壺中日月

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「俳句は心敬」 (108) 至極の歌人

2011年06月20日 21時36分11秒 | Weblog
        ――諸道に好士は満ちあふれているけれども、思い入れ深き人は、
         少ないものなのでしょうか。

        ――先達はこのように語っておられた。
          和歌の道に、思いもおよばないほど優れた人は、昔もわずかに
         一人、二人に過ぎなかったが、まことに少ないものである。
          歌の道は、振り仰げばいよいよ高く、切れば切り込むほどいよ
         いよ堅い道である。
          だから、一刹那といえどもゆるがせにせぬ修業を積まなければ、
         奥義を究めにくい深奥な境地である、といわれる。

          千里の道程も、最初の一歩から始まり、高い山も、細かい塵や
         泥から起こるのである。
          仏法にも、敗壊(はいえ)の無常といって、人間の体がじょじょ
         に腐り朽ちていくことは、小乗の求道者も悟り知ってはいる。
          だが、念々の無常といって、刹那刹那に生滅していく現象が、
         あらゆるものにあるということは、大乗最高位の菩薩だけが悟り
         得るのである。
          一瞬の怠りもなく、長年にわたって修業する歌人は、九牛の一
         毛のように数少ない。楚の国でも、屈原一人のみが自覚したとい
         うことである。
          仏陀が正法眼蔵、涅槃妙心を説かれた場所でも、弟子の迦葉ひ
         とりが理解して微笑したとか。
          禅家の心印の単伝とか、深密な印相とかは、文字に表現できず、
         直接に心から心に伝えるしかない玄旨な道である、といわれる。
                     (『ささめごと』道に達することの難しさ)


 ――「至極の歌連歌は、完成された人間の所産に他ならない」と、心敬は言うのです。これは歌連歌に限らず、すべての分野に言えることだと思います。
 そうした人間は、一瞬といえども停滞することのない、心地修行の究極に形成されるはずのものでした。ですから、至極の作品を生み出し得る者は、そうざらには見出せなかったのです。

 「一瞬の怠りもなく長年にわたって修業する歌人は、九牛の一毛のように数少ない」以下の部分は、そうした至高の境地に至り得た者が、いかに稀であるかを繰り返し述べたのも、いい加減な修業では到達できない境地であることを、強調するために他なりません。

 「振り仰げばいよいよ高く」は、どの道も同じです。
 まず、「その道」に飛び込むことが大切です。
 つぎに、良き師を選ぶこと。そうして基本を学び、技術を磨いてください。ここまでは誰でも出来ます。
 師についても学べないのが、心の修行です。
 心敬は言います、「最も大切なことは、心を磨くことだ」と。
 この心地修行を怠ることなく続けることは、誰でも出来るということではありません。けれども、まったく不可能なことではありません。
 昔ならいざ知らず、現代では、山里に隠棲するわけにもまいりません。
 「無常迅速」を胸に秘め、毎日毎日を「光輝心(好奇心)を持ち、感謝の心で、切に生きる」こと、これが、今の世の中では、大切なことではないでしょうか。


      白地着て風はむかしの咄かな     季 己

        ※ 咄(はなし)