壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (112) 至高の心構え③

2011年06月25日 20時44分32秒 | Weblog
        ――和歌や連歌も、仏教の三身(さんしん)と同様である。
          法身(ほっしん)・ 報身(ほうしん)・応身(おうしん)、また、
         空諦(くうたい)・仮諦(けたい)・中諦(ちゅうたい)に相当する
         姿の句が必ずある。

          誰でもすぐに理解できる句は、応身の仏に当たる。一切の
         存在は、色(物質・肉体)・受(感覚・知覚)・想(概念構成)・行
         (意志・記憶)・識(意識)の五つの現象、眼・耳・鼻・舌・身・意
         の六つの感覚によって現す仏であるから、好士の眼識で理解
         できるものである。

          趣向を凝らし、品格があり、技巧的な句は、報身の仏の叡智
         に当たるものであろうか。人の機縁にしたがって、あるときは
         化現(けげん)し、あるときは化現しないので、知恵分別のある
         真の好士でなければ、会得することはできない。

          また、幽遠で理屈を超えて気高く、技巧を離れて融通無碍な
         とらわれない句は、仏の真身である法身に当たるものだろう。
          叡智でも修練稽古でも、容易に到達し得ない境地である。

          そうではあるが、修行工夫に年数をかけた俊英で、鑑賞、観
         察力のある好士だけは、通暁することができるであろう。
          それこそ、実相中道の心(偏りのない、厳正公平に現実を見
         つめ、正しい判断行動をなす心)にかなったものであるといわ
         れる。 (『ささめごと』法報応三身の歌連歌)


      浮いて来い浮けば沈めて時もどす     季 己