っていたような気がする。確かに、終戦が記念であってはならない。ただ子供の頃は戦争体験者が多く、この時期になると戦争の話が多く聞けた。
 
 大人たちは「戦争が終わってほっとした」「こんな山の中、上から見えやしないのに、空襲警報で逃げ回らなくて良くなったのが嬉しかった」と話してくれた。ただ、戦争で夫を失った妻や、片足を無くした男の前では、決して戦争の話はしなかった。
 
 山奥の村、暑かった昼も夜は涼しく、少しでも風があると、肌寒さを感ずるほどだった。父母と私の三人が、テレビの終戦特別番組を見ながら「○○さんもムダ死だった。あんな戦争、勝てっこないないのに、無茶な戦争をしくさって」と軍部批判。母は「だが、△△さ(○○さんの未亡人)は恩給で楽に暮らせる」と貧しい村でのお金の話、聞くたびに悲しかった。
 
 終戦の日の今日、小林麻耶さんのブログ『18歳 回天特攻隊員の遺書』を読んだ。私の18の夏の記憶。大学の夏休み、アルバイトも盆休みだった。アルバイトの友人と、近くの温泉街へドライブ。温泉街の記念館に回天の模型と展示があった。回天を創案した責任者の一人が温泉街の出身者であることが記してあった。自らも搭乗して訓練中の事故で殉職、22歳であったそうだ。
 
 記念館の展示目的がわからず、妙に腹立たしく悲しい記憶がある。「戦争など起こして欲しくない。核兵器だけではなく、殺傷能力のある兵器や武器などいらない。使うくらいなら死ぬほうがましだ」と青臭い18の思い出。
 
 それから50年、68歳の夏、世界は再び、きな臭くなってしまった。私の青臭さも色あせた。いったいどう考えれば良いのだろう。戦没者を弔う言葉に敗戦の苦しみが語られる。勝った国から苦しみの声は無い。ますます分からぬ。