――歌連歌の席で、必ず守らなければならない心構えとか、
しきたりをさえもわきまえぬ連中を集めて、とりとめもな
いことを一句一句付け合ったところで、仏神の法楽になる
のでしょうか。
同じことなら、情熱を燃やし執心深い、その道に達した
作家のものこそ、仏神も願いを聞き入れてくれるだろうと
思われますが、如何でしょうか。
――むかしの賢人が語っておった。どれほど未熟で放埒な
好士であっても、仏神の感応は同じで何ら違いはないと。
仏陀や五百羅漢のような偉い方を勧請して供養するより
も、極悪の僧侶ひとりを勧請して供養することは、計り知れ
ないほど多くの福徳を得る、といわれる。
また、盲目で、妻子を持った破戒僧でさえも、舎利弗や
目連と同じように敬え、と十輪経に説かれている。
仏は相手を選ばず、誰にでも平等無差別の慈悲を垂れる。
つまり、仏の真意は、大慈悲心そのものなのである。
菩薩の実践すべき六波羅蜜のなかでも、檀波羅蜜の布施
行を第一としている。そうとはいえ、不浄の僧が供養した塔
婆をば礼拝してはならない、とも説いている。
(『ささめごと』法楽連歌)
――この章を読むと、親鸞の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや、悪人をや」を想い起こします。
この言葉は、悪人こそが、阿弥陀仏の大慈悲心に、最も強く働きかけられている存在である、という思想を、直截に表しているのだと思います。また、悪人は、人間世界の尺度でいう悪人ではなく、仏の世界の尺度でいう悪人、つまり、ほとんどの人間を指します。
自らの才能や能力によって、この世で悟りをひらき、善根を積んで往生を期している人は、放っておいても往生できます。「悪人」つまり、迷い、悩み、苦しみを重ねながらも、ひたすら生きるほかない人を救い、往生させてあげるのが、阿弥陀仏の本願なのです。
未熟でしかも手に負えないような連中を集めて、とりとめもないことを一句一句付け合ったところで、どうして仏神の供養になるのかという問に対して、どれほど未熟放埒な輩の作品でも、その道の達人の作品であっても、仏神の感応に何ら違いはないというのが、心敬の答です。
それに引き続き、「仏陀や五百羅漢を供養するよりも、極悪の僧侶ひとりを供養するほうが、無量の福徳を得る」と記しているところを見ますと、極悪の人間を第一に救済しようとする仏の大慈悲心を前提として、放埒未熟の人間であればあるほど、連歌の会席に連ならせ、この道の一端を修業させるべきだという点に、主旨があるようです。
『沙石集』にも、「十輪経の中には、破戒の比丘の盲目ならん、妻に手を引かれ、子を抱いて、酒の家より酒の家へいたらんも、舎利弗・目連のごとく敬はば、福を得べし」とあります。
舎利弗は、釈迦の十大弟子の一人で、知恵第一といわれる人。目連も十大弟子の一人で、神通力第一の人です。そういう立派な人物と同じように、破戒僧を敬えというのです。仏は誰にでも、平等無差別の慈悲を垂れる、ということを言いたいのでしょう。
「平等無差別」大いに結構ですが、これにとらわれてしまうのは困りものです。たとえば、なかなか配分されない「東日本大震災義援金」のような……。
また最後の、「不浄の僧が供養した塔婆をば礼拝してはならない」というのは、「いくら世間的に名声があっても、追従に走ったり、心が清く澄んでいない作者の作品をば、崇め奉ってはならない」ということだと思います。
『ささめごと』には、理想の作品を生み出す作者のありようをいうのに、「閑人」という語が用いられています。そして心敬は、心を平らかに澄まし、無常の理を悟り、さらに無常述懐を実践してやまない作者を、理想の歌人像として掲げています。
山中の隠棲が称揚され、人との交わりを絶つ姿が、高潔なものとして理想視されているのは、前に見てきたとおりです。そして、閑居幽棲と理想の歌人像が結びつけられるのです。
閑人の対極にあるのが、栄誉栄達を望んで、そのためには追従に走り、連歌を世渡りの術とする在り方です。今の美術界と何ら変わりはありません。それよりもっとひどいのは、これは今さら言うまでもないでしょう。
無常述懐を連歌の柱と考える立場に立つなら、閑人の在り方が、山中の隠棲や他者との隔絶といった在り方と結びつけられていくのは、当然のことでしょう。
クリスマス佛は薄目し給へり 瓜 人
家にゐても見ゆる冬田を見に出づる 〃
先人は必死に春を惜しみけり 〃
草々の呼びかはしつつ枯れてゆく 〃
つひにゆくみちのほとりのひなたぼこ 〃
大寒の一戸もかくれなき故郷 龍 太
一月の川一月の谷の中 〃
白梅のあと紅梅の深空あり 〃
紺絣春月重く出でしかな 〃
かたつむり甲斐も信濃も雨の中 〃
人間はなぜ、この世に生まれてきたのでしょうか。
「人は心を磨くため、修行するために生まれてきたのだ」と、心敬は無言のうちに答えています。もし、全人格的に完成されていたら、この世に生まれてくる必要はないのです。この世は、修行の場なのです。だから、次から次へと試練を受けるのです。
この世の修行を終えた者に、会席や人との交わりは不必要なのです。だから神仏は、そういう人たちを隠棲させるのです。
心敬の眼から観れば、まさに、相生垣瓜人・飯田龍太のお二人は、理想の俳人像といえるでしょう。
心敬の風雅道は、優美なる心性を中心として、人間の全精神の営みの究極に見出される真実の境地を、神仏の理念で表現しているのです。
風雅道に志すこと即ち、真実追究への第一歩という意味で、神仏の感応にあずかるものと考えたのです。
来し方のうすれ手染の麻のれん 季 己
しきたりをさえもわきまえぬ連中を集めて、とりとめもな
いことを一句一句付け合ったところで、仏神の法楽になる
のでしょうか。
同じことなら、情熱を燃やし執心深い、その道に達した
作家のものこそ、仏神も願いを聞き入れてくれるだろうと
思われますが、如何でしょうか。
――むかしの賢人が語っておった。どれほど未熟で放埒な
好士であっても、仏神の感応は同じで何ら違いはないと。
仏陀や五百羅漢のような偉い方を勧請して供養するより
も、極悪の僧侶ひとりを勧請して供養することは、計り知れ
ないほど多くの福徳を得る、といわれる。
また、盲目で、妻子を持った破戒僧でさえも、舎利弗や
目連と同じように敬え、と十輪経に説かれている。
仏は相手を選ばず、誰にでも平等無差別の慈悲を垂れる。
つまり、仏の真意は、大慈悲心そのものなのである。
菩薩の実践すべき六波羅蜜のなかでも、檀波羅蜜の布施
行を第一としている。そうとはいえ、不浄の僧が供養した塔
婆をば礼拝してはならない、とも説いている。
(『ささめごと』法楽連歌)
――この章を読むと、親鸞の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや、悪人をや」を想い起こします。
この言葉は、悪人こそが、阿弥陀仏の大慈悲心に、最も強く働きかけられている存在である、という思想を、直截に表しているのだと思います。また、悪人は、人間世界の尺度でいう悪人ではなく、仏の世界の尺度でいう悪人、つまり、ほとんどの人間を指します。
自らの才能や能力によって、この世で悟りをひらき、善根を積んで往生を期している人は、放っておいても往生できます。「悪人」つまり、迷い、悩み、苦しみを重ねながらも、ひたすら生きるほかない人を救い、往生させてあげるのが、阿弥陀仏の本願なのです。
未熟でしかも手に負えないような連中を集めて、とりとめもないことを一句一句付け合ったところで、どうして仏神の供養になるのかという問に対して、どれほど未熟放埒な輩の作品でも、その道の達人の作品であっても、仏神の感応に何ら違いはないというのが、心敬の答です。
それに引き続き、「仏陀や五百羅漢を供養するよりも、極悪の僧侶ひとりを供養するほうが、無量の福徳を得る」と記しているところを見ますと、極悪の人間を第一に救済しようとする仏の大慈悲心を前提として、放埒未熟の人間であればあるほど、連歌の会席に連ならせ、この道の一端を修業させるべきだという点に、主旨があるようです。
『沙石集』にも、「十輪経の中には、破戒の比丘の盲目ならん、妻に手を引かれ、子を抱いて、酒の家より酒の家へいたらんも、舎利弗・目連のごとく敬はば、福を得べし」とあります。
舎利弗は、釈迦の十大弟子の一人で、知恵第一といわれる人。目連も十大弟子の一人で、神通力第一の人です。そういう立派な人物と同じように、破戒僧を敬えというのです。仏は誰にでも、平等無差別の慈悲を垂れる、ということを言いたいのでしょう。
「平等無差別」大いに結構ですが、これにとらわれてしまうのは困りものです。たとえば、なかなか配分されない「東日本大震災義援金」のような……。
また最後の、「不浄の僧が供養した塔婆をば礼拝してはならない」というのは、「いくら世間的に名声があっても、追従に走ったり、心が清く澄んでいない作者の作品をば、崇め奉ってはならない」ということだと思います。
『ささめごと』には、理想の作品を生み出す作者のありようをいうのに、「閑人」という語が用いられています。そして心敬は、心を平らかに澄まし、無常の理を悟り、さらに無常述懐を実践してやまない作者を、理想の歌人像として掲げています。
山中の隠棲が称揚され、人との交わりを絶つ姿が、高潔なものとして理想視されているのは、前に見てきたとおりです。そして、閑居幽棲と理想の歌人像が結びつけられるのです。
閑人の対極にあるのが、栄誉栄達を望んで、そのためには追従に走り、連歌を世渡りの術とする在り方です。今の美術界と何ら変わりはありません。それよりもっとひどいのは、これは今さら言うまでもないでしょう。
無常述懐を連歌の柱と考える立場に立つなら、閑人の在り方が、山中の隠棲や他者との隔絶といった在り方と結びつけられていくのは、当然のことでしょう。
クリスマス佛は薄目し給へり 瓜 人
家にゐても見ゆる冬田を見に出づる 〃
先人は必死に春を惜しみけり 〃
草々の呼びかはしつつ枯れてゆく 〃
つひにゆくみちのほとりのひなたぼこ 〃
大寒の一戸もかくれなき故郷 龍 太
一月の川一月の谷の中 〃
白梅のあと紅梅の深空あり 〃
紺絣春月重く出でしかな 〃
かたつむり甲斐も信濃も雨の中 〃
人間はなぜ、この世に生まれてきたのでしょうか。
「人は心を磨くため、修行するために生まれてきたのだ」と、心敬は無言のうちに答えています。もし、全人格的に完成されていたら、この世に生まれてくる必要はないのです。この世は、修行の場なのです。だから、次から次へと試練を受けるのです。
この世の修行を終えた者に、会席や人との交わりは不必要なのです。だから神仏は、そういう人たちを隠棲させるのです。
心敬の眼から観れば、まさに、相生垣瓜人・飯田龍太のお二人は、理想の俳人像といえるでしょう。
心敬の風雅道は、優美なる心性を中心として、人間の全精神の営みの究極に見出される真実の境地を、神仏の理念で表現しているのです。
風雅道に志すこと即ち、真実追究への第一歩という意味で、神仏の感応にあずかるものと考えたのです。
来し方のうすれ手染の麻のれん 季 己