一次会を終えて二次会会場に向かいます。国道134号線を江ノ島方面に向かって歩く。すぐ左が海。着いた先でまたいくつかのテーブルを囲んで、おしゃべりしました。
そろそろ親の老いに向き合う年になりました。介護を抱えている人たちもいました。もっとも、出てこられなかった人もいると思います。
できるだけ健康寿命を保つため、色々な予防策が謳われていますね。友の一人が、うちの親はそれを全部やっていたのにやはり認知症になってしまった。なぜだろうとつくづく考える、
と言っていました。
本当になぜでしょうね。
これは、障害のあるお子さんを授かった人たちも考えることだろうなあ、と思いながら聴いていました。
それこそ確率の問題だし、人知で防げるところとそうじゃないところがあるわけです。
うちの母はとても元気で、普通なら介護している年なのにむしろ仕事の忙しいときなどこっちが助かっているほどです。まだ車も運転していて危なげないし、しかも裸眼で免許更新している。それはもう、精進してきたから、だけではないと思うのです。
一つ私がわかるのは、だから私は仕事をしなきゃいけないんだろうな、ということですかね。
『感覚過敏は治りますか?』は私にとっては本丸に挑んだ本だったせいか、本当に疲れ切ったんですけど、また次も出さないといけないですね。こんなの。あ、まだ出てませんよ。Coming soonです。
鎌倉で歯医者をしている男子が、遠くに送る人を鎌倉駅まで送ってくれるということでした。でも高級車すぎて乗れる人数かなり少ない。
東京や千葉に帰る人に比べて私は遠くの中では一番近いので(?)会計を引き受け遠く組を見送りました。
それから女子三人、男子一人で江ノ電の駅へ。
でも日曜日の夜の江ノ電は、一時間三本なんです。
「これなら鎌倉駅まで歩いた方が早そう」と友。
「私、歩いても足は大丈夫。でも道がわからないからジモティが案内してくれたらついてくよ」と私。
そして夜の散歩になりました。
途中私はぽつぽつ話しました。
「私ね、今日○○先生(嫌いな方)に会いに来たの。私、あの人のこと大嫌いだったの。そしてそれからの人生でも同じような人たちに出会って、その都度大嫌いだったの。だから今会うとどうかなと思ってきたの」
「そうだったの」と女子友。「どこが嫌いだったの?」
これを聞いて思いました。私はあれほど大嫌いだったのに、それを黙ってたんだなあ、と。家では言っていたのですが。そして母は、担任が替わったら登校拒否するのではないかと恐れていたそうですが。少なくとも中学生の私はみんなにはあれほど嫌いな気持ちを伝えていなかった。そして「一緒に嫌おうよ」と誰も誘ったりしていなかった、ひっそりと「嫌い」と思っていたということです。
「なんかやたら人の道を説くのがうざかったな。しかもこっちは尊敬していないのに。理科の教師だから理科だけ教えていればいいじゃない。なのに人生訓とか説教臭くていやだった」と私。
「それは淳子ちゃんがマチュアだったのよ」と女子友。
不思議なことにあの頃も今も、私はやけにマチュアな面と極端に子どもっぽい面があります。そしてそれも一ミリも変わっていない。
「そうかあ、説教かあ、されてたかもな。でも俺わかんなかったかも」と男子友。「小学校のときは体罰とかあったんだよね。今なら問題になりそうな。でも一発やられる方がわかりやすかったよな」
その言葉を聞いて思いました。
昔は先生に叱られても、へいへい聞いているフリをして次の瞬間校庭に駆け出していき、そして何を叱られたのかなんてきれいさっぱり忘れたもんです。それを今の子は先生に叱責されただけで自殺とかする。どこが違うんだろう?
あの夜以来、私は「なぜあれほど校則も厳しかった学校を私たちは自由な空間と認識するのか」を考えていました。
そして、今思いつくこと。
それは、校風は学校側だけが作るもんじゃないということです。
当たり前ですけど、クラスにいる一人一人が自由なマインドを持っていないと、自由な校風はできません。
いくら教師が器を用意しても。
なのに今、学校側だけに責任をかぶせすぎな気がします。
私が女教師を嫌いな理由のひとつは、まだ若かった彼女が自分の恋バナとかを平気で私たちにするような無神経さでした。
でもみんなはそういうのに興味がある年頃であり、きゃっきゃと聞いていた。その中で孤独を感じることもありました。だから「みんなは気にならないのだ」と察知し、「嫌いなんだ」ということを黙っていたのかもしれません。
そして私に殴られた彼。
殴られたのに会うのを楽しみにしてくれていた、っていうのも、たとえばギョーカイやそれを支持する人たちと全く違うメンタリティです。何十年も前のいじめを引きずっている人たちにしてみれば、むしろ、自分を殴った人なんて恨みの対象なのではないでしょうか。
でも、これが私が人格形成期を過ごした土壌なので
私はギョーカイとその支持者の拠って立つところを
おそらく一生わからないと思います。
だからずっと化外の民でしょう。
そしてそれでいい。
私と同じようにわからない人もたくさんいるからです。
そして、『藤家寛子の闘病記』を読むと
自分がいた環境との違いにびっくりします。
ちゅん平さんが要求したあれっぽっちの合理的配慮を拒否するひがみ根性に、私は生涯めぐりあったことがないのです。
でもそういうひがみ根性の中で生きてきた人もいるでしょう。
そしてその人たちにとっては
私のそもそもの出発点がわからないから、私が言っていることが理解できないと思います。
私はなんの屈託もなく「治ろうよ」と言っている。それは私が屈託のない人としか接してこなかったからです。
私はギョーカイに出会うまで、ひがみ根性を持つ人々が周囲にいない環境の中で育ってきたのです。
「頑張れない人の気持ちもわかってくれ」なんて言う摩訶不思議なことを言う大人は一人もいない環境で育ってきたのです。
藤家さんがうちの学校にいたら、誰も病弱なことをからかったりはしなかったでしょう。
というか、誰かがからかったら誰かがたしなめる。そのたしなめる人は私のような気の強い系女子ではなくむしろ普段はおっとりとした子。そして暴れん坊の男子もそういうおっとり女子の説得をきいていじわるをやめる。そういう雰囲気でした。
つまり、人と違う特性を持った子を受け入れる土壌を作るには
発達障害に関する啓発より「ひとりひとり事情が違うのだ」と心から納得するほど民度をあげる方がずっと効果的なんだと思います。
そうなると
「不思議だね自閉症のおともだち」みたいなフリークショウみたいな啓発では逆効果です。
じゃあどうすればいいんだろうと考えた場合
当事者側の努力がゼロでいいはずがないのです。
それを私は訴えてきました。
でも
これをまたひがみ根性で自分が責められているように受け取る人がいるでしょう。
でも、そうじゃない。
私はそもそも、そういう人の存在を想定しないで生きてきたのです。
おそらくそれが私の限界です。
そして、強みでもあるでしょう。
~~~~~
鎌倉駅までたどりつき、横須賀線へ。
女子友二人は逗子方面。茅ヶ崎に帰るという男子友と大船で別れました。
マリノスサポーターでよく日産スタジアムに来てるそうです。またどこかでばったり会うかもしれません。
横浜駅(工事中)に着いたら23:00すぎ。
鎌倉をたくさん散歩したし、タクシーで帰ることにしました。
乗ったら夫からLINEがきました。Jetzt zu Hause。日本語でいうと「おうちなう」です。
夫もどっか行って遅かったのですが、わざわざ自分が帰ったと知らせてきたわけではなく
「自分も遅いが帰ってきたらまだ帰っていないので鎌倉と横浜の間のどこかで酔い潰れていたり間違って東海道線の大垣行きに乗ってしまったのではないかと心配している」という気持ちがJetzt zu Hauseの3ワードに込められていたので「今西口からタクシーに乗ったとこ」と返事しました。
帰ったら夫は締めの晩酌中でした。
「次の幹事やることになっちゃったよ」と私は、かつて殴った友と再会しパートナー幹事に指名された話をしました。
「そりゃ、身から出た錆だね」
「そうだね。それと嫌いな女教師の最新の自慢は子どもがフランス人と結婚して孫が美形なこと。生まれてきて聞いた自慢の中で五本の指に入るくだらなさ。相変わらずくだらん女だった」
なんてしゃべりながら録画してあった「せごどん」を見ました。
この日思ったのは
私の中年期は終わったな、っていうことです。
来月には55になります。四捨五入すると還暦。女の人は年を隠すことが多いけど、私は隠しません。なぜなら年を取っているからの有利さは絶対に役に立つから。
そして昔から変わらない私の資質。
「専守防衛、やられたら倍返し」
「ウエメセ説教臭い乙女が大嫌い」
「人よりマチュアなところと子どもっぽいところが混在している」
この資質とともに、子ども返りへの道を歩み続けていくのでしょう。
そして私は、たまたま時代の巡り合わせで発達障害をめぐる言論のプレイヤーの一人になったけど
自分の育ちの土壌が土壌だから、絶対にわかりあえない人たちがこの世界にはいる。
今の自分としては、その人たちとかかわりを持つ気はない。
それがこの世界からの撤退を意味しているのか、あるいは違うことを意味しているのか。
還暦を迎えた頃には、わかっているかもしれません。
完
そろそろ親の老いに向き合う年になりました。介護を抱えている人たちもいました。もっとも、出てこられなかった人もいると思います。
できるだけ健康寿命を保つため、色々な予防策が謳われていますね。友の一人が、うちの親はそれを全部やっていたのにやはり認知症になってしまった。なぜだろうとつくづく考える、
と言っていました。
本当になぜでしょうね。
これは、障害のあるお子さんを授かった人たちも考えることだろうなあ、と思いながら聴いていました。
それこそ確率の問題だし、人知で防げるところとそうじゃないところがあるわけです。
うちの母はとても元気で、普通なら介護している年なのにむしろ仕事の忙しいときなどこっちが助かっているほどです。まだ車も運転していて危なげないし、しかも裸眼で免許更新している。それはもう、精進してきたから、だけではないと思うのです。
一つ私がわかるのは、だから私は仕事をしなきゃいけないんだろうな、ということですかね。
『感覚過敏は治りますか?』は私にとっては本丸に挑んだ本だったせいか、本当に疲れ切ったんですけど、また次も出さないといけないですね。こんなの。あ、まだ出てませんよ。Coming soonです。
鎌倉で歯医者をしている男子が、遠くに送る人を鎌倉駅まで送ってくれるということでした。でも高級車すぎて乗れる人数かなり少ない。
東京や千葉に帰る人に比べて私は遠くの中では一番近いので(?)会計を引き受け遠く組を見送りました。
それから女子三人、男子一人で江ノ電の駅へ。
でも日曜日の夜の江ノ電は、一時間三本なんです。
「これなら鎌倉駅まで歩いた方が早そう」と友。
「私、歩いても足は大丈夫。でも道がわからないからジモティが案内してくれたらついてくよ」と私。
そして夜の散歩になりました。
途中私はぽつぽつ話しました。
「私ね、今日○○先生(嫌いな方)に会いに来たの。私、あの人のこと大嫌いだったの。そしてそれからの人生でも同じような人たちに出会って、その都度大嫌いだったの。だから今会うとどうかなと思ってきたの」
「そうだったの」と女子友。「どこが嫌いだったの?」
これを聞いて思いました。私はあれほど大嫌いだったのに、それを黙ってたんだなあ、と。家では言っていたのですが。そして母は、担任が替わったら登校拒否するのではないかと恐れていたそうですが。少なくとも中学生の私はみんなにはあれほど嫌いな気持ちを伝えていなかった。そして「一緒に嫌おうよ」と誰も誘ったりしていなかった、ひっそりと「嫌い」と思っていたということです。
「なんかやたら人の道を説くのがうざかったな。しかもこっちは尊敬していないのに。理科の教師だから理科だけ教えていればいいじゃない。なのに人生訓とか説教臭くていやだった」と私。
「それは淳子ちゃんがマチュアだったのよ」と女子友。
不思議なことにあの頃も今も、私はやけにマチュアな面と極端に子どもっぽい面があります。そしてそれも一ミリも変わっていない。
「そうかあ、説教かあ、されてたかもな。でも俺わかんなかったかも」と男子友。「小学校のときは体罰とかあったんだよね。今なら問題になりそうな。でも一発やられる方がわかりやすかったよな」
その言葉を聞いて思いました。
昔は先生に叱られても、へいへい聞いているフリをして次の瞬間校庭に駆け出していき、そして何を叱られたのかなんてきれいさっぱり忘れたもんです。それを今の子は先生に叱責されただけで自殺とかする。どこが違うんだろう?
あの夜以来、私は「なぜあれほど校則も厳しかった学校を私たちは自由な空間と認識するのか」を考えていました。
そして、今思いつくこと。
それは、校風は学校側だけが作るもんじゃないということです。
当たり前ですけど、クラスにいる一人一人が自由なマインドを持っていないと、自由な校風はできません。
いくら教師が器を用意しても。
なのに今、学校側だけに責任をかぶせすぎな気がします。
私が女教師を嫌いな理由のひとつは、まだ若かった彼女が自分の恋バナとかを平気で私たちにするような無神経さでした。
でもみんなはそういうのに興味がある年頃であり、きゃっきゃと聞いていた。その中で孤独を感じることもありました。だから「みんなは気にならないのだ」と察知し、「嫌いなんだ」ということを黙っていたのかもしれません。
そして私に殴られた彼。
殴られたのに会うのを楽しみにしてくれていた、っていうのも、たとえばギョーカイやそれを支持する人たちと全く違うメンタリティです。何十年も前のいじめを引きずっている人たちにしてみれば、むしろ、自分を殴った人なんて恨みの対象なのではないでしょうか。
でも、これが私が人格形成期を過ごした土壌なので
私はギョーカイとその支持者の拠って立つところを
おそらく一生わからないと思います。
だからずっと化外の民でしょう。
そしてそれでいい。
私と同じようにわからない人もたくさんいるからです。
そして、『藤家寛子の闘病記』を読むと
自分がいた環境との違いにびっくりします。
ちゅん平さんが要求したあれっぽっちの合理的配慮を拒否するひがみ根性に、私は生涯めぐりあったことがないのです。
でもそういうひがみ根性の中で生きてきた人もいるでしょう。
そしてその人たちにとっては
私のそもそもの出発点がわからないから、私が言っていることが理解できないと思います。
私はなんの屈託もなく「治ろうよ」と言っている。それは私が屈託のない人としか接してこなかったからです。
私はギョーカイに出会うまで、ひがみ根性を持つ人々が周囲にいない環境の中で育ってきたのです。
「頑張れない人の気持ちもわかってくれ」なんて言う摩訶不思議なことを言う大人は一人もいない環境で育ってきたのです。
藤家さんがうちの学校にいたら、誰も病弱なことをからかったりはしなかったでしょう。
というか、誰かがからかったら誰かがたしなめる。そのたしなめる人は私のような気の強い系女子ではなくむしろ普段はおっとりとした子。そして暴れん坊の男子もそういうおっとり女子の説得をきいていじわるをやめる。そういう雰囲気でした。
つまり、人と違う特性を持った子を受け入れる土壌を作るには
発達障害に関する啓発より「ひとりひとり事情が違うのだ」と心から納得するほど民度をあげる方がずっと効果的なんだと思います。
そうなると
「不思議だね自閉症のおともだち」みたいなフリークショウみたいな啓発では逆効果です。
じゃあどうすればいいんだろうと考えた場合
当事者側の努力がゼロでいいはずがないのです。
それを私は訴えてきました。
でも
これをまたひがみ根性で自分が責められているように受け取る人がいるでしょう。
でも、そうじゃない。
私はそもそも、そういう人の存在を想定しないで生きてきたのです。
おそらくそれが私の限界です。
そして、強みでもあるでしょう。
~~~~~
鎌倉駅までたどりつき、横須賀線へ。
女子友二人は逗子方面。茅ヶ崎に帰るという男子友と大船で別れました。
マリノスサポーターでよく日産スタジアムに来てるそうです。またどこかでばったり会うかもしれません。
横浜駅(工事中)に着いたら23:00すぎ。
鎌倉をたくさん散歩したし、タクシーで帰ることにしました。
乗ったら夫からLINEがきました。Jetzt zu Hause。日本語でいうと「おうちなう」です。
夫もどっか行って遅かったのですが、わざわざ自分が帰ったと知らせてきたわけではなく
「自分も遅いが帰ってきたらまだ帰っていないので鎌倉と横浜の間のどこかで酔い潰れていたり間違って東海道線の大垣行きに乗ってしまったのではないかと心配している」という気持ちがJetzt zu Hauseの3ワードに込められていたので「今西口からタクシーに乗ったとこ」と返事しました。
帰ったら夫は締めの晩酌中でした。
「次の幹事やることになっちゃったよ」と私は、かつて殴った友と再会しパートナー幹事に指名された話をしました。
「そりゃ、身から出た錆だね」
「そうだね。それと嫌いな女教師の最新の自慢は子どもがフランス人と結婚して孫が美形なこと。生まれてきて聞いた自慢の中で五本の指に入るくだらなさ。相変わらずくだらん女だった」
なんてしゃべりながら録画してあった「せごどん」を見ました。
この日思ったのは
私の中年期は終わったな、っていうことです。
来月には55になります。四捨五入すると還暦。女の人は年を隠すことが多いけど、私は隠しません。なぜなら年を取っているからの有利さは絶対に役に立つから。
そして昔から変わらない私の資質。
「専守防衛、やられたら倍返し」
「ウエメセ説教臭い乙女が大嫌い」
「人よりマチュアなところと子どもっぽいところが混在している」
この資質とともに、子ども返りへの道を歩み続けていくのでしょう。
そして私は、たまたま時代の巡り合わせで発達障害をめぐる言論のプレイヤーの一人になったけど
自分の育ちの土壌が土壌だから、絶対にわかりあえない人たちがこの世界にはいる。
今の自分としては、その人たちとかかわりを持つ気はない。
それがこの世界からの撤退を意味しているのか、あるいは違うことを意味しているのか。
還暦を迎えた頃には、わかっているかもしれません。
完
地域の平均所得が低い、貧しい田舎だったり、もとよりその地域自体が京都みたいによそ者に閉鎖的な地域である、住んでいる大人達の学歴や社会的な階層が低い地域は危ないです。
住む場所は選ばないとダメだと思いました。