治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

診断基準しか見ない親の残酷さ

2018-10-15 09:05:46 | 日記
たぶん「本当に治ったのか?」と陰で花風社に詰め寄った親というのは、基本的に残酷な人たちだと思うんです。

我が子の苦しみに興味がないという意味で。

知的障害が治るとはIQいくつになるのか?!
だったら証明せよ!
エビデンスを出せ!
出したらやってやる!

っていう意味なんだと思いますが

「やらなくていいですよ。エビデンスを待たなきゃ始められないなんて不自由な頭ですね。そういう親を持ったのもお子さんの運命だから私にはどうしようもありませんわ」としか言いようがない。だって今のままで私が自分の問題意識に基づき次々新しい本を作っても喜んでくれるお客さんは十分いるんだもん。

そもそも「治った」を医者の診断基準に置くとすると

あのへっぽこ医療をそこまで当てにしてご苦労さん、という気持ちもしますし、それにやはり最初に書いた通り「残酷な親なんだなあ」と思うわけです。

いや親じゃなくたって

赤本以降の展開は私が「雨が痛いっていうのは不便だな」とか
「夜眠れない、季節に翻弄されすぎるって不便だな」とか
そういう著者たちの不便をひとつでもなんとかできる方法がないのだろうかという赤心から発したものですよ。それで岩永先生と出会い、神田橋先生と出会い、栗本さんと出会ったのです。

「治ったというのは診断基準しか認めん!」という人たちは、そういう子どもが日々感じている困りごとがなくなることになんて全く興味がなく「うちの子正常IQですが何か?」と他人に向かって「自分が」言えることしか望んでいないんでしょう。

子どもの日々の、いや一瞬一瞬の苦しみに思いを馳せていない、という意味で残酷な親たちです。

知的障害のある人を神田橋先生のところに連れて行った何人から「親くらいにはなるだろう」と言われた、ときいたことがあります。

つまり、親にもそれっぽいところはあった。でも親は就職したり結婚したりして子どもを作っている。だから子どもを連れてくるんですからね。そうしたら資質が開花したらそれくらいにはなるだろう、という意味。

三歳半まで言葉がなくて中学進学時は全国的な有名校に入ったたらこさんのお子さんは、そういう路線なのかもなあ、といつも見ています。
そのたらこさんのお言葉をいくつか引用させていただきます。

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色んな療育に突入する前にすべき事があるんです。菓子ばっかり食べてないで、三食栄養しっかり食べて取れてるか。夜ぐっすり眠れてるか。そこ見てあげて欲しいんです。しっかり食べてしっかり寝ると、脳に余力ができます。脳に余力ができた子供は、自ら成長し始めるんです。

しっかり食べれない。ゆっくり眠れない。心身安定しないから、脳の容量に一向に空きがない。合ってない学習や療育にパニック。学べない。正しい情報が入らず誤学習あげくの問題行動。それ抑え込む為の服薬。悲しい雪だるま。

低学年時から分かっていたしんどさ、小6に至って一向に改善できないとか、耳を疑ったけど、根本的にアプローチ間違えてたんだろうし、支援の敗北ですよね。卒業すれば先生はなかった事にできるけど、その子はこれからも生きて行かなきゃいけないんだよ。そのしんどさ抱えて。

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しんどいことを一つでも消したくて親は支援を頼るんです。
そのとき「様子を見ましょう」か
たいして効果のない環境調整か
社会の理解ガーしか提供されなかったら親は絶望するんです。

そして一日五分家でちょこっと身体を動かすだけで長年の懸案があっという間に片づき子どもがラクになると親はうれしいんです。
そして親のもとには「この本は効果があった」という何よりのエビデンスが生まれるんです。

それを見てカルトとか言ってる自分の無能さ棚上げ支援者は恥を知れ、です。
そして指をくわえて見ている人たちは、いつまでも昭和演歌の場末の酒場の薄幸女のごとく来てくれぬつれない人(よくしてくれるギョーカイ支援者たち)をじっと待っていればいいんです。
エビデンスを待たない、という才能のある人たちとない人たちがいますからね。
そして標準療育()では治らない、治せるにしても自宅で一日五分でなんかやるだけでは済まない、ことははっきりしてしまっていますから。