壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (103) 高士の風格②

2011年06月12日 22時32分46秒 | Weblog
 ――その道に練達するには、師匠や多くの先達から、実作についていろいろと指導を受けるのが普通です。
 それなのに、ひたすら風雅の道に心をひそめ、幽栖閑居を好み、普通の会席にも出ず、人にも知られていないのに、いつの間にか堪能の士として名を博する。一体そんなことがあり得るのでしょうか。
 心敬は、古人の言を引き、幽栖閑居を好み、普通の会席に出ないような人の中にこそ、真の歌人がいることを是認しています。そして、それを証明するために、たくさんの隠遁者たちの逸話を、飽くことなく列挙しているのです。

 真の作品には、不可欠の条件として、世俗を超越し、常識的な見解に煩わされることのない、高士的風格の投影がなければならないと、心敬は考えていたようです。
 連歌の会を持つとすれば、そうした高士同志の会合のみが有意義であり、優れた自己も、そうした場においてのみ形成されるというのです。

 「経巻を手にすることはなくても、常に心の中で経を唱え、声に出すことはなくとも多くの経典を暗誦する」というのは、例の凡灯庵が、「連歌は座になきときこそ連歌だ」と言った言葉に通ずるものです。
 連歌の席で、堪能の士にもまれて切磋琢磨することの必要性を、心敬が痛感していたことは、前にも述べたとおりです。それにも増して、常住不断の心法、つまり、ふだんから常に継続する心がけは、重視すべきものでもあったのです。
 志浅い連中は、表面的には数寄・熱心の姿勢を示しますが、内心は、まったくやる気のない軽薄者なのです。

 心敬の最大の関心は、表現の主体如何にあって、表現されたものは要するに、枝葉末節に過ぎなかったのです。表現の主体、つまり、作者の心持ちが大切で、その作品は、枝葉末節に過ぎないということです。
 水のように澄んだ心から、水のように、無技巧、無意識にこぼれたもの、そういう作品こそ人の心をうつ、と心敬は考えていたのです。

 以下、少し長くなりますが、現在、読売新聞に連載中(月一回)の『魂の一行詩』(角川春樹)より、引用させていただきます。

        澄む水の器でありし一行詩     春 樹

     いま、私の目指す地点は、一行詩という器に澄んだ水のような世界を盛る
    ことにある。水のようなさりげない日常の中のドラマ性である。そこに深い思
    想が生まれる。言葉を飾らず、自分の「いのち」と「たましひ」を詠い、読者の
    心と魂に共振れさせる一句である。
     詩(うた)とは、古代、訴えることから由来した。詩(うた)は人の心を撃たね
    ばならない。
     私はいま、改めて「水の思想」に思いをめぐらしている。私の目指す一行詩
    は「水」のように、無技巧、無作為、つまり無意識ということになる。水自身に
    は意識がない。しかし、水を包む器があると、水に意識が生まれてくる。
                           (「澄んだ水を盛るように」より)


      裸足にも遊びもできぬ砂場かな     季 己