さて、地ゴロ心理士が言うように「発達障害は誤診が多いから治ってしまう人はいるけど治ったら発達障害が治るのではなく誤診だったと思うことにしている」のが現場の意見なら、今これを読んでいる皆さん・皆さんのお子さんも誤診かもしれないわけだ。逆に言うと、発達障害でなくなる日が来るかもしれないということだ。そうでしょ? だったらギョーカイがどんな方言でその現象を呼ぼうと、「今のところはとりあえず診断基準に沿う特性が見られるようだけれどそれが消えるかもしれない」可能性はあるわけである。
だったら治った治ったと喜んでいる花風社クラスタが取り組む
1 自分でできて
2 金がかからなくて
3 できたら身体の中に何も入れない
アプローチやってみようよ、という発想だってありなはずである。というわけで取り組む人が増えている。ありがたいことに炎上もそのきっかけとなっている。
私は発達障害の人の中には治る人がいると思っている。けれども専門家たちが「治った例は誤診」とあくまで強弁するのならそれを逆手に取って
「じゃあ誤診例かどうかやってみれば?」という提言もできるということである。あなたも・あなたのお子さんも 誤診かもしれない! 誤診だったら、治ってしまうかもしれませんよ。
こよりさんが「診断はインチキ占い」だと思ったのは、ちょろっとテストして数時間我が子に会っただけの医者が「一生字は書けない」と言っても「あてにならない話だなあ」と見抜いたからであろう。自分は日々母親として接し、違うロゴのジュースを出すと泣く姿を見ているわけである。ジュースのロゴの違いがわかって泣くのなら字は読めるようになるだろう、という母親としての正しい判断であった。そしてこよりさんの勝ちだった。○○の勝利である。
もっともちょろっとテストして数時間会って・・・では済まないかっちりした診断を受けている人もいる。私の事件の加害者だった自閉症者(『自閉症者の犯罪を防ぐための提言』ではXとなっている)と藤家寛子さんだ。
周知の事実であるが、Xは誰もが羨む内山登紀夫により自閉症の診断を受けた。当時(今もそうかどうかは知らない)内山医師の名前が入った診断書はプレミアもんであったらしい。その証拠にXは「自分こそが本物の自閉症者である」とこの診断書を誇らしげに方々に送っているのだ。よその出版社からも「送られてきた」ときいたことがあったし、研究所、学校などにもばらまいていたのだからよほどうれしかったのだろう。診断をもらったことが。しかも有名医から。
特別扱いされない一般庶民が内山医師から診断書をもらうには、何年もウエイティングリストに載ったあげく二十万円+税払って指定された日に赴き、一日で他職種による面接を受けたりテストをしたりしてA4六枚の診断書をもらえるらしい。そして別に治んないらしい。
でもXはこの支払いを免除された。しかも、診断は二十万円払った人よりていねいだった。何しろ面接も一日ではない。何度も何度も呼び出され医師による面接を受けて夫婦で診断をもらった。たった一日の面接に二十万円+税を払ってしまった人、その後も自費診療にえんえんと通いしかも治らない人は腹が立つかもしれない。でも内山医師を責めるのはお門違いというものだ。高度な経営判断の末「この人物はそれだけのコストをかけても使える」として特別扱いする権利はクリニックの経営者である内山医師にあるのだから。何らかの意味でXが「使える」という判断だったのだろう。
まあ要するに、彼は「本物の自閉症者である」可能性がそれだけ高いと言うことだ。でしょ? そうじゃないというのなら「内山医師がヤブである」可能性しか残されていない。
けれどもXよりもっと時間をかけて診察を受けた人がいた。藤家さんである。
彼女が診断まで要した時間は十年だ。『藤家寛子の闘病記』からスクショを持ってきた(私は版元だけどよい子はまねをしないように)。
つまり彼女は九年かけて二次障害を治し、それでもなお残った生きづらさがあり、その頃までには主治医の瀬口先生はアスペルガーの疑いを抱くようになっており、きちんと手続きを経て診断されたのだ。昨今「二次障害が治ると一次障害も治るように見えるケースがあるらしいので藤家さんはこっちじゃないか」と思いたいアホウがまたいるようだが、診断の経緯は彼女自身の手で各著作に書いてあるし『30歳からの社会人デビュー』には主治医インタビューも載せてある。
つまりXも藤家さんも、誤診例ではない可能性は「数時間見て診断された」人よりは相当高い。
けれども内山医師がそれだけコストをかけて診断書を書いたXを杉山医師は会いもせず誤診と片づけた。なぜかというと、「悪いことをした」からである。
その頃のギョーカイは犯罪と障害のつながりを否定しようと必死だった。つまり、プロパガンダ作りに必死であった。専門家たちがいくら否定しても様々な事件の加害者たちに診断がついてしまうからだ。そしてそれは報道された。今では犯罪と障害のつながりを否定しない杉山医師も当時は火消しに回っていた。
そしてその火消しの途中で、Xは自閉症ではないと宣言した。自分にとって、彼が自閉症であり続けることはまずいからである。なぜなら自閉症者は天使だと主張を繰り広げていたので(これも佐々木正美敬称略の悪しき遺産のひとつである)あれだけ暴れ回っている人間は自閉症ではない、とアクロバティックな言い訳をしたのである。
よくそんな見え見えの言い訳を恥ずかしげもなく堂々と言ってのけたもんである。自閉症の人は悪いことをしないから、悪いことをしたらたとえ内山医師が診断してようと誤診にしてしまうというアンフェアプレー。他の世界なら一発レッドカードである。
私は被害者として、「いつか支援者たちが彼を治してくれるのではないか」という希望を持っていた。内山医師の患者だときいて安心していた。名医についているのだから、いずれ治るだろう、と。当時おろかにも私は、医療が発達障害を治すと思っていたのである。名医がただ「発達障害ってこんなもん」と説明するだけの人だとは思ってもいなかったのだ。
ところが医療は発達障害を治さなかった。それどころか、いつの日にか治せるようになろうという意欲さえなかった。そしてどうしたかというと、内山医師という有名医が時間をかけて診断した自閉症者を杉山医師という別の有名医が「あれは悪いことしたからニセモノ」と否定してまで「自閉症者と社会をつなぐ」という自分たちの仕事からさっさと逃げたのである。
こういうご都合主義診断現象を、私は「内山杉山マッチポンプ」と名付けたのである。
一方で藤家さんはめざましく治っていった。風が痛いという告白にギョーカイ人たちは萌えたが、風も痛くなくなってしまった。極端に脆弱であるがゆえに在宅生活を余儀なくされていたのに、作業所に五日通い始め、飼い殺しの成人支援を突破した。そして身体も強くなったため、結構な肉体労働を含む販売員として週五日勤務し資格もとり、風は痛くなくなったけど腰が痛くなった。それもきっとコンディショニングによって折り合いの付け方を学んでいくであろう。
多くの当事者保護者が彼女に希望を見いだした。
治りたい人たちは治る人がいることに希望を見いだす。
治ると都合の悪い人たちはそうではない。
自閉症支援の先進地域をリードする公立病院のきちんとした医師が十年かけた診断を否定しようとする。彼女が治ったということを信じたくないばかりに、突然ニセモノ扱いをはじめるのである。風が痛かった頃は講演につれていくほど萌えたのに。
藤家さんに会い、言葉を交わし「典型的なアスペルガー」と語ったゲーリー・メジボフ先生の見解すら否定する勢いで。
要するに、誰もそこまで治った例を見たことがなかったということであろう。
見たことがないのだから、ニセモノと思い込む方が安心できるのである。
彼女がニセモノである方が自分たちが安心できるからニセモノ扱いする。
何しろ自分たちのもとでは誰一人治らないのだ。
ここも判断基準は「自分たちのちっさい器をどう守るか」なんである(はい人格攻撃)。
つまり、診断なんていい加減なのである。
政治的に決まっているのである。
どれだけ第一人者として君臨している専門家たちが診断しても、悪いことをしたり治ったりする「自分たちに都合の悪い当事者」はニセモノと呼んで視界の外に追い出す器のちっさな人たちが恣意的に決めていることなのである(はい人格攻撃)。
そんなものにとらわれて「障害と診断されて障害は生まれつきだから治るなんてウソだ」と涙目で治らない教にしがみついているのは滑稽以外の何物でもない。
ここでまたちきんはじめに登場してもらおう。
この短いフレーズに、「治らない教」のエッセンスが現れている。
まず医師が絶対的に正しいという大きな誤解をしている。「内山杉山マッチポンプ」に現れるように、医師たちはご都合主義で診断を出したり引っ込めたりゆがめたりしているにもかかわらず。
そして「本人の主観」に重きを置いていない。うちの母の運転は安全極まりなかった。だから世間でどれだけ高齢者ドライバーの危険が指摘されていても私たちから免許を取り上げることはなかった。けれども本人が「やめたい」と言ったら、それは絶対に正しいタイミングなのである。
医師が「一生字が書けません」と言ってもこよりさんはお子さんが字を書ける人になることを見抜いていた。親としての主体性をもって本人を観察しているからである。
本人の主観、親の観察。
発達という本来医療で扱う問題ではない領域で、それに医療がかなうわけがない。
本人と親。
これは医療より貴重なリソースである。
中でも「どういう問題行動を起こすか」は貴重な情報源なんである。
そこに治るルートのヒントがあるからだ。
そして当然、それはひとりひとり違う。
その「ひとりひとり違う」見抜き方をうちの本は伝えているのである。
だから治っていくのだ。
治らない教の信者たちはまだ黎明期であり黎明期を一生脱するつもりのない発達障害医療にやすやすと洗脳され、無責任な専門家の戯れ言ばかり聞いて、肝心の子どもの様子を見ていない。子どもには可能性がある。問題行動と言われるものの中にさえ可能性がある。こよりさんはいつもと違うジュースを出して泣く我が子の中に「将来読み書きできるようになる可能性」を見いだした。そういう視点を持たず医師たちのインチキ占いを信じている親には、絶対発達障害は治せないであろう。
その人たちに贈る言葉は
安心したまへ、君たちの子は治らない
っていうだけである。あの当時も今も。
そして私たちがわかったこと。
発達障害は治る。
でも治すのは医療ではない。
誰が治すのか?
それが明瞭にうちの本には書いてあるから、だから読者は誰も「医師法ガ~」とか言い出さないのである。
そういういちゃもんをつけてくるのは、読まずに酸っぱい葡萄している治らない教信者だけである。
そしてそういういちゃもんをつける動機は「本当は、心の奥底では治りたい」からだろう。
でも検証されていない方法には手を出せない。ちきんだから。
「自分がちきんだから子どもが治らないかもしれない」ことを認めたくなくて、今次の炎上では
治ったと喜ぶ読者にまでちょっかいかけてきたというわけである。
自分がちきんだと認めてしまえば速い。
あるいは図書館ででもいいから読んで試してみれば速い。
その両方ともできないほどギョーカイの洗脳にがんじがらめになっている自分を認めたくないちきんたち。
ありのままでいいですよ。
そうしたら身体を張って「発達障害は一生治らない」と証明できるであろう。
そうそう。
花風社クラスタの皆さんは追い越していけばいいんですよ。
このちきんの群れをね。
私たちは治す方面にいくけどね。
道はそれぞれ。
自分で決めればいい。
あ、それと
一人称の「治る」に興味を持った人はまずお手軽に
399円で
『藤家寛子の闘病記』をどうぞ。
ニセモノ扱いを本人がどう思うかも書いてあります。立派なもんですよ、ニセモノ扱いされることへの藤家さんの態度は。
続く(不定期
子どもの不便が解消しなくてもギョーカイに疑問を持たないのは相性がいいからですね。親が診断で救われた思いがしたとしても、子どもの人生の助けにはなってないから。
私たちは治るにだけこだわっているのではなく、治ったら人生変わったよというとこ、やりたいことのために努力する充実感が味わえる幸せのことをいってるんですけどね。過敏性を我慢させるより、過敏性が治った方が余力があって好きなことできるのに。
親元にいるうちに何度も岐路があるから、他人の医師がやるようにやり過ごすようなことしてたらまずいのはわかってるはずなんだけど、行った先々の周囲の理解で乗り切るつもりなのかな?賢い子は腫れ物扱いと感じて傷つく。それは親として辛い。治ればその心配をしなくて済む。