治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

自閉症者だって、差別する側に回る

2012-10-21 09:22:23 | 日記
さて、差別の話を続けます。
自閉症を持つ人は、いつも差別の対象だと皆さんは思うかもしれません。
けれどもそれは違います。
自閉症を持つ人もまた、差別する側に回ることがあります。

YTがそうでした。
YTが根拠なく挙げた私に関する事実無根の嘘は数々ありました。
詐欺、学歴詐称、あやしげな食料販売をしている、といったやっていないことをやったという虚偽の主張から
在日、創価学会員という身元に関する虚偽の主張。

先日も触れたとおり
このうち「在日」と「創価学会員」であることを否定することに私はためらいを覚えました。
なぜならその二つとも、違法な存在ではないから。
たしかにそれは虚偽の主張ですが
それを「誹謗中傷」とすることは、在日の人、創価学会員の人に失礼な気がしたのです。
結果的には、実家に頼んでもらってとってきてもらった古色蒼然とした先祖代々の戸籍を提出しましたので
純然たる日本人であること、YTのこの主張も虚偽であることは証拠をもって警察に伝えましたが。

ここで指摘しておきたいのは
自閉症者たるYTは、「在日」「創価学会員」を侮蔑の言葉として使っていたということ。
すなわち自閉症者たるYTは「在日」や「創価学会員」を差別する側だったということです。

(今も彼がその主張を持っているかどうかは知りません。何しろ面識がない人物なので)

誰もが誰かを差別しています。
差別される側だって差別していることがあります。
昔の為政者は、そのガス抜きをしようとして被差別を作った。
そして21世紀にもなって、そこに出自があることを理由に権力にふさわしくないと主張するメディアがあった。
これが橋下vs朝日 問題の本質だと私は思っています。

公人だから、身元を暴かれて当然という声もあります。
もっともなことだと思います。
けれどもそういうことをしたり顔で言う人に、私は冷たさを感じます。小ささを感じます。
とくに評論家という立場の人がこの言葉を口にするときには、嫌悪感を覚えます。

身元が暴かれたことが問題なのではないと思います(趣味は悪いと思いますが)。
もし「身元が暴かれてかわいそう」と思うのなら、そう考えてしまう人は「被差別出身であることは恥ずかしいこと」という価値観の持ち主であり
それは差別のしっぽではないでしょうか。

このくらい差別というものは難しいし、個別的な観念をそれぞれが持っているということがわかりました。
私は、ギョーカイがなんらかの現象を差別と呼ぶとき、それに賛同できないことも多いのですが、それは

1 相対的な強者の権利を認めていないとき
2 自然な選択の結果選択の対象にならなかったとき選択に過ぎないことを差別とすり替える

の二つだということがわかりました。
一方で私は、今回の橋下市長vs朝日 のように
血の論理で人間の価値を決める言論には憤りを覚えます。
日本にいちゃもんを付け続けてくる大陸や半島には反発を感じますが
この日本社会に生きている在日の人たちの犯罪者認定とかには嫌悪感を覚えます。

差別に関しては、本当にそれぞれ個別的な観念を持っている。
ベムが「自閉症は治らないのだから修行をさせよという浅見は差別者」という論を展開したとき
うちでは「それが差別者なら差別者で結構」と結論を出して見守っておりました。
こちらにとっては、修行する力のある自閉症の人に修行のチャンスを与えないのが差別だからです。
それぞれのおうちの中で意見があっていれば、他人におせっかいしなくていいのではないでしょうか。

昨日、秋晴れの中、私と(自慢の)夫は自転車屋さんにメンテナンスに行きました。
帰りにランチを取りながら、私は「私は保守だけど、ネトウヨではないと思った。ネット上には殺人犯の在日認定とかをしている人がいて気分が悪い」と言いました。
夫は即「くだらない。それじゃあ今回の朝日・佐野眞一と一緒だね」と言いました。
価値観が同じで安心しました。
差別とは個別的な概念ではあっても、少なくとも近い間柄で共有しているのは便利なことだと思います。
皆さんも家族の中で、確かめておいたほうがいいかもしれません。
両親そろって修行が差別というのなら、その方針で育てればいいだけですね。あとは修行している人を「ああ方針が違うんだな」とそれぞれの選択の自由を尊重すればいいだけですからね。

自分の差別感を洗い出してみるのはいいことかもしれません。
誰も差別していない人は、たぶんいないと思います。
私は貧乏な人に嫌悪感は抱きません。でも貧乏を愚痴る人には正直言って嫌悪感を感じます。
そういう人にとって私は差別者かもしれません。
未婚の人には嫌悪感を抱きません。幸せな未婚生活をしている人はたくさんいます。でも未婚の人にコンプレックスがあった場合、結婚をしている人を見るだけで差別されているような気になるかも知れません。
地方出身者には嫌悪感を抱きません。ただ地方で当たり前とされている過剰同調的なコミュニケーションにはなじめません。耐性が弱いと思います。そしてそこに巻き込まれることには私はかなり激しく抵抗するほうだと思います。たとえ都会の人であってもそれは変わりませんが。
こうやって自分の中にある差別(および人によってはそのように見えるもの)を洗い出していくいいきっかけになったかもしれません、今度の事件は。


私は「選択」と「差別」は違うものだと思っています。障害者の中に格差があるべきではない、と主張する人から見ると、私は差別者かもしれません。
私は相対的な強者であれ、人権を損なわれるべきではないと思っています。公人なら身元を暴かれても当然としたり顔で言う人とは意見が違うかもしれないし、障害者が加害者になったときに加害者を一方的にかばう圧力団体から見ると、私は差別者なのかもしれません。

けれども一方で、
「在日」や「創価学会員」を侮蔑の言葉で使ったYTは、障害のある身ではあっても、私から見て差別者です。
頑張っている障害者の邪魔をする人は、私から見て差別者です。障害があるというだけで、頑張る権利を与えまいとするのですから、立派な差別者です。


さあて、京都行ってきますね。
「自閉っ子
努力もできるし、社会のルールを守る人たち」というテーマでお話してきます。
ニキさんとも久しぶりに会えます。っていうか来週も会うんですけどね。



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