続・蛙独言

ひとりごと

「東武」でのこと。

2010-05-23 18:11:17 | 日記

面白い話は一杯あるのだけれど、ブログでは「なかなか書けない」ことも多いのだね。
プライバシーってこともあるし、「文章」だと「面白さ」が全然伝えられないってこともある。
「蛙に会って一杯やりながら話してたらそりゃ楽しいだろうなぁなんて思うんだ」というのは、ちと、言い過ぎかしらん?

ブログなんてのをやってると「なんか書かにゃ」って強迫観念に囚われたりするとこあるし、「こんなこと書いちゃぁいけんでしょうが」なんて思い悩むことも多いわけだ。

今回は、その「難しさ」をかいくぐって、一発。

その時、蛙は「東武」で「上野」に向かっていたんだね。
電車には娘のまぁちゃんと仲良しのマナミちゃんと一緒だった。
娘は「7か月」の「おなか」を抱えてだし、マナミちゃんも「レディ」のはしくれなんだから、席に座ってもらっていて、蛙は「優先座席」の近くで立っていたんだ。
で、この「優先座席」に座ってた若い女の子とばばァ。
婆「携帯の電源、切りなさいッ!」
女「何言ってんだよッ!こりゃ携帯なんかじゃないよッ!」
婆「何でもいいから切りなさいッ!」
女「バッカじゃねぇかッ!警察でも何でも呼びゃいいじゃんッ!」

蛙としては、キンキン声でがなりたてる婆ァにもムッとしたけれど、年寄りはだいじにしなきゃなんて思うから、「ねぇちゃん、あっちの席にかわったらッ」って声をかけたんだ。
そしたら何を思ったか、婆ァは「味方が現れた」と勘違いして「それみたことかッ!この中国人めッ!」ってのたもうたんだ。

こうなりゃ蛙も黙ってはいられない。
引き続き30分ばかり、この糞婆ァと蛙は怒鳴り合いってことになった。

後して思えば、この若い娘さんが持っていたのはiPodだったようだから、彼女の言うように警備員を呼んで始末をつけてもらった方がよかったかも知れない。
デジタルデバイドって話だったろうね。

蛙「何だいッ!その中国人ってぇのはッ!この人が中国人かどうか、何で分かるんだよッ!」
婆「そりゃそうでしょ。こんなルール違反をやるのは中国人ってことよッ!あの『毒入り餃子』を作るような連中なんだからッ!」
蛙「おめぇ、バッカじゃねぇかッ!中国人がみんな『毒入り餃子』作ってるわけねぇだろッ!中国人なら皆ルール違反は当たり前みたぁに言うのはそりゃ差別じゃねぇかッ!」
婆「差別じゃありませんッ!ここは日本。ちゃんとルールを守ってもらわないとッ!」
蛙「おめぇ、中国人は皆ルールを守らないって言ったじゃねぇかッ!それが差別だと言ってるんだよッ!」
婆「ここは日本。中国人も朝鮮人もアメリカ人も誰もかれもルールを守るべきなのッ!差別なんて言いがかりですッ!」
蛙「おめぇ、自分の言ってること、分かってねぇんじゃないかッ!ルールを守らないのは中国人って言ったんだぜッ!悪い人間は中国にだっているし日本にだっているんだわッ!中国人とか朝鮮人とか、そんな言い草が差別だと言ってるんだッ!」

こんな「遣り取り」の怒鳴り合いになったんだけど、話が朝鮮人差別に及んで、この糞婆ァは、バックからヨレヨレの「記事」を取りだして来て
婆「これは、朝鮮の外交官が書いた文書なんですよッ」
といって「サンケイ」か「文春」の「ヨタ記事」だろう、「朝鮮を日本が『併合』したことは欧米からの侵略を防いで民族の尊厳を守ることに結果した」ちゅうような雑文を滔々と読み上げたのだ。

蛙「どこにでも居るんだよ。民族と国家を売ってでも、のうのうとしているような恥知らずな人間はッ!そんな糞馬鹿の言い分を真に受けてちゃ通らないッ!おめぇみたぁな馬鹿がいるからこの国はどんどん悪くなっちまうんだッ!てめぇなんか、おッ死んじまやぁいいんだッ!」

外野席で娘とマナミちゃんはケタケタ笑ってたみたい。
周りの乗客も蛙と糞婆ァの遣り取りを「吉本新喜劇」みたように愉しんで聞いていたらしい。

この糞婆ァ、日暮里でシラーッとした風に降りていったが、「言いたいだけの差別・排外主義のことば」を怒鳴り散らしてってことだったから、気分はスッとしたことだろうね。

歳はゆうに70を超えていたろうが、こんな輩には「変わってもらえる」ようにはとても思えないから「早く、おっちんでもらう外ない」と蛙は思う。

娘に言わせれば「ウチでも皆から蔑まれて、孫なんかからも『おバァは嫌いッ!』なんて言われてるような可哀そうな人なんかも知んないね。」

こんな馬鹿に、こんな風に『遭遇する』ちゅうのも滅多には無いことだろうね。


「平和」に向かうには。

2010-05-22 10:45:52 | 日記
2001年9月11日、WTCツインタワー爆破事件の第1報に接した時の蛙の反応は「アメリカ自身の自作自演ではないか」ということだった。
大勢は「アルカイダの犯行」ということになっていて、その後のアフガニスタン戦争に道を開くことになったのだけれど、「意図的な見逃し説」「ユダヤ陰謀説」等々、今なお「真相」は明らかではないと思う。
世界に本当の平和が訪れる日があるとすれば、その時初めて「事実」が分かるだろう。
問題は、「ある事件」が起こったとき、そのことによって「誰が一番得をするのか」ということだ。
多くの人々は「アメリカは困った国だけれど、その『民主主義』は大したものだ」ということを言われるが、蛙は信じない。
「その国」の「建国」が「ネイティブアメリカン」の大量虐殺の上にあったのだという「自覚と反省」がアメリカの大多数の人々のものとならなければ、一切は偽善なのだ。
例えば「アメリカは銃社会」だと言われるが、それは「その建国がどれ程血塗られたものであったか」という「後ろめたい深層心理」が彼らアメリカ人のバックボーンにあるから、「銃を手放すこと」ができないのだ。
「暴力によっては真の自由は得られない」
アメリカは「自由の国」では決してないのだッ!

鳩山君は「海兵隊は『抑止力』である」ということを「学んだ」のだそうだが、これ程馬鹿げた話はないだろう。
「韓国哨戒艇爆破事件」は、今のところ「北の犯行は明らか」ということであるらしい。
蛙も色々考えてみたが、フツーの人間が手にする情報は限られているわけだから、「論評」は難しい。
「共和国・〈北朝鮮〉」という「国」そのものが理解の限度を超えているということもある。
「キムジョンイルの後継指名問題」とか「軍の威信回復」、或いは「食糧事情」を中心に「〈北〉の社会の危機的状況」等など、様々な分析が為され、緊張を創り出すことによって「国論」を統合していく作戦なのではなかろうか、というのが大勢の考え方のようだ。
中国は、〈北〉が崩壊をして米韓と直接国境を接することを嫌うから「なんとしても〈北〉を守らなければならない」。
それだからキムジョンイルの「冒険主義的」な「暴挙」は「計算されたもの」であり、急遽の「訪中」は「プログラム内」のことだった。
「全面戦争も辞さず」と口では言いながら本音のところでは「そんなこと」はぜひとも避けたいと考え、この状況でも「最大限の支援」を獲得できるはずだという「考え」だというのだ。
蛙は「キムジョンイル氏には退場してもらおう」と思うけれど、このような独裁者が権力を維持できるのは、「世界の覇権を握るアメリカ帝国主義の基地が、その砲頭を共和国に向けていること」という「事実」によってもまた支えられているのだ。
それだから、この独裁者を「私たち・日本人もまた<間接的>にではあるが支えている」ということになるのだ。

海兵隊には帰ってもらおう。
「日米安保」は廃棄して「相互平和条約」として結び直そう。
「日中・日韓・日朝相互平和条約」を締結しよう。

そういう努力だけが、この独裁者の退場を促す最大の〈力〉なのだと蛙は思う。

世界平和は、武力では築けない。
平和を望む民衆の団結だけが<それ>を可能にするのだ。

「狭山」

2010-05-18 18:29:39 | 日記
5月12日の「狭山中央集会」には勿論、蛙も参加していた。
集会自体は「重大な意義」を持つのかどうか蛙には分からないが、「狭山」に「想い」を賭ける多くの人々にとって、「日比谷」に結集をして互いの意思を確認し合うという点では大切な集会ではあったろうと思う。
「解放運動」が「腐ってしまわない為には〈狭山〉こそが決定的に重要な闘いなのだ」ということを一貫して主張してこられた西岡さんも元気な姿を見せておられた。
この集会は、裁判長の交代を受けて後の「三者協議」に一定の圧力を、という狙いで開かれたものだが、高検は「証拠開示」に渋々応じている。
最も重要であろうと思われる点は「不見当(見当たらない)」として逃げたけれど、「再審決定」に結べるかも知れない「証拠」が開示されたことは、半歩か一歩か、よく分からないが、取り敢えず「よかった」というところだろうか。
15日には「ドキュメンタリー宣言」・「"見えない手錠をはずして…"狭山事件、48年目の真実」がテレビで放映されたようだが、関東限定ということだったから、蛙はこれを見ていない。
いづれ、録画されたものを見る機会はあるだろう。
この番組の制作にあたられた「ディレクター 飯村和彦」さんが、「編集後記」を下記に記されている。ご一読いただきたい。
http://www.tv-asahi.co.jp/d-sengen/contents/diary/cur/index.html

「狭山」の闘いは、「権力の差別性」を問う闘いであったから、これ程にも困難を強いられたのだと蛙は思う。
日共は「単なる冤罪事件」として「権力におもねる」ような路線を主張し、かてて加えて「日本のこえ・憎し」などという党派事情を重ねながら「戦線逃亡」を図ったのだ。
こんな馬鹿げた「政党」が存在し得ることが、蛙には全く理解できない。

五木寛之のこと

2010-05-17 18:36:43 | 日記
蛙は五木寛之の本をたくさんは読んでいない。
せめて「青春の門」くらいは読んでおいてもいいんだろうけれど「その気」になれないのは、随分昔に「戒厳令の夜」を読んで「こりゃ、あかんがな」って思ったせいだろうね。
よく覚えていないのだけれど、「話」としてはとても面白い展開だったようには思う。
「駄目だ」と思った理由は、「山窩(サンカ)」の取り扱い方だ。
権力側から逃れるために、「山窩」によって「日本国」に張り巡らされている「秘密の街道」が主人公を救うッてなことだったように思う。
「おいおいッ、そりゃないだろッ!」つうて蛙は思った。
「小説」だからといって「何でもあり」ってなことにはならない。
まずそれは「事実」からかけ離れている。
これだと、「この国には一般に知られていない『被差別民』の世界がある」という幻想を振り撒くことになるではないか。
「山窩」は三角寛によって非常な「差別的まなざし」で見られるようになったのだ。
五木のは明らかに「差別小説」だと蛙は思う。
一般にある、「被差別民」の「現実」を知らぬままに「好き勝手に」幻想をこさえあげる、そういう態度が許せない。
今、少し古い「本」だけど、「他力」ってのを読んでいるところだ。
五木は「親鸞」がらみでたくさん「本」を書いていて、それらを全て読んでいるわけではないけれど、「ちょっと違うだろう」と思うんだ。
一番気にいらないところは「日本人は天皇が好きなんだ」っていうところ。
バッカじゃねぇかって思う。
人は誰もが、自身の立場から「ものを考える」のだけれど、五木にしてみれば「天皇」がいたって「自身の生き方」にちっとも差支えが無いわけだ。
私らは違う。
松本さんは「貴族あれば賤族あり」と言ったのだ。
「生まれながら」にして「天皇」などという「身分」があるのだとすれば「生まれながら」にして「」もまたあってしかるべきということになるではないか。
松本さんは「天皇は伊勢神宮に帰られて禰宜としてお暮らし為されるがよろしかろう」と言ったのだけれど、全くその通りだ。
五木の「親鸞理解」は当たっているところも無いではないが、肝心なところが外れだと蛙は思う。
親鸞は自身を評して「愚かな禿げ坊主であり我程の悪人はいない」と言っている。
その「時代」は騒乱や飢饉でシカバネは累々と積み重ねられていたのだが、彼は「その状況」に「何ごとも無し得ない」自身の無力さと、人々の報謝に支えられて生きているだけの「知識人」であることの「罪深さ」を腹の底に据えていたのだと蛙は思う。

五木の「生き方」を蛙は知らないが、「物知り顔」に「本」を書いてるだけ、「自分程賢い人間はいない」などと思っているような人間なのではないか、蛙にはそのようにしか見えないのだね。

何でも知っておかなくっちゃ。

2010-05-11 18:41:12 | 日記
最近、雑用で相当忙しかったのだけれど、蛙のような「たわいもない」人間にとっては「歴史を動かす」ような話にはならないわけだ。
その「雑用」が、それなりに幾人かの人の役に立つようなことであれば「それでよし」というところだね。
それでも、蛙のように「幾人かの役に立つような仕事」が幾千万人かの人々によって担われていけば、ちっとは「マシ」な「世の中」になって行くのだろうなどという淡い想いはあるよね。
殆どの人は「世の中の仕組み」がよく分かっていない。
というよりも「知らされていない」というべきか。
蛙は思うのだけれど、高校までの教育で「生きていく上で必要な知識」は必須のこととして子どもたちに伝えていく、そういう作業が疎かにされていて、「学業」が全てみたぁなのはいただけないってこと。
「憲法」や「司法制度」や「税制」や「年金」、「福祉制度」などなど、誰も教えてくれなかったから、蛙はみな自分で学んだったんだ。
色んなことを皆が知っていれば、「とことん」のところに行き着く前に「打つ手」はある。
大概、蛙の処にくる「相談」って、「おいおいッ!こんなことになる前にもちっと早く来てくれよッ!」つう話が多い。
「依らしむべし知らしむべからず」ってのが、この「国」の教育の世界だって蔽っているんだわ。
一番「何も知らない」のはガッコの先生だって蛙は思う。