治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

「こいつうざい」と判断できる能力

2018-07-29 10:18:07 | 日記


昨日読者の方(絶賛治ってる中)のツイートを見て思ったことです。
これです。

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あのね、なかなか「うぜぇ」って、思えないの。すごく出し辛い感情カードです。ツイッター上の話でははありません。「うぜぇ」って面と向かって口に出すのはどうかと思うけど・・でも言わなきゃ伝わらない時も正直あると思う。「うぜぇんだよ」って言葉が心の中で出せなくて悶々とする時があります。

なんで「うぜぇ」大事かって言うと、理不尽な侵入を防ぐ言葉だから。でも私の中でとっても禁止の強い言葉で、なかなか引き出せなくて苦しむことがあります。

やっぱり昨日調子悪いな、と思ってたらそうだった。前述の通り「くっそうぜぇわ」ってことがあったわけで、そのうぜぇには自分に気がつけたんだけどまだモヤモヤしてて、モロー反射の解除やったらめちゃくちゃ効いて肩が軽くなって重苦しさがなくなった。ちょっとびっくりするくらい楽になった。

やっぱり何かを感じ取って身体の方が先に防御態勢に入っていたのかも。かもってかそう。うわーこの身体と心のズレ、気をつけよう。なんとかしたい。そして小まめにモロー反射の解除しようっと。いい勉強になった!

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そういえば「これはうざい」「こいつうざい」ってとっさに思えるって一つの能力なんだなあ、と。そしてこの方がおっしゃるとおり理不尽に侵入されることを防げるからだと。それを表していい場面かどうかは別として。表してよくないときはなんか身体的に解決するといいと思うししていると思うんですよ自然に。

そして私は「こいつうざい」と思ったときに

1 とっさに「うざい」と思える
2 表していい場面が多い(理由は後述)

なもんでどんどん「うざいと思える能力」が発達した気がします。
この能力の発達を目指すかどうかはそれぞれが判断すればいいことですが、一応能力のある者から能力を発達させたい人へアドバイスがあるとすれば、小学校で習った道徳をいったん「オフ」にすることですかね。「人の悪口を言ってはいけません」みたいなくだらないアドバイス。それは美しい心がけかもしれませんが「誰が好きで誰が嫌いか自分で決めて表明する」のは主体性を育む活動ですのでこの手の小学校教育を真に受けていると大人になって病みます。「人の悪口を言ってはいけません」はあくまで学級運営上のご都合トークでありそれを教えてくれた先生も職員室では陰惨な悪口の応酬をしているはずなので真に受けることないですよ。

大人になると主体的に道を選べない人は損をしますね。たとえば先日どっかの猿烏賊が「なんとか体操で発達障害が治るのならとっくに病院でやっているはず」とか酸っぱい葡萄していましたがこの人は病院にそんなに恩義があるのでしょうか。たいていの発達障害児の親は診断「下されて」一生治らないと告げられ環境調整薬物処方無理をさせてはいけません周囲が我慢しなさい親として障害受容ガーをやられているだけなのではっきり言って病院はあんまり役に立っていないことが多くその病院が「役に立つものなら取り入れているはず」と過大評価するのは来てくれない男に操を立てて場末の酒場で待ち続ける昭和演歌の薄幸な女みたいです。それに比べて「病院使えない~」「一生治らないとかむかつく~」「数分みただけでインチキ占い~」と主体的に判断できる人は「治る」への道を歩み始めるわけです。だから「なんだかこいつだめ」という感覚はとても大事にした方がいい。「うざい」もその一角です。

そして私は「先日の炎上クラスタをなぜ出歯亀と呼ぶか」を説明するのを忘れていました。猿烏賊については説明したので、出歯亀についても説明しておきましょう。命名のきっかけをくれた出歯亀のツイートを貼っておきましょうかね。一部松崎先生が入り込んでるね。いいこと言ってるね。











この人は新幹線事件に関する私の言動に腹を立てたらしい。ちなみに赤本の読者だそうです。そしてニキさんと私が登壇した会にも来たらしい。そのときニキさんは相当感覚過敏がつらそうだったころ。今はどうなんだろ? と疑問を持っているらしいですから赤い方だけしか読んでいない人ですね。つまり、変態です。私の一つの変態の定義とは「弱みにだけ萌える」人のこと。多くのギョーカイ人が雨が痛い風が痛いことには萌えて治ったことに興味を持たない。だから私は多くのギョーカイ人を変態だと思っています。



そしてこの人の変態性はそこだけじゃありません。第一対話とか言って私はこの人と対話なんてする気ないし。おまけにこの人は私がフォローしている人に興味を持ち、なんでその人たちをフォローするのか訊ねるのです。まずそれがうざい。あ、私の一つの特徴として、これは愛着の問題を抱えている人とはもしかしたらベクトルが逆かもしれませんが「過度に関心もたれるのがうざい」というのがあります。うちの親なんか今になっても電話で声聞くと全然問題ないのに「風邪引いた?」とか言うことがあります。なんか閾値が低いみたいね親って。うざいね。同じく多少の体調不良をSNSで報告する人いますがあれもしない。だいじょぶがられるのがうざい人なんです私。「風邪引いた?」とか書くと「お大事に」とか返ってくるじゃないですか。あれがうざくて多少の体調不良は表明しません。

親にさえ関心もたれるのがうざいのだから、誰をフォローしているかなんて見も知らない人にきかれる時点でうざい。勝手に対話とか持ちかけられるのもうざい。でもそれほど知りたいのなら会社にメールくれと言ったら(こっぱみじんにやっつけるつもりでした)「公開でやりたい」だと。そしてそのために「勇気」とか「決意」とかそういうキレイキレイな言葉を出す。実に卑怯です。でもそのココロは友だちののぞき見趣味を満足させるため。まるで「白いご飯が食べられて~」でかどわかす人買いみたいです。つまりこいつらは本物の変態、のぞき屋集団です。ここで「出歯亀」の命名決定。前回の炎上は「エビデンスがないものに乗り出すくらいなら子どもが発達しなくてもかまわない」人たち。「子どもにエサの取り方を教えて食べていける存在に育てる」という生き物としての基本よりよりによって発達という大変個別的なものにいまんとこ全くあてにならないエビデンスがあると自分でフレコミしている方法への固執を優先させた思考停止の人たちです。だから「猿烏賊」。そして今度の不登校クラスタは不登校らしく身体の動かない口だけののぞき趣味の人たち。だから「出歯亀」。わかりやすいでしょ?



そしてなぜ私がうざいことをうざいと表していいかというと、私は基本誰とも仲良くする気がないからです。『発達障害者支援法は誰を救ったか?』にはこう書きましたね。


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 発達障害者支援法がなくなればいいとは思わない。助かった人もいるだろう。けれども、発達障害者支援法にあぐらをかいて、当事者のかけがえのない人生と引き換えに、実効性のない支援をえんえんと続けてもよい安心感をある種の支援者に与えてしまったのはたしかなのである。

 一時「この世界、誰とも仲良くしたくない。というか、誰とも仲良くしなくてすむのならもう少し発達障害やってもいい」と考えていた私だが、気づけば仲間ができている。その仲間は発達障害者支援法から甘い汁を吸う生態系――すなわち医療を頂点とし、医療に診断を「下し」てもらうところから「治さず伸ばさずめんどりとして育てて顔色を伺い合って甘い汁をくるくる回し当事者保護者を置き去りにするギョーカイ」――とは違う生態系をなすこととなった。

 そしてそこで実践しているのは「発達援助の非医療化」である。発達援助を医療からも福祉からもできるだけ遠い場所でやること。一般社会の中でやること。なので、別に医者はいらないのである。そして金もかからない。ので公金に頼らないですむ。何より、支援者に頼らないで済む。そういう本を出してきたし、出していくつもりだ。
 発達援助が医療や支援と距離をとってこそ、当事者は主体的に生きられるのである。

 これからも私は「支援者はあくまで金のためにやっている」「発達障害者支援法とは支援者たちが予算を勝ち取るためにできた法律である」ことを間断なく皆にリマインドし続けていく。そして読者がたとえ(一時的に)支援を利用したとしても、指導権を支援者に渡さず主体的な生を生きられるよう、呼びかけていきたい。
 せっかく生まれてきたのだから。

 そして私は一人でも多くの発達障害の子が一般社会へと羽ばたけることを目標にする。だからこそ、ギョーカイ内の主流派非主流派争いとも距離を置く。主流派を巡っての争いは、公金をめぐっての争いであり、やたらエビデンスにこだわるのも公金がほしいからである(もっともエビデンスについては、製薬会社との絡みを教えてくれたドクターもいた。いずれにせよ、我が子の将来を思う保護者には統計など関係ない。我が子が治ることを、改善することを、幸せに社会で生きることを望むだけだ)。

 私はギョーカイとはきっぱり決別したが、それでも仲間がいる。「治そう」とたった一人で言い始め、ギョーカイにひんしゅくを買っても好き放題言っているうちに仲間はできた。そして、ギョーカイに特定の敵もいない。言ってしまえば、ギョーカイすべてが敵である。なぜなら一般人だから。納税者だから。納税者だから成果も見せずに公金に群がる人々は正しいことをしていないと思う。そして遠慮なくそれを表明し続けるだけのことである。

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私は仲間を作る気はないのです。
そこが私の強みなのです。

勝手にいつのまにか仲間ができるのは別にいい。そして日々花風社を発見し勝手に仲間になってくれたらそれは歓迎します。でも全く考えの違う人、志の違う人を説得する気もないし仲間になりたくてその人たちと対話する気も妥協する気もない。そしてそういう人たちののぞき趣味に巻き込まれそうになったらはっきり「変態」と呼びますよ。だって変態だもん。

というわけで誰かを「うざい」と思うのは主体性が育まれている証拠でもあります。
表現方法はそれぞれの立場で選択しなければいけませんが(言葉では出さず身体的に解決することも含めて)「うざい」と思うのは悪いことではないのです。

そして私と違って仲間がほしいと切望している皆さん。
これはそれこそ単なる1エピソードですが、私の場合、誰かに遠慮して発言を控えることではなく、率直に世に思うことを叩かれても叩かれても曲げないことで、仲間ができましたよ。
これは私にとって一生使える方法なので、今後も誰かの顔色を伺って言論を変えることはないと思います。

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