――お気づきと思いますが、この段には“問い”の部分がありません。心敬の“答え”の部分から直接始まる、珍しい段です。
どんなに才能豊かで、深くその道に達した人であっても、心地修行がおろそかでは、至極の境地に達しがたい、と心敬は言います。では心地修行とは、どういうことを意味するのでしょうか。
心地修行とは、己の心を観察することにより心を錬磨し、真理に到達しようとする観法の一つです。本来は、仏教における観心修行のことです。
心敬は一貫して、作者=主体の在り方に重きを置き、いかに在るべきかを問題にしています。姿や詞、格式など、伝統的に和歌・連歌の大切なこととされてきた事柄を二義的なものと見なし、主体の心が歌道の本質であり、極めて肝要であるとする、徹底した観心論的立場を示すのです。
心敬は、主体の澄みきった静かな心で、景物に対峙することを志向していたのです。
「究極において、詠歌は、観照でなければならない」と、心敬は言っているのです。
そのためには、「己の道を至高のものと思い、執念一筋、命がけで最高峰を目指し、精進努力すること」が、大切なのです。
道因入道や登蓮法師の話などは、その道にひたむきに打込んだ歌人の話、という程度に理解したのでは、知恵第一の舎利弗の話以下の部分と、続き具合がはっきりしなくなってしまいます。
ここで言う心地修行は、ただの打込み方とは全く異なるのです。
禅語に『無常迅速』という言葉があります。簡単に言えば、「人生は、あっという間」ということです。時間は待ってくれません。だから時間を無駄にしないことです。一瞬一瞬を無意識にやり過ごさないことです。怠惰に過ごさないことです。
大腸癌が、肺と副腎に転移し、抗癌剤治療を受けている昨今、余命宣告こそ受けておりませんが、時間の大切さを、しみじみと実感しております。
自分の向かう方向を決め、残された時間を無駄にせず、必死の覚悟で毎日を生きたいと思っています。これも、『無常迅速』ということだと信じて。
登蓮法師の話にしても、その要点は、「人の命は、はかないもの。どうして明日を待っていられようか」にあったものと考えられます。
仏道修行者が、一切を放下して、一大事因縁(一切衆生を救済するという大目的)を明らかにしようとする心構えにも似た、必死の差し迫った心理状態に、常に身を置くことを、心地修行と称したのだと思います。
それは、歌や連歌に対する信仰の念がなくては出来ない修行です。源頼実のように、一命を捨てても秀歌を詠みたい、という必死の覚悟の人にしてはじめて、至極の境地に到達し得る、というのです。
心敬の時代と生活様式が大きく変わってしまった現在、心敬の主張する心地修行をそのまま実践することは、まず無理でしょう。
しかし、俳句を志す者として、「至極の境地に到達したい」という、志だけは高く持ちたいものです。
では現在、俳句を学ぶ者にとっての心地修行とは、どんなものでしょうか。心敬の考えにそって、箇条書きにしてみましょう。
1.俳句の道を信じ、俳句を好きになり、楽しむこと。
2.俳句を詠める幸せを実感し、すべてのものに感謝すること。
3.『無常迅速』を心に置き、“執念一筋”に、精進努力すること。
4.常に心を澄ますこと。
5.心打たれる、ものを観たり、音楽を聴いたりすること。
澄みきった静かな心で景物に対峙し、無技巧、無意識にこぼれた“つぶやき”。そういう作品こそが、人々の心を打つ、と心敬は言うのです。
青鷺の雨降るときは雨の色 季 己
どんなに才能豊かで、深くその道に達した人であっても、心地修行がおろそかでは、至極の境地に達しがたい、と心敬は言います。では心地修行とは、どういうことを意味するのでしょうか。
心地修行とは、己の心を観察することにより心を錬磨し、真理に到達しようとする観法の一つです。本来は、仏教における観心修行のことです。
心敬は一貫して、作者=主体の在り方に重きを置き、いかに在るべきかを問題にしています。姿や詞、格式など、伝統的に和歌・連歌の大切なこととされてきた事柄を二義的なものと見なし、主体の心が歌道の本質であり、極めて肝要であるとする、徹底した観心論的立場を示すのです。
心敬は、主体の澄みきった静かな心で、景物に対峙することを志向していたのです。
「究極において、詠歌は、観照でなければならない」と、心敬は言っているのです。
そのためには、「己の道を至高のものと思い、執念一筋、命がけで最高峰を目指し、精進努力すること」が、大切なのです。
道因入道や登蓮法師の話などは、その道にひたむきに打込んだ歌人の話、という程度に理解したのでは、知恵第一の舎利弗の話以下の部分と、続き具合がはっきりしなくなってしまいます。
ここで言う心地修行は、ただの打込み方とは全く異なるのです。
禅語に『無常迅速』という言葉があります。簡単に言えば、「人生は、あっという間」ということです。時間は待ってくれません。だから時間を無駄にしないことです。一瞬一瞬を無意識にやり過ごさないことです。怠惰に過ごさないことです。
大腸癌が、肺と副腎に転移し、抗癌剤治療を受けている昨今、余命宣告こそ受けておりませんが、時間の大切さを、しみじみと実感しております。
自分の向かう方向を決め、残された時間を無駄にせず、必死の覚悟で毎日を生きたいと思っています。これも、『無常迅速』ということだと信じて。
登蓮法師の話にしても、その要点は、「人の命は、はかないもの。どうして明日を待っていられようか」にあったものと考えられます。
仏道修行者が、一切を放下して、一大事因縁(一切衆生を救済するという大目的)を明らかにしようとする心構えにも似た、必死の差し迫った心理状態に、常に身を置くことを、心地修行と称したのだと思います。
それは、歌や連歌に対する信仰の念がなくては出来ない修行です。源頼実のように、一命を捨てても秀歌を詠みたい、という必死の覚悟の人にしてはじめて、至極の境地に到達し得る、というのです。
心敬の時代と生活様式が大きく変わってしまった現在、心敬の主張する心地修行をそのまま実践することは、まず無理でしょう。
しかし、俳句を志す者として、「至極の境地に到達したい」という、志だけは高く持ちたいものです。
では現在、俳句を学ぶ者にとっての心地修行とは、どんなものでしょうか。心敬の考えにそって、箇条書きにしてみましょう。
1.俳句の道を信じ、俳句を好きになり、楽しむこと。
2.俳句を詠める幸せを実感し、すべてのものに感謝すること。
3.『無常迅速』を心に置き、“執念一筋”に、精進努力すること。
4.常に心を澄ますこと。
5.心打たれる、ものを観たり、音楽を聴いたりすること。
澄みきった静かな心で景物に対峙し、無技巧、無意識にこぼれた“つぶやき”。そういう作品こそが、人々の心を打つ、と心敬は言うのです。
青鷺の雨降るときは雨の色 季 己