所在地 旧杉山家住宅 大阪府富田林市富田林町14-31
「寺内町センター」の前にある、杉山家は富田林寺内町の創設にかかわった旧家の一つであり、江戸時代は造り酒屋として栄えました。現存する家屋は寺内町で最も古く、江戸時代中期の大規模商家の遺構として、国の重要文化財に指定されています。
石上露子は本名杉山孝。明治15年(1882年)、南河内一の大地主・杉山家の長女として生まれました。幼時から古典や漢籍、琴などに親しみ、二十歳頃から『明星』などに短歌,詩、小説などを発表しました。「雅号は夕ちどり」です。
入館料 ¥400
重厚な構えの玄関を入るとまず目に付くのが黒漆喰の大きな竈(かまど)です。屋根の上には竈(かまど)の煙を出すため越し屋根(煙だし小屋根)が設けられています。
格子の間です。正面の墨蹟(額)は山岡鉄舟筆で右から「生前富貴学頭露身後風流怕上花」明治時代に山岡鉄舟が杉山家を訪ねて、「杉山家の為(左端)」に書き残した作品です。
ここは、仏間です。仏間に掲げられた扁額で、いかにも一向門徒らしい巨大な仏壇で仏間の板戸の絵も渋いですね。
旧杉山家の内側から見た防犯のため塀に造られた、忍び返しです。
「大床の間」の 襖絵は、千鳥が舞う様子を描いた襖絵で石上露子のもうひとつのペンネーム「夕千鳥」の名前は、この絵の題材に由来しているとも言われています。
仏間に続く大床の間で障壁画「老松図」は、文化文政期(1804-1829)に狩野杏山守明によって描かれたようです。大床の間 (能舞台を模して造られた)柱は細くなり京風の優雅な建築様式を見せており、二間幅の大床の床板は欅の一枚板を2枚並べています。
庭園は、外部空間の仕切りで、または目隠しとして設ける垣。竹、萩、黒文字などを用いて造られています。
ここは、旧杉山家の厠(かわや)です。数寄屋風便所の入り口で、木製便器が使用され竹のスノコが渋く徹底した数寄屋風ですが、残念ながら現在は使用禁止です。
枯山水形式の庭園で庭越しに見える奥の建物は酒造業で栄えた酒蔵です。
回遊式庭園を望みながら歩くことは心が癒されることでしょう。
この座敷にも狩野杏山守明筆の山水画が「床刺し」の珍しい天井(天板が床の間に直角に向いている(天板が床の間に直角に向いている)です。
この部屋には、タンスが2棹(さお)置かれています。
旧杉山家住宅に伝わる直径90センチの大きな太鼓があります。
狭い階段を2階にあがると、襖が外され、赤い絨毯(じゅうたん)を敷いた大きな部屋になっていて、杉山家に関する展示品が多数並んでいます。
2階から覗いたモダンな螺旋階段で明治時代にこの家に生まれた明星派女流歌人 石上露子が改築して設けたようです。
石上露子が好んだ茶室で、京都の閑休庵(武者小路流)を模したと言われます。
蔵の内部には、石上露子の手紙や生活様式などが資料として公開されています。
蔵の内部に展示されいる籠が、だれが乗っていたのでしょうか。
明治の末に活躍した「明星」派の歌人、石上露子(いそのかみつゆこ、本名は杉山タカ)はこの杉山家の出身です。旧家らしく伝統的なたしなみを身につけるとともにミッションスクールに学ぶなど新しい文化や思想にも影響を受けた彼女は、つぎつぎと短歌や詩を発表し文壇に注目されましたが、26歳で家の後継の道を選択ししばらく執筆活動を中断。このころの作品「小板橋」は、当時の文学青年や詩人に広く愛読されました子育てが一段落したころから再び作品を発表しましたが、やがて大戦に突入。また夫や長男の死など波乱のなか、昭和34年享年77歳で生涯を閉じました。富田林寺内町は、多くの歴史を持つ建屋あり感激しました。
次回をお楽しみに では またね
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