壺中日月

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「俳句は心敬」 (107) 絶えざる稽古修業

2011年06月19日 22時30分24秒 | Weblog
        ――稽古も歌の詠みぶりも同じ程度の人で、後々、思いのほか優劣が
         ついてしまうことが多く見受けられる。
          実際、老いも若きも、諸道に優劣のない人も、稽古修業を怠ると、
         途中でつまずき追い抜かれてしまうということは、さまざまな道や
         分野においてよくあることである。
          和歌の道に少しでも油断すると、二、三年の間にも、雲泥の差が
         生ずること必定である。

          昔、隆信・定長といって、歌の巧みさも、稽古修業も優劣のない、
         名声を博した人がいた。
          隆信は君に仕官し、定長は出家して寂蓮法師と名を変えて、墨染
         めの衣をまとい、暇のある身になって、日夜、和歌の道を修業なさ
         っているほどに年月がたち、隆信とは比べものにならないほどの歌
         聖になった。
          隆信は言ったという。
          「自分も早くこの世を去っていたなら、名声も残していたろうに、
         なまじ長生きをしてしまったために、とんでもない浮名を流してし
         まった」
          と、いつも嘆いておられた。歌道への切なる思いの言葉である。
           「同じ苗でも、途中で枯れて花が咲かないものがある。花が咲
           いても実にならないものがある」ということだから、「細心な
           用意と稽古修業が、どんな分野でも肝要」ということである。

          誠に、諸道に入門当初は優秀で将来を嘱望され、名声を輝かすで
         あろう人で、早死にする者が多い。不本意で情けないこと、この上
         ない。
           孔子の弟子の顔回や伯魚でさえ、一生不幸のうちに、早くにこの
           世を去った。
           うまい水が湧き出る泉は、早く枯渇し、真っ直ぐな木は、真っ先
           に切られる。
           年に二度も実がなる樹は、枯れやすく、重い荷を積んだ船は、
           転覆しやすい。

          優秀な人でも、あまり長生きすると、生きている有難味がうすれ、
         好奇心や感動が乏しくなるのが常である。
          たいした取り柄もない人が、長く生きすぎ、老残の身をさらすの
         も、あまりにも情けないことである。
           孔子は言っている。「若いときは思い上がった態度をとり、成長
           してもたいしたことなく、よぼよぼになるまで生きながらえるの
           は、世間に害毒を与える賊のようなものである」と。
           兼好法師の言葉に、「人は長生きしても四十歳まで」と書いたの
           は、なんとも奥ゆかしく、素晴らしい言葉である。
                         (『ささめごと』真の歌仙と生涯の修行)
     

 ――ここも前段からの続きです。この段の話は、「どのような道も、油断して稽古修業を怠ると、わずか二、三年のうちにでも、雲泥の差が生ずる」ということに尽きるでしょう。

 道の修業は、死に至るまでの不断の精進を必要とすることの一例としてあげた話なのです。
 このように、長年月の修業が必須の条件であればこそ、優れた才能・素質を持ちながら、花も咲かせずに夭折する者の多いことを、「不本意で情けないこと、この上ない」と心敬は嘆くのです。
 「顔回」は孔子の弟子で、学問を好み、怒ることなく、過ちを繰り返さず、二十九歳で白髪となり、不幸にして短命であった人です。
 「伯魚」は孔子の実子で、孔子より早く、五十歳で亡くなりました。

 それに引き続いて、「優秀な人でも、あまり長生きすると、生きている有難味がうすれ、好奇心や感動が乏しくなる」と、今度は長寿を否定するのです。
 (ということは、生きていることに感謝し、好奇心を持って、感動の毎日を過ごせば「長生き」OKということ?)
 ここには論理の飛躍がありそうですが、実は、先の隆信の「自分も早くこの世を去っていたなら、名声を残したろうに、なまじ長生きしてしまったために、とんでもない浮名を流してしまった」という部分を受けているのです。
 「隆信」は、歌人にして似絵(にせえ)の名手。瞬時にしてその人の特徴をつかみ、大勢の顔を描き分けられたといいます。父は大原三寂の一人、藤原為経。為経出家後、母が俊成と再婚。そして生まれた子が定家なので、隆信は、定家の同母異父兄ということになります。
 「定長」も隆信と同時代の歌人です。はじめ俊成の養子になりましたが、定家が生まれて養子を辞して出家、法号を寂蓮といいます。『新古今集』の撰者に選ばれましたが中途で、六十余歳で亡くなりました。
 ちなみに、『千載集』には、隆信、定長ともに七首、『新古今集』には、隆信三首、寂蓮三十五首、それぞれ入集しております。

 心敬にとっては、生涯をかけて不断の精進をつづけてゆくか、あるいはそれが不可能なら、むしろ死を望むのか、いずれしかないのです。
 そうした緊張した生を過ごしたいという気持も、つまりは、この道に対する執心のなせる業なのです。それが、兼好の「人は長生きしても四十歳まで」に、大いに共鳴する結果を生んだのです。


      麦秋のここも「大滝」峡の村     季 己