壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (109) 一道に専念する

2011年06月22日 22時30分38秒 | Weblog
        ――和歌の道にいそしむ人で、さまざまな芸能を一緒に稽古して
         いる人が多く見受けられます。これは良いことなのでしょうか。

        ――先賢はおっしゃっている。「諸道において、真実傑出して、
         他の芸能にも優れている人はいない」と。
          けれども、諸々の道には「相資相反」といって、互いに助け
         合うものと反発し合うものとがあって、並行して学んでも差し
         支えないものもあり、また、ことのほか悪いものもある。

          学問・仏道修行・書道などは、歌道には「相資」の道で、相互
         に助け合い、まさに適したものである。
          また、碁・将棋・双六など博打の類はみな同一の道で、互いに
         補い合うものである。
          楽器の管弦のさまざまな類は、舞踊・能の謡と一連のもので、
         併せて学んで良い。
          また、蹴鞠・相撲・武術などは、みな同じ道である。

          歌道・仏道修行・学問などに、囲碁・双六・相撲・蹴鞠などは、
         「相反」といって非常に悪い類である。
          昔の人も、どんな大国にも、独歩といって、一芸一能の一道に
         のみ専念する人が、天下の名声を得る、と言っている。
                               (『ささめごと』相資相反)


 ――少子化のせいでしょうか、お子さんにさまざまな習い事をさせ、それを得意顔で話す親御さんの、何と多いことでしょう。
 学習塾をはじめ、スイミング、サッカー、野球、ピアノ、バレー、書道、絵画、ソロバン、空手、剣道、柔道、少林寺拳法などなど、日替わりは当たり前、一日に三つの習い事をしているお子さんも知っております。
 この現状を心敬さんが見たら、何とおっしゃるでしょうか。

 歌連歌において心敬は、一体にのみ固執し、他の九体を学ばない狭い態度を、極力いましめました。
 そんな心敬ですが、歌道においては、並行して他の芸能を学ぶことを好んでいないようです。
 歌道の中においては、風体に変化があっても、目標とする究極の境地は同じです。けれども、芸道の種類が異なると、その目標とするところは各様だからです。

 心敬の所論を突き詰めていくと、究極においては、すべての芸道が、同一の境地に到達するように考えられます。けれども、歌道と相資と考えられている仏道でさえ、その目的は異なっているのです。
 これは、それぞれの芸道にそれぞれの持ち味を認め、その区別をはっきり意識していないときには、互いに他を損なうものだ、と考えていたからです。
 「相資相反」という考えは、そうした区別の認識の上に立って、しかも共通の精神を有する芸道を、大きく分類したところに成立したのです。

 先賢をよそおって、「諸道において、真実傑出して、他の芸能にも優れている人はいない」というのが、心敬の本音であり、「一道にのみ専念する人が、天下の名声を得る」というのが、心敬の結論なのです。

 長年、子供の教育に携わってきた私には、心敬の結論がよく理解でき、また納得できます。
 たくさんの稽古事を並行して習ったお子さんで、大成された方を、私は知りません。反対に、お子さん自身が好きで始めた一つの稽古事を貫き、大成された方は、何人も知っております。
 「一芸に秀でる者は、百芸に通ず」という言葉があるように、まず一つのことに専念することが大切です。そして「一芸に秀でる」と、他の芸道においても、容易に大成することが出来るのです。


      夏至の夜の夢のつづきは玉手箱     季 己