続・蛙独言

ひとりごと

五木寛之のこと

2010-05-17 18:36:43 | 日記
蛙は五木寛之の本をたくさんは読んでいない。
せめて「青春の門」くらいは読んでおいてもいいんだろうけれど「その気」になれないのは、随分昔に「戒厳令の夜」を読んで「こりゃ、あかんがな」って思ったせいだろうね。
よく覚えていないのだけれど、「話」としてはとても面白い展開だったようには思う。
「駄目だ」と思った理由は、「山窩(サンカ)」の取り扱い方だ。
権力側から逃れるために、「山窩」によって「日本国」に張り巡らされている「秘密の街道」が主人公を救うッてなことだったように思う。
「おいおいッ、そりゃないだろッ!」つうて蛙は思った。
「小説」だからといって「何でもあり」ってなことにはならない。
まずそれは「事実」からかけ離れている。
これだと、「この国には一般に知られていない『被差別民』の世界がある」という幻想を振り撒くことになるではないか。
「山窩」は三角寛によって非常な「差別的まなざし」で見られるようになったのだ。
五木のは明らかに「差別小説」だと蛙は思う。
一般にある、「被差別民」の「現実」を知らぬままに「好き勝手に」幻想をこさえあげる、そういう態度が許せない。
今、少し古い「本」だけど、「他力」ってのを読んでいるところだ。
五木は「親鸞」がらみでたくさん「本」を書いていて、それらを全て読んでいるわけではないけれど、「ちょっと違うだろう」と思うんだ。
一番気にいらないところは「日本人は天皇が好きなんだ」っていうところ。
バッカじゃねぇかって思う。
人は誰もが、自身の立場から「ものを考える」のだけれど、五木にしてみれば「天皇」がいたって「自身の生き方」にちっとも差支えが無いわけだ。
私らは違う。
松本さんは「貴族あれば賤族あり」と言ったのだ。
「生まれながら」にして「天皇」などという「身分」があるのだとすれば「生まれながら」にして「」もまたあってしかるべきということになるではないか。
松本さんは「天皇は伊勢神宮に帰られて禰宜としてお暮らし為されるがよろしかろう」と言ったのだけれど、全くその通りだ。
五木の「親鸞理解」は当たっているところも無いではないが、肝心なところが外れだと蛙は思う。
親鸞は自身を評して「愚かな禿げ坊主であり我程の悪人はいない」と言っている。
その「時代」は騒乱や飢饉でシカバネは累々と積み重ねられていたのだが、彼は「その状況」に「何ごとも無し得ない」自身の無力さと、人々の報謝に支えられて生きているだけの「知識人」であることの「罪深さ」を腹の底に据えていたのだと蛙は思う。

五木の「生き方」を蛙は知らないが、「物知り顔」に「本」を書いてるだけ、「自分程賢い人間はいない」などと思っているような人間なのではないか、蛙にはそのようにしか見えないのだね。