田神六兎の明るい日記帳

田神六兎の過去、現在、そして起こるであろう出来事を楽しく明るくお伝えします。

偉大な俳優の死

2014年11月24日 | 日記
 偉大な俳優高倉健さんが亡くなりました。大騒ぎの世間を見て疑問に思うことがあります。昭和42年、43年頃のことです。大学の講義が連続で休講になりました。学内ですることも無く、帰路の途中で映画館へ立ち寄りました。普段は見なかった仁侠映画がかかっていました。当時は平日の午後でも観客は多く、客席の半分は埋まっていました。空席が多かった中央の前ほどに座わりました。当時は入れ替えも無く、2本立て3本立(関連の無い3本の映画を連続映写)で、時間さえあれば、いつまでも映画館に居られました。冷房目当ての豪華な昼寝を楽しむオヤジのいびきなども聞こえていました。

 
 任侠映画と言えば聞こえが良いのですが、やくざ映画の浪花節です。「玉を取った取られた」の極めて単純な映画だったような気がします。映画館に入った時に上映されていた映画が終わり、街の商店のPRスライドも終わり、メインの任侠映画に入ろうとした時、ドヤドヤと集団が入場して来ました。見るからに悪そうな男達の集団でした。「アニキ、ここへ・・・」アニキと言われた男はその言葉を無視して私の方へ来ます。それを察した子分の一人が「兄チャン席空けてくれ」って私の手をつかんで通路へ押し出しました。それほど観たい映画でもなかったし、それよりも男達の凶暴さに度肝を抜かれ、そそくさと最後尾の一段高くなった席へ移動しました。

 
 映画が佳境に入ると、男達の中には座席に正座するのもいました。手の甲で目をぬぐう者、感動的な演歌のBGMでは拍手する者さえいました。そしてアニキをガードしながらの帰り道は、入場とは大違いで「堅気の皆の衆、道をあけてくだセイ」と言わんばかりの、ひどく頭が低い集団になっていました。

 
 この光景が強烈に脳裏に残り、高倉健さんイコールヤクザの俳優さんのイメージがどうしても消えず、その後、健さんの映画を見ることはありませんでした。配役のイメージと演者の人柄を見誤る例ですね。

 
 遺作の映画では刑務所のシーンがありましたよね。役造りに訪れた某刑務所の知人が、「健さんがお礼に来てくれた」ってひどく感激して語ってくれましたが、映画も商品ですから、お礼で済むことだったら安いものです。現実の高倉健さんも、高齢な俳優さんの一人だった、と思うのは私だけでしょうかねぇ~?。斜めから見すぎかなぁ・・・。