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卒業式 私だけが異常なのか

2021年03月26日 22時41分56秒 | 教育を考える
コロナ感染対策での「コンパクト卒業式」が終わった。
出ることができるのは一家庭二人まで。卒業生の呼び掛けはなし。校歌も「国歌」も「心の中で歌う」。(と言っても、校長は職務命令という言葉を出して起立せよと私たちに言ったが)祝電は披露せずに校内に掲示。教育委員会、PTAの祝辞も省略。
つまり、入場、君が代清聴、証書授与、校長の言葉、校歌清聴、退場のコンパクト版だ。
時間にして約一時間。その四分の三は証書授与だから、ひたすら忍耐を要する式となる。壇上で子どもが決意表明をしているが、あまり個性が感じられず、「中学生になったら成績を上げます」「優しいひとになりたい」的なものが大半を占める。六年生で習ったはずの、日本の未来や、グローバルな視点に立った決意表明は、悲しいながら皆無。こじんまりした、ささやかな、さらに言えば自分だけの未来像だ。
壇上に上がる校長も証書授与の補助も、壇の上方に吊るされた日の丸に、深々と礼をする。
式のあとの職員の感想で、「当たり前のことが当たり前にできて良かった」「しっかりと作法ができて立派な卒業生でした」「最後まできちんと座って立派だと思いました」の続出。
ああ、何かが根本的に違うなと思い、本当に悪寒が走った。
そうだ。みな、かつての卒業式を知らない世代になってしまったのだ。
全面的に「昔は良かった」などとは思わない。しかし、今から20年近く前までは、卒業式は私たちにとって「最後の授業」だったのだ。
実行委員を選び、呼びかけの台本を練る。思い出の歌を募り、決まったら自主練習をする。親と対面する会場で、子どもの顔がよく見える。保護者も呼びかけの中の一角を担い、成長が顕著な場面を考えて言葉を練る。
管理職からは、君が代斉唱や日の丸掲揚の「お願い」はつきものなのだが、それでも「中身で勝負」という熱い願いがあったのだ。
しかし、「10.23」の通達により、事態は急変する。
君が代は、起立して斉唱せよ。日の丸は壇上に掲げよ。全員が舞台正面に向かった座席にせよ。君が代は、ピアノで生演奏しろ。会場には紅白幕を垂らせ。
学校行事を自分の学校で決めることができずに、細部にまで強制する支離滅裂な命令であった。

当時、クラスや学年にはたいがい何人かは、中国籍。または朝鮮籍、または在日、帰化した朝鮮人の子がが何人かはいたが、もちろんそれらの子たちにも同じように強制された。
君が代斉唱の際に、起立しない教員が次々と処分された。副校長が、立たない、または歌わない教員を調べて教育委員会に報告する。教育委員会の来賓も、対面に座る職員の口許をチェックして「処分のための証拠を探す」。このころから、卒業式の「座席表」が作られた。だれが座り、歌わないかをチェックするためだ。
それ以来、卒業式は堕落、腐敗した。
しかも、「昔」を知らない保護者も教員も、「これが当たり前」として、認識されているのだ。
「作法」と「愛国心」だけに特化した式に成り下がってしまったのだ。根本的には、戦前の「訓練」でしかない卒業式になってしまったのだ。
これからの主権者を育てるはずの教員が人権に関して、何も感じないのなら、もう学校は死んでいるに等しい。
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