九州を巡っている合間に、昨年亡くなった大学時代の先輩の家に連絡をとりつづけました。
前にブログで書いたように、一つ上のサークルの先輩で、卒業後は、九州に戻り、長崎県で市(町?)職員として働いていたようです。
いつか会えると思いながら、年賀状だけのやりとりが続き、彼の奥さんから喪中のハガキをいただき、とうとう再会を果たせないことになってしまいました。
亡くなったのは昨年の1月27日。享年57歳。あまりにも早い死です。
うかつなことに、その喪中のハガキを、私の家が建て替えをして、仮住まいから戻る際に、段ボール箱にしまいこんでしまい行方不明に。
新しく家を新築したようで、大分県の住所になっていたのはわかっていましたが、それ以上のことがわからないままになっていました。
幸いに私の後輩から実家と思われる住所を聞き、それを手がかりに『先輩さがし』をしていたのでした。
104に問い合わせると、幸運なことに、まだ彼の名前で電話番号が登録されていました。
しかし、九州に滞在中、その番号に数日間、何回かけても、呼び出し音だけ。あいにくたまたま留守なのか、すでに誰も住んでいないのか。
九州を去る最後の日。半分諦めた心境でかけてみる。と、繋がったのです。まさに間一髪でした。
奥さんが受話器をとったようです。
大学生のときにサークルで一緒だったこと、訃報をいただいたこと、九州に来ているのでせめて墓参りをしていきたいことなどを説明しました。
奥さんは、私の名前を覚えていらっしゃって、いたく感激され、最寄り駅に車で迎えにきていただくことに。
彼の家は、博多から日豊本線で一時間半、宇島というところにあります。
福岡県の南、もうすぐ大分県といった土地です。
まだ納骨をされていないとのことで自宅に伺うことになりました。駅から車で約20分。水田が広がる穏やかな田園地帯の中に、彼の家はありました。
仏壇に笑顔で写っている彼の写真は、かつての大学生のときのまま。髪は真っ白でしたが、もう一万日時以上もときを経たと思えないくらい、私の記憶の彼の顔でした。素敵な歳の重ね方をしたのでしょうね。
奥さんとは長崎時代に知り合ったということ。まだ嫁いでいない娘さんが二人いること。新しい家も建て『さあこれから』というときの死だったこと。肺ガン、見つかって亡くなるまで八ヶ月、肺の奥にある病巣で手術ができなかったこと、若いだけに進行が予想よりずっと早かったこと。死ぬ三日前まで体温や尿の回数、見舞客などをきちんとノートに書き続けていたこと(私も見せていただきました。几帳面な字は昔と変わりませんでした。さすがに最後の三日間は字が乱れていました。辛いなかで書いたに違いありません)
私たちのサークルは『差別』をテーマにした研究サークルです。みな正義感が強く、仲間を大切にする伝統を持った集団でした。ですからそこを巣立った仲間は、みな出世や金儲けなどは眼中になく、ひたすら『人のために尽くす』ことを、また理不尽なことには黙っていないメンバーばかりです。弁護士、教員、労働組合の関連の仕事につく人が多いのもこの理由でしょう。
彼も労働組合に入り、奮闘していたようでした。
『受け継いだ、この新しい家をしっかり守らないといけないですね』と穏やかに笑いながら、これからの生活に対し、ぽつりとつぶやきました。
初めてお会いしたにもかかわらず、たくさんのことを語り合いました。
ホリ、まっちゃん、ポンタ、そして『じゅんちゃん』の名前も出てきました。(そう、じゅんちゃんは美人でモテたという記憶。ウエキさんがカッサラッタのではなかったかな?)
少し雨が降る中を、再び車で宇島まで送っていただき、半年以上くすぶっていた先輩の『墓参り』(焼香だけでしたが)がようやくひと区切りとなりました。
時の流れは残酷です。いまの年齢になって、恥ずかしいことにあなたの死を知って、ようやく『いま話さなければならない人とは、いま話さなければならない』ことに気づきました。 時はいつまでも待っていてはくれないものですね。
前にブログで書いたように、一つ上のサークルの先輩で、卒業後は、九州に戻り、長崎県で市(町?)職員として働いていたようです。
いつか会えると思いながら、年賀状だけのやりとりが続き、彼の奥さんから喪中のハガキをいただき、とうとう再会を果たせないことになってしまいました。
亡くなったのは昨年の1月27日。享年57歳。あまりにも早い死です。
うかつなことに、その喪中のハガキを、私の家が建て替えをして、仮住まいから戻る際に、段ボール箱にしまいこんでしまい行方不明に。
新しく家を新築したようで、大分県の住所になっていたのはわかっていましたが、それ以上のことがわからないままになっていました。
幸いに私の後輩から実家と思われる住所を聞き、それを手がかりに『先輩さがし』をしていたのでした。
104に問い合わせると、幸運なことに、まだ彼の名前で電話番号が登録されていました。
しかし、九州に滞在中、その番号に数日間、何回かけても、呼び出し音だけ。あいにくたまたま留守なのか、すでに誰も住んでいないのか。
九州を去る最後の日。半分諦めた心境でかけてみる。と、繋がったのです。まさに間一髪でした。
奥さんが受話器をとったようです。
大学生のときにサークルで一緒だったこと、訃報をいただいたこと、九州に来ているのでせめて墓参りをしていきたいことなどを説明しました。
奥さんは、私の名前を覚えていらっしゃって、いたく感激され、最寄り駅に車で迎えにきていただくことに。
彼の家は、博多から日豊本線で一時間半、宇島というところにあります。
福岡県の南、もうすぐ大分県といった土地です。
まだ納骨をされていないとのことで自宅に伺うことになりました。駅から車で約20分。水田が広がる穏やかな田園地帯の中に、彼の家はありました。
仏壇に笑顔で写っている彼の写真は、かつての大学生のときのまま。髪は真っ白でしたが、もう一万日時以上もときを経たと思えないくらい、私の記憶の彼の顔でした。素敵な歳の重ね方をしたのでしょうね。
奥さんとは長崎時代に知り合ったということ。まだ嫁いでいない娘さんが二人いること。新しい家も建て『さあこれから』というときの死だったこと。肺ガン、見つかって亡くなるまで八ヶ月、肺の奥にある病巣で手術ができなかったこと、若いだけに進行が予想よりずっと早かったこと。死ぬ三日前まで体温や尿の回数、見舞客などをきちんとノートに書き続けていたこと(私も見せていただきました。几帳面な字は昔と変わりませんでした。さすがに最後の三日間は字が乱れていました。辛いなかで書いたに違いありません)
私たちのサークルは『差別』をテーマにした研究サークルです。みな正義感が強く、仲間を大切にする伝統を持った集団でした。ですからそこを巣立った仲間は、みな出世や金儲けなどは眼中になく、ひたすら『人のために尽くす』ことを、また理不尽なことには黙っていないメンバーばかりです。弁護士、教員、労働組合の関連の仕事につく人が多いのもこの理由でしょう。
彼も労働組合に入り、奮闘していたようでした。
『受け継いだ、この新しい家をしっかり守らないといけないですね』と穏やかに笑いながら、これからの生活に対し、ぽつりとつぶやきました。
初めてお会いしたにもかかわらず、たくさんのことを語り合いました。
ホリ、まっちゃん、ポンタ、そして『じゅんちゃん』の名前も出てきました。(そう、じゅんちゃんは美人でモテたという記憶。ウエキさんがカッサラッタのではなかったかな?)
少し雨が降る中を、再び車で宇島まで送っていただき、半年以上くすぶっていた先輩の『墓参り』(焼香だけでしたが)がようやくひと区切りとなりました。
時の流れは残酷です。いまの年齢になって、恥ずかしいことにあなたの死を知って、ようやく『いま話さなければならない人とは、いま話さなければならない』ことに気づきました。 時はいつまでも待っていてはくれないものですね。