壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

二種類の力の美

2011年06月16日 20時49分06秒 | Weblog
        さみだれや大河を前に家二軒     蕪 村

 この「家二軒」は、彼方の岸にあるのか、此方の岸にあるのか。われわれに前面を見せているのか、背面を見せているのか。
 人それぞれに、解釈はさまざまであろう。わたしには、彼方の岸にあって、前面を見せているように思える。変人ゆえ、おそらく少数意見であろう。
 この家は、樹木も何もない堤防の上に隣接して、二軒だけで立っているのでなければならない。なぜ一軒でも三軒でもなく、二軒に限るのか。
 「二」という数は本来、相互に扶助し、励まし合う気持を含んでいる。それがこの場合かえって、共に空しく危険にさらされ、共に孤立無援の状態にあることを、強く印象づけるのに有効なのである。

 「大」と「小」を対照させている点、「季語」と「配合物」と「その状態」との三要素から成り立っている点、しかもその状態が未来を暗示する途中の姿で示されている点、「家二軒」という数の限定をしている点――すべて、蕪村の句作方法としては、常套を踏んでいるに過ぎない。
 しかるに、それらの条件がこの句にあっては渾然と一致し成功しているがゆえに、蕪村の代表作でも最もすぐれたものとして、喧伝されているのである。

 芭蕉にも、
        さみだれをあつめて早し最上川     芭 蕉

 の句があって、同じく五月雨の豪壮味を詠んだ秀作である。こちらは、最上川の姿ではなく、最上川そのものの“いのち”が、五月雨の“いのち”と一つになって、リズムのとうとうたる流れとなっている。
 蕪村の五月雨の濁流の景を眼前に見ることは出来るが、芭蕉の濁流の音は心の耳で感得しなければ聞くことは出来ない。
 蕪村と芭蕉とは、各自の五月雨の句によって、芸の世界における「二種類の力の美」を、われわれに提示してくれている。

 季語は「さみだれ」で夏。

    「長々と降りつづけた五月雨のために、大河の水量は今や、堤防をしのごう
     とするくらいに増している。しかも、このとうとうとみなぎり流れる濁流を前に、
     堤防の傍らには小さな家がただ二軒、励まし合いながら寄り添い立って
     いる。雨は小やみもなく降りつづけ、水量は刻々と増しつづけている」


      殺さるる牛の眼二百 梅雨深し     季 己