行々てこゝに行々夏野かな 蕪 村
「ユキユキテ ココニユキユク ナツノカナ」と読むのだろう。
「行々て」は、『文選』に、「行々重行々、与君生別離」があり、また『和漢朗詠集』に、これを引用した源順の「行々重行々、名月峡之暁色不尽」がある。
自然と人間との、激しい気力の争いが、直ちにこの一句の男性的迫力となっている。
例のごとく、「現在」を連続性の時間中のある一点として取り上げ、今までの経過とこれからの予想とを、その一点へ封じ込めているのである。
この句が、夏野を活写すると同時に、雄々しい人生行路の縮図でもあるかのごとき無限感を生むのは、そこに起因している。
「行々重行々」という漢詩中の「重ねて」を変じて「こゝに」としたのは、「現在」の一点を強調しようとしたためである。
季語は「夏野」で夏。
「直射日光を真上から浴び、草が目も眩(くら)まんばかりに照り返している
夏野。行きに行き歩みに歩んで、自分の体は今ここのこの場所まで来て
いる。これから先も依然として、こういう中を行きに行き歩みに歩んでいく
ばかりである」
葭切の身の片がはの夕明り 季 己
「ユキユキテ ココニユキユク ナツノカナ」と読むのだろう。
「行々て」は、『文選』に、「行々重行々、与君生別離」があり、また『和漢朗詠集』に、これを引用した源順の「行々重行々、名月峡之暁色不尽」がある。
自然と人間との、激しい気力の争いが、直ちにこの一句の男性的迫力となっている。
例のごとく、「現在」を連続性の時間中のある一点として取り上げ、今までの経過とこれからの予想とを、その一点へ封じ込めているのである。
この句が、夏野を活写すると同時に、雄々しい人生行路の縮図でもあるかのごとき無限感を生むのは、そこに起因している。
「行々重行々」という漢詩中の「重ねて」を変じて「こゝに」としたのは、「現在」の一点を強調しようとしたためである。
季語は「夏野」で夏。
「直射日光を真上から浴び、草が目も眩(くら)まんばかりに照り返している
夏野。行きに行き歩みに歩んで、自分の体は今ここのこの場所まで来て
いる。これから先も依然として、こういう中を行きに行き歩みに歩んでいく
ばかりである」
葭切の身の片がはの夕明り 季 己