壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (110) 至高の心構え①

2011年06月23日 20時24分02秒 | Weblog
        ――この頃、世間に和歌をたしなまない者がいない、と言われて
         おります。和歌隆盛のときなのでしょうか。

        ――先達が語っておられる。
          誰も彼も和歌をたしなむようになったためか、まことに上下
         の階級はなくなり、互いに悪口雑言の限りを尽くし、下卑て淫
         らなさま、会席などの騒がしさ、早退や抜け出しを当たり前と 
         した軽薄な様子は、短時間に詩を作る機知・才能を競う、めま
         ぐるしさあわただしさのようである。
          まことに、歌連歌の道の賢聖が出てきて欲しい、世の乱れで
         あることよ。

          猛獣が山に勢力のある間は、小さい毒虫は、はびこらない。
          鷹の止まり木に、鷹が眠っているときは、こざかしい鳥や雀が、
         騒がしいという。
          する事が難しいのではない、心身を行ずることが難しいので
         ある。いや、行ずることが難しいのではない、善く行ずることが
         難しいのである。
          釈迦仏の入滅後、教法は存在するが、真実の修行が行なわ
         れない像法、仏の教えの廃れる末法の時代になると、堂塔や
         仏像が道端にたくさん打ち棄てられる。これはまさに、仏法衰
         滅の時であるといわれている。

          そうではあるが、時代も下がり、人間の性質も、昔には劣っ
         ていくのだから、今の世の、形ばかりの和歌愛好者であっても、
         風流心のある部類に入ろう。

          仏のいなくなった世には、仏の下の羅漢でも仏のようにし、
         羅漢さえいない世には、破戒無知の僧の身なりをした者を、尊
         いとして敬うという。
          金銀のない国では、鉛や銅でも宝とする。
          歌道も仏教同様、先哲の教えははっきりしているが、やる気
         のない人には到達できない道である。ただ、その人の持ってい
         る先天的根性能力が熟すか否かによるのである。
          代々の勅撰集は、規範として理想的なものであるが、私心の
         塊である成熟していない作者には、その詩美や風体などはわ
         かるまい。天の恩恵は、無私が当然だからである。
          仏教でさえも、長い間、菩提を欣求(ごんぐ)する者だけが、
         信じ受けられるとしている。
          どんな名医の良薬も、教えの通りに養生しない病人を治すこ
         とはできない。
          眼には見えても、理解することができない。それは氷の中に
         宝石をちりばめたり、水に絵を描くようなものであるという。


      花の束さげて片蔭つたひかな     季 己