治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
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お里が知れる(ブ)

2016-07-25 09:46:59 | 日記
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ポケモンGOの日本発売が遅れてよかった理由

に、色々な立場からコメントいただきました。支援者、同じように重度な子を持つ保護者。いずれも一致しているのは、自閉っ子の近辺にいるとこの「うちの子には無理なので報道しないでほしい」という声をよく聴くということ。でも誰かの役に立つ以上その情報は出そうよ、という意見と、うちの子も重度だけどできるようになったよ、そういうと「重度じゃなかったんでしょ」とか言われる、と言われる親御さんからの意見とが出されたわけです。

問題提起したえて公さんは「自分じゃなく想定」という落ちを付けられましたが、それが本当でもウソでもともかく、発達障害の子ども周りにいるといやというほどこういう言い方に遭遇しますね。ちょっとよくなると偽者扱い。そして心がかき乱される人がいるから情報を出すなと言われる。情報を出すとうるさいこと言われる。今日もこよりさんがブログに書いていますね。



ていうかそもそもそらパパの「ぼく、アスペルガーかもしれない。」叩き自体が「うちの子は将来自分でご飯を食べていけないの確定なのに許せん!」との大騒ぎだった。そして吉川徹(当時名大病院 今愛知コロニー)はじめ多くの支援者がそっちに賛同した。

そらパパんちのお嬢さんが食べていけるかどうか、そらパパんちの奥さんが専業主婦かどうかなんてたいていの読者には関係ないことです。大地君と同じように「障害があっても自分で働ける人になるんだ」と決意している親子のための本なのに、なんでそれをはなから諦めてっぽい人が騒ぎ立てるのよ、何卑屈根性さらしているんだよ、というのが一般的な感情だと思う。ところが障害のある子の親だというだけで卑屈になるその心根をさもしいと思わずおおよしよしする人たちがこのギョーカイにはいっぱいいるんだな、とそれが驚きでしたね。そしてその結果、裁判で離れたギョーカイをますます見限ったわけです。

その後私はさまざまな経験を通して、そして父を失ったときの周囲の反応から、私は愛着障害っていうやつからめったにないほど自由な人だったんだなあというある意味決定的な自己認識を得ました。そしてわりと謎が解けた。なぜ発達障害周りに卑屈な人が多いのか。なぜその人たちのことを私は理解してこなかったのか。そして灰谷さんの本を作って「恐怖麻痺反射」について知り、なぜ世の中には私にとって「ありえない」としか思えない恐怖感に支配されている人がこんなに多いのかもわかった。

さあ、では「卑屈な人には卑屈になるわけがある」と知った今、私が卑屈な人にどう対応するか、再考したわけです。

こよりさんの本を読んで「きっと軽かったんだ」「特別な成功例」とか言って、なおも「修行なんか残酷」「治すなんて差別」と唇かみしめている人にどういう態度を取るか。

数か月考えた結果

やはり私はそこでね、ギョーカイ系支援者のように「より卑屈な方」の肩を持つ気にはなれないのですよ。だってそんなことしたら全員で沈む。よくなった例はきちんと出していかなくてはいけない。

そしてそれで沈む人がいたらおろおろと腫物扱いするのではなく

「いい話聞いて沈むんなら状態よくないから金魚体操あたりから始めなよ」

って言ってあげたいですね。まず背面弛めたらどうだろう。

そして本当は一言言ってやりたい。

「お里が知れますよ」と。

はい、聴きようによっては差別発言ですね。差別ガーと騒ぎたければ騒ぎなさい。私は本当に「お里が知れる」って思ってるから。

自分より持っているものが多い人はたーくさんいるわけです。お金、家柄、社会的地位、外見、人脈、そして何より才能。

それを「うらやましい」と思うのは自然なことなのかもしれない。
でもそれを口に出さない、っていうのは人間として最低限の矜持じゃないのかね。

ましてや「持っている人を引きずり下ろすようなことは下賤なこと」

これって育ちの中で家庭教育の領域だと思う。それを習わなかったのかね?
それとも習ったけど「障害のある子を持った」という衝撃的な事件の前で、それを忘れてしまったのかね? そして忘れてしまったことを肯定してくれてしまう支援者に恵まれてしまう。これが悲劇だと思います。

だから私は、そういう状態にある人を肯定しません。
おおよしよししません。
「そう思えてしまうことは不健康ですよ」という情報提供をしてあげる。版元としては損? それはそれで結構。私は版元である前に社会人なので、本を売りたいばかりに社会全体を害するようなウソはつかないのです。

ギョーカイ人の先生たちだって、ギョーカイ人である前に社会人であるはずなのです。
でも自分の周囲の都合ばかり言う。だから「より治る人が増えて社会保障その他に寄与するかもしれない」成功例を語るより、いつまでも生きづらい当事者に当事者萌えして支援の必要性を訴える。

ムネオ的なんです。
利益の地元誘導。
地元が現実の地域ではなく「ギョーカイ」に置き換わっただけです。

でもその結果利益を得るのは、ついていった皆さんじゃないんですよ。

おからさんのツイートをお借りします。
前出のコメント欄を私がリンクしたことを受けてのツイートです。

=====

ありがち。本当にありがち。そしてありがちな考えがギョーカイ本質だと気づいて距離をとり始めたら、子どもは治って行けると思うの。お母さん頑張れ!←ご本尊に触れる快感(笑)

=====

そうなのです。「ポケモンGOでよくなった!」という記事に対し
「うちの子は無理だから報道しないでほしい」みたいな反応をそれを肯定する支援ギョーカイ。
そこから離れれば離れるほど、子どもは治っていくのです。
かつてローカルギョーカイメジャーだったおからさんの、それが実感なのでしょう。

そして私は、自分が主張し続けていることが一向に受け入れられていない、みたいな悲壮感はかけらももっていないのです。
これも誤解している人がいますけど。
自分が悲壮感のかたまりだと、そう見えてしまうのですかね。

ギョーカイの力は弱まっていると思います。
セグメント化していると思います。
そして治りたい人の多さを私は実感しています。
今週末もこんな写真が入ってきましたから。
灰谷さん、神田橋先生の本と栗本さんの本も持って行ってくださったそうです。
それも完売です。



本当は治りたいのに支援者にそれを否定されるから唇かみしめてガマンしてきた人。
もうガマンしなくていい時代が来ましたよ。

「発達障害者は発達する。その理由はここにある。その方法が今明らかになる」

という時代がやってきたのです。

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1 コメント

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ちょっと違うかもしれませんが… (ミネ)
2016-07-25 12:12:21
支援者と言われる人や、保護者は、
「みんな違って みんないい」を好んで使いますが、
その実、彼らの言う所の「みんな」というのは、
発達障害の中でも「治らない」と決めている人の事。

当初、わたしは文字通りの意味で捉えていたのですが、
ウチの子は「みんな」の中に入れてもらえず(笑)

小学校就学時に自閉症の特支学級新設希望と言ったら、
『障害の軽い子が特別支援学級を希望するから、
本来支援が必要な子が支援を受けられなくなる』
と、〇〇団体みたいな所の人に言われました。

言い方が悪いですが、知的に全く問題なく話せる子、
普通高校を受験する子は「みんな」の仲間ではなく、
障害のある子の行き場を奪う迷惑な子なのです。

ですが実際には、特別支援学校に行ける子は、
別に普通小学校に行けなくても就学先があるのだから、
支援が受けられなくなる事はないのです。

こういう狭い了見でイジメにも似た対応されて、
あちら側の人とは相容れないなぁ〜と思いました。
みんなとか言うだけの残念な人たちですね。
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