壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (104) 仏神の感応

2011年06月15日 21時00分26秒 | Weblog
        ――歌連歌の席で、必ず守らなければならない心構えとか、
         しきたりをさえもわきまえぬ連中を集めて、とりとめもな
         いことを一句一句付け合ったところで、仏神の法楽になる
         のでしょうか。
          同じことなら、情熱を燃やし執心深い、その道に達した
         作家のものこそ、仏神も願いを聞き入れてくれるだろうと
         思われますが、如何でしょうか。

        ――むかしの賢人が語っておった。どれほど未熟で放埒な
         好士であっても、仏神の感応は同じで何ら違いはないと。

          仏陀や五百羅漢のような偉い方を勧請して供養するより
         も、極悪の僧侶ひとりを勧請して供養することは、計り知れ
         ないほど多くの福徳を得る、といわれる。
          また、盲目で、妻子を持った破戒僧でさえも、舎利弗や
         目連と同じように敬え、と十輪経に説かれている。
          仏は相手を選ばず、誰にでも平等無差別の慈悲を垂れる。
         つまり、仏の真意は、大慈悲心そのものなのである。
          菩薩の実践すべき六波羅蜜のなかでも、檀波羅蜜の布施
         行を第一としている。そうとはいえ、不浄の僧が供養した塔
         婆をば礼拝してはならない、とも説いている。
                               (『ささめごと』法楽連歌)


 ――この章を読むと、親鸞の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや、悪人をや」を想い起こします。
 この言葉は、悪人こそが、阿弥陀仏の大慈悲心に、最も強く働きかけられている存在である、という思想を、直截に表しているのだと思います。また、悪人は、人間世界の尺度でいう悪人ではなく、仏の世界の尺度でいう悪人、つまり、ほとんどの人間を指します。
 自らの才能や能力によって、この世で悟りをひらき、善根を積んで往生を期している人は、放っておいても往生できます。「悪人」つまり、迷い、悩み、苦しみを重ねながらも、ひたすら生きるほかない人を救い、往生させてあげるのが、阿弥陀仏の本願なのです。

 未熟でしかも手に負えないような連中を集めて、とりとめもないことを一句一句付け合ったところで、どうして仏神の供養になるのかという問に対して、どれほど未熟放埒な輩の作品でも、その道の達人の作品であっても、仏神の感応に何ら違いはないというのが、心敬の答です。

 それに引き続き、「仏陀や五百羅漢を供養するよりも、極悪の僧侶ひとりを供養するほうが、無量の福徳を得る」と記しているところを見ますと、極悪の人間を第一に救済しようとする仏の大慈悲心を前提として、放埒未熟の人間であればあるほど、連歌の会席に連ならせ、この道の一端を修業させるべきだという点に、主旨があるようです。

 『沙石集』にも、「十輪経の中には、破戒の比丘の盲目ならん、妻に手を引かれ、子を抱いて、酒の家より酒の家へいたらんも、舎利弗・目連のごとく敬はば、福を得べし」とあります。
 舎利弗は、釈迦の十大弟子の一人で、知恵第一といわれる人。目連も十大弟子の一人で、神通力第一の人です。そういう立派な人物と同じように、破戒僧を敬えというのです。仏は誰にでも、平等無差別の慈悲を垂れる、ということを言いたいのでしょう。
 「平等無差別」大いに結構ですが、これにとらわれてしまうのは困りものです。たとえば、なかなか配分されない「東日本大震災義援金」のような……。

 また最後の、「不浄の僧が供養した塔婆をば礼拝してはならない」というのは、「いくら世間的に名声があっても、追従に走ったり、心が清く澄んでいない作者の作品をば、崇め奉ってはならない」ということだと思います。

 『ささめごと』には、理想の作品を生み出す作者のありようをいうのに、「閑人」という語が用いられています。そして心敬は、心を平らかに澄まし、無常の理を悟り、さらに無常述懐を実践してやまない作者を、理想の歌人像として掲げています。
 山中の隠棲が称揚され、人との交わりを絶つ姿が、高潔なものとして理想視されているのは、前に見てきたとおりです。そして、閑居幽棲と理想の歌人像が結びつけられるのです。
 閑人の対極にあるのが、栄誉栄達を望んで、そのためには追従に走り、連歌を世渡りの術とする在り方です。今の美術界と何ら変わりはありません。それよりもっとひどいのは、これは今さら言うまでもないでしょう。
 無常述懐を連歌の柱と考える立場に立つなら、閑人の在り方が、山中の隠棲や他者との隔絶といった在り方と結びつけられていくのは、当然のことでしょう。

        クリスマス佛は薄目し給へり        瓜 人
        家にゐても見ゆる冬田を見に出づる    〃
        先人は必死に春を惜しみけり        〃
        草々の呼びかはしつつ枯れてゆく     〃
        つひにゆくみちのほとりのひなたぼこ   〃
        大寒の一戸もかくれなき故郷      龍 太
        一月の川一月の谷の中          〃
        白梅のあと紅梅の深空あり        〃
        紺絣春月重く出でしかな          〃
        かたつむり甲斐も信濃も雨の中     〃


 人間はなぜ、この世に生まれてきたのでしょうか。
 「人は心を磨くため、修行するために生まれてきたのだ」と、心敬は無言のうちに答えています。もし、全人格的に完成されていたら、この世に生まれてくる必要はないのです。この世は、修行の場なのです。だから、次から次へと試練を受けるのです。
 この世の修行を終えた者に、会席や人との交わりは不必要なのです。だから神仏は、そういう人たちを隠棲させるのです。
 心敬の眼から観れば、まさに、相生垣瓜人・飯田龍太のお二人は、理想の俳人像といえるでしょう。
 心敬の風雅道は、優美なる心性を中心として、人間の全精神の営みの究極に見出される真実の境地を、神仏の理念で表現しているのです。
 風雅道に志すこと即ち、真実追究への第一歩という意味で、神仏の感応にあずかるものと考えたのです。
 

      来し方のうすれ手染の麻のれん     季 己 

絶頂

2011年06月14日 22時52分04秒 | Weblog
        絶頂の城たのもしき若葉かな     蕪 村

 「絶頂」という漢語の使用の、斬新さにまず驚かされる。当時の詩歌にあっては、「いただき」が普通であったろう。これは一時(いっとき)の好事的思いつきではない。その証拠に、「絶頂」は、日常語と化した今日においても、この句中にあって十分の働きを維持している。
 「絶頂」という語には、仰ぎ見る程に高い感じがあり、何よりもたくましい若葉の気勢と一致している。

 季語は「若葉」で夏。

    「全山若葉のかたまりに埋もれた頂上に、白い石垣を根深く沈めて城砦が
     一つ、百万の大軍でも何でも来たれ、と八方を睥睨している。いかにも
     盛んな心丈夫な景観である」


      當麻寺に當麻曼荼羅すずしかり     季 己

若葉

2011年06月13日 20時58分44秒 | Weblog
        虵を切つてわたる谷路の若葉哉     蕪 村

 「虵」は、「ダ」と読み、「蛇(へび)」のこと。
 「虵を切つて」は、『史記』の中に、漢の高祖・劉季が、夜、沢の中をわたってゆくと、路に当たって大蛇がいたのを、剣をもって斬り放った、という故事がある。
 この故事が、発想を手伝ってはいるが、季語に若葉を据えたところが心憎い。
 一句全体を統べているのは、深山幽谷の若葉の旺盛な活力である。それが、原始時代の人物、たとえば、素戔嗚尊(スサノオノミコト)とその行状とをあわせ得て、そのたかぶりの最高潮に達せしめられている。

 季語は「若葉」で夏。

    「一人の英傑が、深い谷間をわたってゆくと、ここに長年、生を経ていた大蛇が、
     路を擁して横たわっていた。彼は、間髪を入れず一刀の下に大蛇を切って捨て、
     なおも路をわたり続けてゆく。その頭上を、千古の大樹が層々と若葉をかさね
     て封じている」


      紫陽花のうつろひ光輝高齢者     季 己

「俳句は心敬」 (103) 高士の風格②

2011年06月12日 22時32分46秒 | Weblog
 ――その道に練達するには、師匠や多くの先達から、実作についていろいろと指導を受けるのが普通です。
 それなのに、ひたすら風雅の道に心をひそめ、幽栖閑居を好み、普通の会席にも出ず、人にも知られていないのに、いつの間にか堪能の士として名を博する。一体そんなことがあり得るのでしょうか。
 心敬は、古人の言を引き、幽栖閑居を好み、普通の会席に出ないような人の中にこそ、真の歌人がいることを是認しています。そして、それを証明するために、たくさんの隠遁者たちの逸話を、飽くことなく列挙しているのです。

 真の作品には、不可欠の条件として、世俗を超越し、常識的な見解に煩わされることのない、高士的風格の投影がなければならないと、心敬は考えていたようです。
 連歌の会を持つとすれば、そうした高士同志の会合のみが有意義であり、優れた自己も、そうした場においてのみ形成されるというのです。

 「経巻を手にすることはなくても、常に心の中で経を唱え、声に出すことはなくとも多くの経典を暗誦する」というのは、例の凡灯庵が、「連歌は座になきときこそ連歌だ」と言った言葉に通ずるものです。
 連歌の席で、堪能の士にもまれて切磋琢磨することの必要性を、心敬が痛感していたことは、前にも述べたとおりです。それにも増して、常住不断の心法、つまり、ふだんから常に継続する心がけは、重視すべきものでもあったのです。
 志浅い連中は、表面的には数寄・熱心の姿勢を示しますが、内心は、まったくやる気のない軽薄者なのです。

 心敬の最大の関心は、表現の主体如何にあって、表現されたものは要するに、枝葉末節に過ぎなかったのです。表現の主体、つまり、作者の心持ちが大切で、その作品は、枝葉末節に過ぎないということです。
 水のように澄んだ心から、水のように、無技巧、無意識にこぼれたもの、そういう作品こそ人の心をうつ、と心敬は考えていたのです。

 以下、少し長くなりますが、現在、読売新聞に連載中(月一回)の『魂の一行詩』(角川春樹)より、引用させていただきます。

        澄む水の器でありし一行詩     春 樹

     いま、私の目指す地点は、一行詩という器に澄んだ水のような世界を盛る
    ことにある。水のようなさりげない日常の中のドラマ性である。そこに深い思
    想が生まれる。言葉を飾らず、自分の「いのち」と「たましひ」を詠い、読者の
    心と魂に共振れさせる一句である。
     詩(うた)とは、古代、訴えることから由来した。詩(うた)は人の心を撃たね
    ばならない。
     私はいま、改めて「水の思想」に思いをめぐらしている。私の目指す一行詩
    は「水」のように、無技巧、無作為、つまり無意識ということになる。水自身に
    は意識がない。しかし、水を包む器があると、水に意識が生まれてくる。
                           (「澄んだ水を盛るように」より)


      裸足にも遊びもできぬ砂場かな     季 己

「俳句は心敬」 (102) 高士の風格①

2011年06月11日 20時40分22秒 | Weblog
        ――風雅の道に、並々ならぬ情熱を注いでいる人の中には、
         俗世間を避けて隠れ棲み、悠々自適の暮らしをし、世間的
         な会席には一切かかわらず、世間に名の知られていない人
         がいるそうです。
          そして、むしろそういう人たちの方が、名声を得ている人よ
         りもすぐれた人物が多いといわれておりますが、本当でしょ
         うか。

        ――先達が語っておった。いかにもそのような高士の中に、
         真の歌人はいるものであると。

          並外れた賢人には友人はいない。清い水には魚が住まな
         いように。
          許由は、箕山に隠れ棲み、峰の痩せた老松の下に、空し
         い松風の音を聞いて、人間の浅ましい野望の夢を覚ました
         という。
          顔淵は、一箪一瓢(いったんいっぴょう)の貧しい暮らしを
         し、民草の中に埋もれて、一生を過ごしたという。
          介子推は、晋王の招きを断り、とうとう山を下りなかっ
         たので焼き殺されてしまった。しかし、後世、その命日を
         「寒食の日」として、その日は火を使わなくなったという。
          西行上人は、乞食にひとしい修行者であったが、のちの
         和歌隆盛の世では、その名声が輝きわたった。
          鴨長明の方丈の庵の跡には、その業績を慕って、後鳥羽
         院が二度までも御幸をなさったということだ。
          在家の長者・維摩居士の樹下の方丈に、文殊菩薩がやって
         きて、般若の空観による不可思議な解脱の法や、一切万法を、
         ことごとく不二の一法に帰する法を受け、敬拝なさったという。

          真の歌仙と言われる人には、自分の利益とか、人を感化し
         ようとする気持はみじんもない。それは、仏が維摩居士をして、
         大乗経の玄妙な理を、説き明かされたようなものである。

          百戦百勝したとしても、侮辱に対してたった一度でも堪え
         忍んだ態度にはおよばず、万言万答したとしても、ただ一つ
         の沈黙にはおよばない。
          経巻を手にすることはなくても、つねに心の中で経を唱え、
         声に出すことはなくとも、多くの経典を暗誦する。
          君子は、人倫の退廃を憂い、小人は、貧しさを憂う。

          このような人は、真如の正しい理性と判断を持ち、詩歌の
         風雅の美に遊ぶことができるという。また、魅力的な歌仙を
         非難し、軽蔑する連中が世間に多くいる。これは外道の畜生
         というべきことである。

          不死の霊薬である甘露でさえも、飲む人によっては毒薬に
         もなる。
          神力でさえも、宿業因縁の引き起こす力にはおよばないと
         いう。
          鷹は賢い鳥ではあるが、烏にはアホーアホーと笑われると
         いう。
          仏陀の説教をも、多くの慢心・増長した人たちは、馬鹿に
         して、筵を巻き、その場を立ち去ったという。

          ひたすら放埒な行為を第一にして、いい加減で軽薄な作者
         が、世間には多い。俗世の執着心を捨てた歌人の中に、紛
         れ込んでいる輩もいる。
          そうした人たちは、露骨に評判を得ようとして宣伝する偽善
         者にも劣って、良心の受ける不安や恐怖は大きいものであろ
         うといわれる。
          また、道に執心うすい連中は、上面だけの数寄や嗜みの姿
         勢は見せるが、心底からの執心のない者が、諸々の分野に
         見受けられる。ことに仏道修行の者のうちに多いという。
          そのような連中は、表現・技巧だけのことで、胸のうちは浅
         薄で稚拙さがはっきりしている、などといっている。

          蛇は、頭の一寸を見れば、その大小はわかり、人は、一言を
         聞けば、その賢愚を知ることが出来るという。
          仁者とは、必ず勇気のある人であるが、勇敢な人が必ずしも
         仁慈の心があるとは限らない。 (『ささめごと』幽栖閑居の好士)


      胸のうち吐き鉄線の白き花     季 己

蝶の形見

2011年06月10日 22時38分14秒 | Weblog
          杜国に贈る
        白罌粟に羽もぐ蝶の形見かな     芭 蕉

 蝶の離れるとき白罌粟(しらげし)が、はらりと散ったのであろう。それを「蝶が羽をもぐ」ととっさに感じとったのだ。そして、自分を蝶に、杜国(とこく)を白罌粟に見立て、とらえた袖もちぎれんばかりの、離れがたい気持を、「羽もぐ」と表出したものと思う。
 蝶が羽をもぐのは、白罌粟に対してする形見だと見ているのであるが、技巧が勝ちすぎているようである。
 貞門・談林を通じて行なわれた「見立」の手法が、変貌してゆく線上の作といえる。

 「杜国」は、名古屋の人。坪井庄兵衛。米穀商。貞享二年八月、尾張藩に罪を得て、伊良湖岬に近い保美の里に身を隠した。名古屋の連衆中では年少であり、才気もすぐれていたので、芭蕉に非常に愛された。
 芭蕉は、貞享四年(1687)の『笈の小文』の旅では、保美の里に杜国を訪い、杜国に万菊丸と名乗らせ、吉野へも伴った。元禄三年没、三十余歳。『嵯峨日記』には、夢に杜国を見たという文がある。

 季語は「白罌粟」で夏。比喩的な使い方である。

    「白罌粟に遊んだ蝶が羽をもぐのは、白罌粟との別れを惜しんで、せめてもの
     形見として、自分の羽を残してゆくのである」


      立葵つぎつぎ副作用もまた     季 己

瓜の泥

2011年06月09日 17時24分20秒 | Weblog
        朝露によごれて涼し瓜の泥     芭 蕉

 初案は、
        朝露や撫でて涼しき瓜の土
 であった。しかし、それでは、触覚によって瓜についた土の涼しさを感じとったことになり、やや大げさな身振りが気になる。
 中七が下五に続く修飾語のかたちをとっているので、上五に切字「や」を用いたのである。
 だが、「朝露」と「瓜の土」とが、二物配合に近い印象を与えることになり、感覚の新鮮さが必ずしも出てはいないようにおもう。
 
 再案が、視覚的把握によって句を統一し、中七に休止を置いた構成にしたことは、この点で、句の感覚性をいちじるしく高めたと思う。
 しかし、「瓜の土」だと、朝露にぬれた土の新鮮さは出てこない。「土」よりも「泥」の方が、朝露が光るだけになまなましく切実である。「泥」は「土より土らしく」といえるのではなかろうか。「土」が抽象表現に近いならば、「泥」は具象そのものである。

 「土より土らしく」と書いて、『花より花らしく』の著のある洋画家の三岸節子を思いおこした。彼女は、終生、花をモチーフとしたことでよく知られている。
 著書が示すように、現実の花を超えて萎えない花、色褪せない花を描くことが、究極の念願であった。もちろん、現実には、眼前の現物の花を手がかりとして、いつまでも色褪せず、不滅の花を描くことで、「花より花らしく」具象的に表現することを目的としている。
 まさにこのことは、俳句にも通じる、非常に大切なことである。

 季語は「瓜」(まくわうり)で夏。「露」は秋の季語、「涼し」は夏の季語であるが、「瓜」が強くはたらいているので「瓜」としたい。瓜の感触が非常に生きている使い方。元禄七年六月、京都嵯峨での作。

    「朝露にしっとりと濡れたもぎたての瓜。少し泥のついてよごれているのが、
     かえっていかにも新鮮で、涼しく感じられる」


      風鈴の舌からことば尽くるなし     季 己

        ※ 舌(ゼツ)

「俳句は心敬」 (101) 師は一人

2011年06月08日 20時56分38秒 | Weblog
        ――和歌の合点は、些細なことまで判詞を添えて、歌の良し悪しを
         明らかにしようとします。
          連歌の合点は、どうあるべきでしょうか。

        ――連歌の合点は、和歌と少しも変わるものではない。
          墨で合点を引く際に、句の趣旨や表現のはっきりしない部分に
         は、必ず判詞を添え、作者と点者が、理解鑑賞について互いに
         納得しあう必要がある。理解できない句、根拠、筋の通らない
         ことなどを、そのままにして問いたださないならば、点を取って
         も合点しても、何の効果があろうか。
          和歌の合点には、どれほど小さなことでも判詞を添えて、疑問
         や不審を払拭するように努めるのである。
          連歌には、この程度のことさえ、論じ究めることは少ない。何
         とも情けないことである。
          だから、合点を乞うには、作者が最も尊重し、信頼している一人
         に限るべきである。
          決してそれ以外の人に、合点を求めるものではない、と和歌の
         道では思われている。 (『ささめごと』連歌の点)


 ――合点は、和歌などを批評するとき、判者が、その良し悪しを句の右肩に、点・丸・鉤(カギ=かぎかっこ)などの“しるし”を付けることをいいます。

 いつの世の人も、他人と競うことを好む人が多いようです。
 勝ち組、負け組といって、なぜ二つに分けねばならないのでしょう。わたし自身は、この「勝ち組、負け組」という言葉は、大嫌いです。「負けるが勝ち」ということわざがあるように、人生においては、勝ち組も負け組もないと思います。
 「ありがとう」と周囲の人に感謝しながら、最期を迎えられたら最高とも……。

 連歌合を好む心理は、他と優劣を競いたくてしようがない気持があるからかも知れません。それはひいては、絶えず自己を検討し、向上を望む精神が、根底にあるからだと思います。
 他人の句の趣旨もはっきりしないまま、合点をして、ただ単に、自分の好みを表明するだけではまったく無意味です。自他共に、句において表現しようとする気持をはっきりと見とどけて、お互いの思いのままに、納得のゆくまで批評してこそ、合点の意義はあるというものです。これを「合点がゆく」といいます。

 俳句の場合も、優れた作品にだけ評点を与え、そうでないものに批評を加えないというようでは、向上は望めません。
 俳句の選を乞う場合も、心敬のいうように、「自分が最も尊重し、信頼している一人に限る」ということは、大切なことです。ゆめゆめ一つの句を、複数の人に選を乞うてはいけません。選者の力量を試していることと同じで、非常に無礼なことです。


      神宮の杜かはせみとわが咳と     季 己

「俳句は心敬」 (100) 師範を尋ねる③

2011年06月07日 22時26分34秒 | Weblog
 ――「俳句は、胸中に描く絵画であり、胸中に奏でる音楽でもある」と思います。
 もちろん、人間が作るものですから、上手下手があります。ましてや、初心者とベテランでは当然、出来が違います。
 発見したこと、感じたことを表現しようと思い、言葉を選び、語感やリズムを駆使しても、表現技術が伴わなければ、成果は見込まれません。
 また、成果をあげたいなら、「師範を尋ねる」ことです。達意の文章の書ける主宰について、徹底的に学び体得することです。そして大事なことは、技術は忘れることです。技術を誇っているように見える俳句や絵画に出合うと、虫酸が走ります。

 独特の視点で対象を凝視し、それをいったん胸中に入れ、おのれの情感によって再構成し、その句にふさわしいリズムをもって表現されたものが俳句なのです。
 「実在するもの」を、そのまま他者に伝える文は、報告・説明の記述であって、たとえ五七五の形式で書かれてあっても、それは俳句ではないのです。
 「実在するもの」を媒体として、おのれの情感を加えてイメージされたものを「詩」というのです。

 再度申します。俳句は、見たまま詠んではいけません。感じたまま詠むのが俳句です。
 「おや」「あら」「わあ」など、驚き・発見・感動の「ドッキリ」したものを凝視し、それから連想されるモノを交え、胸中で再構成する。
 絵を描くように、「ハッキリ」した情景にすることがポイント。
 調べは「スッキリ」と、ととのえること。リフレーン、頭韻、脚韻が無意識のうちに出るようになったら一人前です。これらを用いて、頭で作られた句はイヤラシイので、注意が必要です。

 もう一点、大切なことを申します。
 俳句は五七五で、和歌の五七五七七より短いということです。したがって、焦点を一つにしぼることが大事で、そのためには、「省略」して、「単純化」する必要があります。俳句では、この「単純化」することが、非常に大切なのです。

 以前、『去来抄を読む会』において、座興として、「つぎの短歌

        冬山の青岸渡寺の庭にいでて
          風にかたむく那智の滝みゆ     佐藤佐太郎

 の内容を、俳句で表現してください」という問題を出しました。
 その結果、ほとんどの方が、「冬山の風にかたむく那智の滝」とされました。
 焦点は「那智の滝」です。作者は、那智の滝のどういうところに感動しているのでしょうか。そう、「風にかたむく那智の滝みゆ」ですね。しかし、俳句ではふつう“見える”“聞こえる”などは省略します。すると「風にかたむく那智の滝」。七五ですから、あとは上五に「冬山の」と置き、「冬山の風にかたむく那智の滝」としたのだと思います。
 出題のねらいは、「省略して単純化する」ですから、全員正解と言えましょう。
 もう一歩進めれば、「風にかたむく」の「風」は、「冬山の」とありますから、「木枯」、「北風」、「空風」のことだとわかります。
 つぎに、胸中で、「木枯にかたむく那智の滝」をイメージします。ことに「かたむく」に注意して……。
 ここからが、人それぞれの感性、情感の問題です。
 「かたむく」⇒「まがる」⇒「ひんまがる」と連想し、さらに七音になるようにして、
      「木枯にひんまがりける那智の滝」
 などとすれば、これはもう立派な俳句です。
 以上は、「省略して単純化する」過程を理解していただくためにとった苦肉の策です。
 実際に俳句を作る場合には、短歌を下敷きにして作るようなことは、決してなさらぬよう、きつく申し上げておきます。

 俳句の道も独学は可能です。新聞や雑誌に投句し、掲載された自分の作品と名前を見てニンマリする“独楽”も結構。
 けれども、心敬のいうように、自分の句の良し悪しや、人さまの句の優劣がわからず、“独が苦”になるのも事実です。
 そのような時こそ、ぜひ、しかるべき「師範を尋ねる」よう、強くおすすめします。


      復興のちから犇めく青葉潮     季 己
 

「俳句は心敬」 (99) 師範を尋ねる②

2011年06月06日 20時08分51秒 | Weblog
 ――さて、“サンデー毎日(定年退職者)”の皆さん、何か「好きなこと」が見つかりましたか。俳句を「好き」になっていただけたなら、こんなにうれしいことはありません。

 俳句が好きになったら、つぎは俳句を楽しみましょう。
 俳句を楽しむには大きく分けて、二つの方法があります。一つは、俳句結社に入り、その主宰から指導を受ける方法。もう一つは、我流で、新聞や俳句雑誌に投句して、しこしこ楽しむ方法です。パソコンのある方は、ネット句会に参加されるのもいいでしょう。

 まずは、結社の選び方から。
 結社を選ぶということは、主宰を選ぶ、つまり、師範を尋ねるということです。その師範の選び方ですが、

    1.その主宰の句が大好きで、そのような句をぜひ作りたい。
    2.評論、随筆など、文章が非常にうまい主宰。
       ※文章が上手で、俳句が下手な俳人は、まず、おりません。
    3.自宅から一時間以内で行ける場所で、句会を開いている結社。

 を選んで入会すれば、大いに俳句を楽しめると思います。
 入会の上は、主宰に全幅の信頼を置き、徹底的に学んでください。「石の上にも三年」といわれるように、歯を食いしばってでも、三年間は辛抱することが大切です。

 我流で、しこしこ楽しむには、どうすればよいのでしょうか。
 答は簡単。自由に、勝手に、好きなように作ればよいのです。それで本当に楽しいなら、それはそれで結構なことです。
 ただ、句の良し悪しは、自分自身で判断できませんから、上達は望めません。もし、上達もしたいというなら、新聞や俳句雑誌に投句することです。
 選評欄を熟読し、“この先生”という方がおられたら、その先生の選だけを受けてください。「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」と、いろいろな先生の選を受けられることは、少なくとも初心者のうちは禁物です。

 我流で、しこしこ俳句を楽しみたい方のために、俳句の作り方の根本をお教えしましょう。
 「俳句は、見たまま作ればよい」と、よく言われます。しかし、これは大きな間違いです。
 見たまま作るから、報告・説明になってしまうのです。
 俳句は、散文(記述文)ではなく、“詩”なのです。

 今から三十数年ほど前、岡本眸先生が、俳誌『朝』を創刊される以前のことです。
 個人的に通信添削を受けた最初にいただいたコメントを、今でも覚えています。

    「二句とも、報告に終っています。日常句の場合、自分の詩の世界を持つ
     ことが大切です」

 《自分の詩の世界》を持つとは、どういうことなのか、全くわかりませんでした。
 今でも、眸先生の真意のほどはよくわかりません。が、独自の感性で、独自の情感を伝えるための媒体として描くイメージ、と勝手に解釈しております。


      梅雨晴や顔の真中に保湿剤     季 己

「俳句は心敬」 (98) 師範を尋ねる①

2011年06月05日 22時28分05秒 | Weblog
        ――和歌の道には、歌合(うたあわせ)といって、作者の名を
         隠してその座でいろいろ批判し合うことがあるので、わずか
         な欠点までわかり、自覚することが出来ます。
          連歌には、そのようなことはないのでしょうか。

        ――ほんとうに連歌の道には、まだ、そのような心づかいがない
         ためか、どんな初心者、下手な人でも、その時の気分や自分の
         好みに合うものだけを、良い句であると決め込んでしまうので、
         邪道に陥ってゆくのである。

          最近、初めて連歌を、歌合の作法に少しも違わず、句を左右
         につがわせ、その場でさまざまに批判しあって、勝負を決める
         ことがしばしば行なわれているとか。
          才能のある立派な方々が、連歌合を研究し、もてはやしたな
         ら、連歌の道を高めるよすがにもなるのではなかろうか。

          どんなに小さな道にも、師範を尋ねて学ぶのがならいである
         のに、連歌の道に限って、近頃になって自分自身で独り合点
         するようになってからは、まったく邪道に偏し軽率なものになっ
         たと言うことだ。 (『ささめごと』 連歌合 )


 ――歌人たちを左右二組に分け、その詠んだ和歌を左右一首ずつ出して合わせ、一番ごとに判者が批評・優劣を判定し、優劣の数によって勝負を決する遊戯を「歌合」といいます。
 歌合は、平安初期のころから、宮廷・貴族の間に流行しましたが、その方式にはいくつかあったようです。
 ここで心敬が述べている歌合は、「褒貶(ほうへん)歌合」といって、左右に分かれた人々が、互いに自分たちの歌人の歌を褒(ほ)めたり、相手の歌を貶(けな)したりして勝負を争うことのようです。
 現存している連歌合の作品で、最も古いと考えられものとして、救済と周阿の「百番連歌合」をあげることが出来ます。
 この「百番連歌合」は、二条良基が合点をして、優劣を判じたものです。
 応仁二年六月、関東下向中の心敬は、この連歌合を見て感服のあまり、自分でも救済・周阿と互して、同じ前句に付句を付けて、旅のつれづれの慰めにしたということです。
 当時、田舎暮らしをしていた心敬にとっては、相手とするに足る練達の士を得ることは困難であり、自分の作品の優劣を批判してくれるような人物は、なおさらのこと、求めることが出来なかったのです。
 そういうわけで、心敬の最も尊敬する先達である救済と、その弟子周阿の連歌合を見ては、そのまま黙っておれず、自分自身もその中に加わって、それらの先達の句と、自分の句との間に、胸中ひそかに優劣を判じていたに違いありません。
 
 心敬の作品の中には、自作を選んで、連歌合を試みたものも残っていて、心敬が、連歌合のような批判力と鑑賞力とを要する営みに、いかに強い関心を持っていたかを察することが出来ます。


      黴びてゐし結城紬の名刺入れ     季 己

「俳句は心敬」 (97) 晩 学

2011年06月04日 21時04分01秒 | Weblog
        ――「歌・連歌の巧みな連中は、晩学の人に多い」などと言って、
         若いうちの修業を捨て置く人がいます。そういうことは、正しい
         ことなのでしょうか。

        ――歌・連歌の道は、まったく暮らし向きの心配がなく、心にゆと
         りのある人のもてあそぶものであるから、人生の半ば過ぎから、
         理想的な修業や思慮分別の出てくる道なのである。
          たしかに、老後になってからの数寄こそ、心に目指すところの、
         まことの我が歌・句が出来るものなのである。

          家隆卿は、五十歳のころから、特に名声が高くなった歌仙と聞
         いている。

          越(ねいえつ)は、四十歳になって学問を始め、儒学の道の
         奥義まで悟ったという。

          孔子も「四十にして惑わず」と言う。

          宗史は、七十歳で学んで、師匠からの伝授の域にまで達した。

          論語には、朝に人として守るべき正しい道を聞いたら、その夕
         べに死んでも本望である、といっている。 (『ささめごと』晩学)


 ――平安朝以来の数世紀にわたる古典的教養が、その作者の円熟した心境と渾然一体となって、その人柄のうちから滲み出てくるようなものを尊んだのが、中世の文学だと思います。
 真の作品を生み出すには、非常に長い、全人的修業を必要としたのです。
 そういう修業は、仏道修行と同じで、すべてを投げ捨てねばならず、それは普通の社会人にとっては、不可能なことでした。一通り世間的な勤めを果たし、俗務から解放される年齢になってはじめて可能なことでした。
 「人生の半ば過ぎから、理想的な修業が出来、老後になってはじめて、まことの我が歌・句が出来る」というのは、そうした事情によることが多かったのです。

 家隆卿が大器晩成の人であった話などは、新古今時代には珍しいことでした。しかし、心敬の時代になると、心敬にしても宗祇にしても、名をなすようになったのは晩年で、それが普通の状態であったのです。

 越は中国・戦国時代の人で、農耕に堪えず、学問に志し、人が眠っている時も刻苦勉励して、人の三十年を十五年間に果たして、周の威王の師となり、儒学を講じたということです。


 四年ほど前から団塊の世代に入り、大量の退職者が生まれています。
 「退職したら、毎日が日曜日。さて何をして毎日を過ごそう」と、おっしゃる方が大勢いらっしゃることと思います。そういう“サンデー毎日”の方に、ぜひ、おすすめしたいのが俳句です。
 昨今、“脳トレ”と称して、音読、書写、絵手紙、ぬり絵、簡単な計算の本等々が、バカ売れしているそうですが、俳句は、そのような本は必要ありません。鉛筆一本と紙一枚あればOKです。
 でも、季語を知るために「歳時記」は必要ですね。しかし、これも買う必要はありません。お近くの図書館でいろいろ見比べて、気に入ったものを借りてくればよいのです。

 「歳時記」は、どこから読んでもかまいません。今でしたら夏の項を読むのがいいでしょう。
 まず、解説の部分を大きな声で、最低3回は読みましょう。つぎに例句も声に出して、5回以上読んでください。
 心にひびいた、あるいは何となくいいな、と思った句に出合ったなら、それを声に出しながら5回、紙に書いてください。紙はチラシの裏や、カレンダーの裏で結構です。出来ればそれらを短冊のように切り、短冊一枚に一句を、大きく丁寧に書くのがよいと思います。
 これらのトレーニングをしばらく続け、「楽しい」と感じられるようになったら、本格的に俳句を学び、俳句を詠まれるよう切望します。
 俳句の一歩、実作については、また後日……。


      落し文拾ひ独りを楽しむか     季 己         

楽しい金曜日

2011年06月03日 22時42分50秒 | Weblog
 今日は楽しい金曜日、抗癌剤治療を受ける日だ。
 午前9時40分頃、都立駒込病院に着く。受付を済ませ、すぐに中央採血室に行く。個人ファイルをもらい、2本採血する。採血が済んだら、個人ファイルを持って、外科の受付に提出し、主治医の診察を待つ。その間、所定の場所で血圧と体温を測っておく。血圧は122/83、体温は36.6度、脈拍は100であった。

 10時の予約であるが、診察が始まったのは10時30分頃。これはいつものことで、連休の後などは2時間遅れなどということもある。
 診察といっても外科なので、ただ、体調・副作用について尋ねられるだけだ。もちろん、こちらからの質問にも丁寧に説明してくださる。主治医のY先生の外来診療は、金曜日だけ。他の日は、手術や手術の立会。お若い先生だが、指導的立場の方らしい。
 体調は絶好調、血液検査も問題なしということで、点滴治療のGOサインが出た。

 10時45分診察終了と書かれた紙をもらい、抗癌剤の点滴治療を受けるための外来治療室へ。
 名前を呼ばれて、リストバンドがつけられる。
 ここにはベッドが46在る。各ベッドはコの字型に、壁で仕切られ、カーテンを閉めれば、他人からは見られないようになっている。本日は21番ベッドだ。

 11時過ぎに、点滴薬がとどく。看護師さんと一緒に、1本1本確かめる。つぎは担当の医師と看護師とで、パソコンの画面を見ながら、薬をまた一本一本確認する。
 右胸部鎖骨下(8㎝)に埋めこまれたポートに、医師が点滴の針を刺す。点滴が流れ出したのを確認して医師が去る。そのあと、看護師がテープ等を用いて針を固定する。
 点滴は、副作用を緩和する薬を15分、生理的食塩水を5分、ベクティビックスを60分、経過観察のための生理的食塩水を60分、それぞれ、この順番で行なわれる。
 点滴終了間際に、血圧と体温が測られる。117/72、36.8度だった。

 すべてが終わったので会計へ行き、支払いを済ます。本日の治療費は3割負担で、86,050円也。ちなみに、ベクティビックスの点滴注射代は、280,070円(3割負担で84,020円)である。
 駒込病院の玄関を出て、時計を見たら午後2時20分であった。


      病棟の奥の茂りのしづかかな     季 己 

「俳句は心敬」 (96)心地修行②

2011年06月02日 16時49分22秒 | Weblog
 ――お気づきと思いますが、この段には“問い”の部分がありません。心敬の“答え”の部分から直接始まる、珍しい段です。

 どんなに才能豊かで、深くその道に達した人であっても、心地修行がおろそかでは、至極の境地に達しがたい、と心敬は言います。では心地修行とは、どういうことを意味するのでしょうか。
 心地修行とは、己の心を観察することにより心を錬磨し、真理に到達しようとする観法の一つです。本来は、仏教における観心修行のことです。

 心敬は一貫して、作者=主体の在り方に重きを置き、いかに在るべきかを問題にしています。姿や詞、格式など、伝統的に和歌・連歌の大切なこととされてきた事柄を二義的なものと見なし、主体の心が歌道の本質であり、極めて肝要であるとする、徹底した観心論的立場を示すのです。
 心敬は、主体の澄みきった静かな心で、景物に対峙することを志向していたのです。
 「究極において、詠歌は、観照でなければならない」と、心敬は言っているのです。
 そのためには、「己の道を至高のものと思い、執念一筋、命がけで最高峰を目指し、精進努力すること」が、大切なのです。

 道因入道や登蓮法師の話などは、その道にひたむきに打込んだ歌人の話、という程度に理解したのでは、知恵第一の舎利弗の話以下の部分と、続き具合がはっきりしなくなってしまいます。
 ここで言う心地修行は、ただの打込み方とは全く異なるのです。

 禅語に『無常迅速』という言葉があります。簡単に言えば、「人生は、あっという間」ということです。時間は待ってくれません。だから時間を無駄にしないことです。一瞬一瞬を無意識にやり過ごさないことです。怠惰に過ごさないことです。
 大腸癌が、肺と副腎に転移し、抗癌剤治療を受けている昨今、余命宣告こそ受けておりませんが、時間の大切さを、しみじみと実感しております。
 自分の向かう方向を決め、残された時間を無駄にせず、必死の覚悟で毎日を生きたいと思っています。これも、『無常迅速』ということだと信じて。

 登蓮法師の話にしても、その要点は、「人の命は、はかないもの。どうして明日を待っていられようか」にあったものと考えられます。
 仏道修行者が、一切を放下して、一大事因縁(一切衆生を救済するという大目的)を明らかにしようとする心構えにも似た、必死の差し迫った心理状態に、常に身を置くことを、心地修行と称したのだと思います。
 それは、歌や連歌に対する信仰の念がなくては出来ない修行です。源頼実のように、一命を捨てても秀歌を詠みたい、という必死の覚悟の人にしてはじめて、至極の境地に到達し得る、というのです。

 心敬の時代と生活様式が大きく変わってしまった現在、心敬の主張する心地修行をそのまま実践することは、まず無理でしょう。
 しかし、俳句を志す者として、「至極の境地に到達したい」という、志だけは高く持ちたいものです。
 では現在、俳句を学ぶ者にとっての心地修行とは、どんなものでしょうか。心敬の考えにそって、箇条書きにしてみましょう。

    1.俳句の道を信じ、俳句を好きになり、楽しむこと。
    2.俳句を詠める幸せを実感し、すべてのものに感謝すること。
    3.『無常迅速』を心に置き、“執念一筋”に、精進努力すること。
    4.常に心を澄ますこと。
    5.心打たれる、ものを観たり、音楽を聴いたりすること。

 澄みきった静かな心で景物に対峙し、無技巧、無意識にこぼれた“つぶやき”。そういう作品こそが、人々の心を打つ、と心敬は言うのです。


      青鷺の雨降るときは雨の色     季 己

「俳句は心敬」 (95)心地修行①

2011年06月01日 20時26分10秒 | Weblog
        ――どんなに素質才能があり、深くその道に達した上手であっても、
         根本的な心地修行をいい加減にしては、至極の境地に達しがたい
         ものである。何としても和歌連歌の道を至高なものと思い、執念
         一筋の人だけが、この道にとって必要不可欠の大切な人たちなの
         である。
          「昔から、和歌連歌の道を、簡単浅薄なものと思っている者で、
         世に名声を得た者は一人もいない」
          と、言われている。

          道因入道は、八十歳になるまで、秀歌を詠むことを念願して、住吉
         神社に毎月参詣した、ということである。

          登蓮法師は、ますほの薄を探し求めようとして、雨の夜の明ける
         のも待ちきれず、蓑傘を借りて、難波江の渡の辺まで出かけようと
         するのを、人々は、
          「気ぜわしいことよ。雨が上がり、夜の明けるのをお待ちなさい」
          と、言ったところ、
          「人の命は、はかないもの。どうして明日を待っていられようか」
          と言って、出かけてしまったという。

          源頼実は、
           「秀歌一首詠ませていただけたなら、命は差し上げます」
          と、数年間も住吉明神に祈願した、ということである。

          知恵第一の人と言われた、あの聡明な舎利弗にしても、信心から
         仏道に帰依し、悟入したという。

          悉達太子は、国王の位を捨て、独り山深くお入りになった。そして
         ついに、われわれ凡夫の生死流転する三界を指導する仏菩薩にな
         られて、諸法実相の法界を明るく照らされた。

          十大弟子の一人である迦葉尊者が、鶏足山に入定されたのも、
         衆生済度のため弥勒菩薩に仏法を伝えることの難しさを嘆かれた
         からであるという。 (『ささめごと』心地修行)


      亡己利他無名に生きて更衣     季 己