壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

瓜の泥

2011年06月09日 17時24分20秒 | Weblog
        朝露によごれて涼し瓜の泥     芭 蕉

 初案は、
        朝露や撫でて涼しき瓜の土
 であった。しかし、それでは、触覚によって瓜についた土の涼しさを感じとったことになり、やや大げさな身振りが気になる。
 中七が下五に続く修飾語のかたちをとっているので、上五に切字「や」を用いたのである。
 だが、「朝露」と「瓜の土」とが、二物配合に近い印象を与えることになり、感覚の新鮮さが必ずしも出てはいないようにおもう。
 
 再案が、視覚的把握によって句を統一し、中七に休止を置いた構成にしたことは、この点で、句の感覚性をいちじるしく高めたと思う。
 しかし、「瓜の土」だと、朝露にぬれた土の新鮮さは出てこない。「土」よりも「泥」の方が、朝露が光るだけになまなましく切実である。「泥」は「土より土らしく」といえるのではなかろうか。「土」が抽象表現に近いならば、「泥」は具象そのものである。

 「土より土らしく」と書いて、『花より花らしく』の著のある洋画家の三岸節子を思いおこした。彼女は、終生、花をモチーフとしたことでよく知られている。
 著書が示すように、現実の花を超えて萎えない花、色褪せない花を描くことが、究極の念願であった。もちろん、現実には、眼前の現物の花を手がかりとして、いつまでも色褪せず、不滅の花を描くことで、「花より花らしく」具象的に表現することを目的としている。
 まさにこのことは、俳句にも通じる、非常に大切なことである。

 季語は「瓜」(まくわうり)で夏。「露」は秋の季語、「涼し」は夏の季語であるが、「瓜」が強くはたらいているので「瓜」としたい。瓜の感触が非常に生きている使い方。元禄七年六月、京都嵯峨での作。

    「朝露にしっとりと濡れたもぎたての瓜。少し泥のついてよごれているのが、
     かえっていかにも新鮮で、涼しく感じられる」


      風鈴の舌からことば尽くるなし     季 己

        ※ 舌(ゼツ)