十万円の本に一区切りつけ(これからまた山がいくつか来るのですが)おととい画伯に素材を渡したし、ということで昨日は朝から電子書籍の仕事をしていました。
もうほぼ出せる状態だとは思うのですが、念のためのテクニカルチェック待ちです。皆さんしばしお待ちくださいませ。
そんな合間に講演の打ち合わせ。
と「就活記」の内容がリンクします。
そしてツイッターやFBでもほぼ同じ内容のおしゃべり。
私から皆さんに問いかけました。
「専門家はなぜよくなった当事者から目を背けるのか」。
色々ご意見があると思うのですが、よかったら皆さんもこのコメント欄に「なぜだと思うか」書き込んでくださいませ。ツイッターやFBでもかまいません。
最近複数の人から似たような声を聞きます。
「うちの地元が危うい」と。
「このままでは地元の子どもたちがかわいそう」と。
支援がない地域ではないんです。むしろ、変な支援が行き渡っている地域。青いお祭りに熱心に取り組み、生涯にわたる支援()がどっしりと構えているような地域です。そこで一部の地元の子ども思いの人たちが「このままではうちの地元の子どもたちはかわいそう」という危機感を持っている。
そういう先進地域()の支援者に限って、「治っていく人もいる」という事実から目を背けます。
エピソードには再現性がない、という一見難解な言葉が猿烏賊語で語られた場合は「うちの子には無理っ」なのですが、支援者や研究者がこれを語った場合にはどう翻訳できるでしょう。
このパターンがありますね。
パターン1
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ギョーカイ人語
エピソードには再現性がない→きっと偽者だったんだ。
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パターン2
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ギョーカイ人語
エピソードには再現性がない→自分にはあれだけ治す腕がない。やばい。無視。
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パターン3
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エピソードには再現性がない→治られると儲からなくなる。やばい。無視。
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パターン4
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エピソードには再現性がない→治った人の存在を知らせると治らない卑屈クラスが騒いでめんどくさい。やばい。無視。
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まあ私的には、変態ではなく健康なもの、強いものが好きなのでなぜよくなっていく人を遠ざけるのかさっぱりわからなくて、ツイッターでもFBでもアンケートを採っているのですが、案外栗本説が正しい気がします。
そしてその栗本説に沿って私が自閉っ子観を塗り替えていった記録が『自閉っ子と未来への希望』ですね。
ともかく『藤家寛子の就活記』からも再現性はばっちり引き出せます。
みんな藤家さんは優秀だから、と思うかもしれない。たしかにそうだけど、当時の藤家さんよりずっと有利な場所から出発している人もたくさんたくさんいるはず。ていうか、ぴったり同じ条件の人なんて一人もいないよね。
キャッチコピーは決まりました。
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藤家寛子の就活記
アスペルガー。
超のつく虚弱体質。
雨が痛いほどの感覚過敏。
やる気のない支援者と
雇用の少ないど田舎暮らしという大きな壁。
それでも就職して7年目。
ベテラン店員になり、資格も取りました。
奇跡じゃないですよ。
誰もができることを、地道にやっただけ。
『自閉っ子、こういう風にできてます!』出版から14年。
地道に足を着けて生きる著者がアラフォーの実感を語る。
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「うちは田舎だから雇用が少ない」と言っている皆さん。
藤家さんの地元も相当な田舎ですよ。佐賀だって田舎でしょ。でも佐賀市内ですらないんですからね。
それでも「田舎で何ができるか」再現性が引っ張り出せるんです、藤家さんのエピソードからは。
他人の成功話から再現性を得られる人は人生トクしますよ。
そのためには卑屈心を一切捨てること。
だから私は
パターン4
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エピソードには再現性がない→治った人の存在を知らせると治らない卑屈クラスが騒いでめんどくさい。やばい。無視。
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という省エネから治っていった人のことを語らない支援者は基本的に、保身ばかりで仕事をしていない卑怯者だと思っています。
卑屈に迎合してはいけない。
それでは私、西の方に行ってきますが
よろしければコメント書き込んでください。
そこからまた展開していってもいいですしね。
学校のお勉強が出来ていた人は以下のような「思い込み」に気づかないうちに支配されていることが少なくありません。
1)問題には正解が必ずあり、それも1つだけ。
2)正解を誰よりも早く見出した人が優秀。
3)正解は誰がいつ解いても変わらない。
4)先生は正解を与えてくれる偉い人。
治った人を無視するのは、治ることは正解が変わってしまうことになるので、あれこれもっともらしい理由をつけて排除しようとする恐怖麻痺反射の1つと考えられます。理由として語られる言葉自体にはそれほど意味はありません。
同じメカニズムで突拍子もない理由をつけ異常視されるのが「妄想」とされる反射です。もっともらしいかどうかの違いです。
ちなみに、正解は1つですから、先に権威となった人が知らない人に正解を教える先生となります。先生になりたい人は新たな問題を作り出し「これが正解」と示そうと躍起になります。治るためには役に立たない分類名や解釈が次から次へ出てくるのはこうした背景があると考えられます。
ところが、社会や会社でぶつかる問題にはそもそも正解はありません。同じような問題でも時々で対応が変える必要があります。その状況での最適解を見出し試行錯誤し続けられるかが社会人としての姿となります。
何故無視するのか?恐怖麻痺でフリーズしていると考えてみてはいかがでしょう。
精々、今の青いお祭りはじめ障害者系の啓発は仲間内の仲間意識を促進させ、村社会メンタリティを向上させるのが精一杯でしょう。
啓発もへったくれもないです。
一般の人は、4月2日に青くしても、発達障害の本を書店に大量に置いても、ローカルテレビで発達障害の事を取り上げても、身内にそういう人がいなければ見向きもしない。これが現実です。
なので啓発なんかするより、治る道に進んだ方が手っ取り早いと思いましたし、最終的に啓発活動には参加しなくなりました。