治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

支援と制度、連携と支配、妄想と現実の違い

2018-05-21 09:29:38 | 日記



みるさんはギョーカイに反旗を翻したのに、なんか公的支援が更新できたらしい。当たり前である。ギョーカイに反旗を翻した程度のことで行政からの支援が打ち切られるのならその方がスキャンダルである。でもみるさんは何度も繰り返すように半ば無理矢理支援校に送られ、勉強の機会がなかった。日本国の成り立ちを系統的に習っていない上に自閉っ子らしくハイパーりちぎだから「私たちは行政と連携している」というギョーカイトークを真に受けたのであろう。そして別に支援校じゃなく普通の高校から大学、ひょっとしたら大学院まで出ていても「ギョーカイに逆らうと色々損をする」と思って黙って唇噛みしめ飼い殺し支援に我慢している人は相当数いると思われる。本当は逆らうことこそ生きやすさにつながるのに。今日はその人たちに社会科で得た知識をどう使うかを書こうと思う。「せごどん」を題材に使う。

昨日の「せごどん」を見ていて、「ギョーカイに逆らうとまずいかも」というありえない恐怖感は歴史の中から必然的に出てきたのだろうなと思った。まず薩摩による奄美支配。あれは欧州列強がアフリカに侵出して自己中な要求をつきつけ結果現地を飢えさせたのとまったくおんなじ構図である。現地の人の食い扶持を考慮せず自分たちの利益を優先して何を作物とするかを押しつける。そういう支配者に逆らうと実際に命をなくすから被支配者は従う。けれども今は違う。自分たちの食い扶持のために治さず伸ばさず飼い殺す支援者にノーをつきつけても決して命を奪われることはない。そんなんで命を奪ったらその支援者が罪を背負う。

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第199条
人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。

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である。
だから、ギョーカイが自分たちの食い扶持のために制限された生を当事者に押しつけるのなら、ノーを言えばいいのである。

江戸時代はまだ野蛮な時代で、権力者は恣意的に人の命を奪えた。井伊大老が西郷と月照を追いかけさせたのだって「自分と違う後継者を推した」というめちゃくちゃな理由である。今はモリカケで大騒ぎしている。それくらい権力者の恣意性には厳しい。封建制のもとでは肥大していた権力者の恣意性を制限し制限しまた制限するために日本は法治国家になった。なのに未だに江戸時代の被支配者気分で唇噛みしめ上には逆らわない人は、はっきりいってバカである。

そして薩摩による奄美支配のようなことが現代に起きると思うだろうか?
たとえば神奈川県が小田原市民にかまぼこによる納税を強いる。小田原に生まれたが最後、生涯かまぼこを作る運命を押しつけられる。そうしたら「からだ指導室 あんじん」はなく、皆さんの睡眠障害や感覚過敏は一生治らなかっただろう。栗本さんという貴重な人材を一生かまぼこ作りにしばりつけたかもしれないのである。薩摩の奄美支配とはそういうものだ。

たとえばそこで栗本さんが身体方面への思い断ち切りがたく静岡県に逃げたとする。それは江戸時代なら「逃散」と呼ばれ処罰の対象になった。人は生まれた土地に一生縛り付けられ年貢を納めさせられたのである。一地方の殿様がいばりくさって恣意的に政を行うことは廃藩置県で不可能になった。斉彬公には重用され久光公には島流しされるようなそういうお殿様による気まぐれは明治維新できっぱりと禁じられたのである。なのに未だに「この人ににらまれると怖い」とびくびくびくびくして「好きな道を選べない」人があまりに多い。平成の日本では、好きな道を選べないのは他の誰かのせいではない。自分の勇気と(もしかしたら)実力が足りないだけだ。

それに、現在移動の自由を日本国民は保障されているのである。なのにいつまでも不本意に地元にいる人は現代人であることを享受していないのである。地元が好きなら地元にいればいい。でも地元がいやならさっさと好きな土地に移ればいいのだ。

ところがまだ藩に支配され、その藩は幕府に支配され、という世の中の構造のときのままのメンタリティを引きずっている人が多い。そういう人は無駄に不安を感じているだろう。この不安解消に必要なのは社会科のお勉強であって、薬がなくても治るかもしれない。身体アプローチも取り入れたら鬼に金棒ですな。

ギョーカイは「行政と連携している」というだろう。そうやってふかしているのである。いきがっているのである。「俺様すごいんだぞ」と言って、社会科に弱い当事者保護者を心理的に威圧しようという作戦だ。そして行政はたしかに個々の分野での専門性はそれほどないので、ギョーカイを頼りにしているだろう。でも今は中央集権なのだから、地域による恣意的な運用にはかなり制限がかけられている。逆に、行政がギョーカイの言いなりだったらその方がスキャンダルなのでそういうケースを見たら教えてね。晒しましょう。ていうか、ギョーカイが行政を支配していたら『発達障害、治るが勝ち!』のP110のような事態になりますかね? 

ギョーカイは行政と連携しているかもしれない。でも決して行政を支配してはいない。それを知っておいた方がいい。



そして行政が提供するのは制度であり、ギョーカイが提供するのは支援である。制度と支援の違いをはっきりわからない社会科の苦手な人たちも多いようだが(とくに猿烏賊方面)私がこよりさんの本に『支援者なくとも、自閉っ子は育つ』というタイトルをつけたのは、こよりさんのおうちが支援者のもたらす害を上手によけながら制度はしっかり使ったから賢いと思ったのである。制度は大事である。いや、制度を利用しないですむ人は利用しないですむようになるという方向性もあり、っていうかその方がおそらく自由度や得られる生涯賃金は変わる。けれども必要な人が制度を利用するのは結構なことである。いかに支援を使わず制度を利用するか。主体性が問われるところである。

支援と制度は区別しよう。連携と支配も区別しよう。制度構築のための活動は悪いものではない。でも支援が増えれば生きやすくなるというのはウソである。ギョーカイは行政と連携していることもあるだろう。けれどもギョーカイは行政を支配していない。じゃないと治るが勝ちP110みたいなことは起こらない。そしてギョーカイ人の妄想と現実を区別しよう。彼らが連携と支配の区別がつかず、役所に行って言うこと聞いてもらえることを「行政はこっちの言いなりだ」と誤解しているのなら、それは妄想である。万が一そういう自治体があったら晒そう。

以上です。

写真は奄美空港で買ったキティちゃんノートです。シャーペンつき。

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